映画を撮る上で欠かせないのが、役者。映画を撮る際に、周りに声をかけるという手もありますが、多くの役者が活動する演劇の公演を見て、次回作の出演者を考えるのも一つの手です。
MEI-note
(http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Stage/9614/index.html)
では、盛岡で催される公演情報をまとめて掲載しています。盛岡は、約20団体の劇団が活動する演劇都市。いろいろな劇団の公演を見て役者探しをするのに良いと思います。
映画を撮る上で欠かせないのが、役者。映画を撮る際に、周りに声をかけるという手もありますが、多くの役者が活動する演劇の公演を見て、次回作の出演者を考えるのも一つの手です。
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では、盛岡で催される公演情報をまとめて掲載しています。盛岡は、約20団体の劇団が活動する演劇都市。いろいろな劇団の公演を見て役者探しをするのに良いと思います。
TDKのサイト内に、映像作家 貫井勇志氏に寄るショートフィルム・ワークショップが掲載されている。貫井氏は、昨年のREFEST2002でもワークショップ講師を務めている。
2003年9月8日付けの日本経済新聞、40面の文化欄に「映画館・大学・自治体が連携の試み」という記事が載っていた。青山真治監督の最新作「月の砂漠」を取り上げた記事だ。
この映画には、青山監督の出身大学である立教大学が特別協賛として参加している。また、この映画が上映されるテアトル池袋などの映画館等で構成される「池袋シネマ振興会」が本映画の宣伝を共同で行うことに合意したという。「池袋で映画を見よう!」というステッカーの制作を行うそうで、これを池袋区が後援している。
立教大学は、青山監督以外にも、クロキヨ、周防さんなどを輩出しているとか。区長に寄ると、街の特色として学生や映画人が集まる街にしたいとのこと。ちなみに、彼も立教大学出身だとか。
盛岡には、ミステリー映画祭、盛岡自主制作映画祭と言う二つの映画祭があり、人口に対してのスクリーン数は日本一であり、フィルムコミッションもできた。そろそろ、そういう動きをとる必要があるんじゃないだろうか。本当のコンテンツは何かと言うことを、考えるべき。問題は、その音頭を誰がとるか。専らいないという噂であるが。結局、人材育成に話が戻るわけだ。
よく映画やドラマのロケ地になることを自治体は喜ぶ。なぜなら、観光資源になるから。でも、それ以外に何かが残るかと言うと、微妙である。なぜなら、中央の人がやってきて、撮って、中央に帰るだけだから。そして、映画は中央から配給される。そろそろ、ご当地映画って流行らないかな。
Hi8が、一般家庭に普及し始めた頃、自称「映像通」は、「Hi8には味がない。やっぱり、8mm(ハチミリ)が良い。」と口を揃えるように言った。彼らが、実際に、8mmを使い続けたかは不明だが、自主制作映画をつくる多くの人たちは、8mmフィルムで映画を撮ってきた。一方で、コストパフォーマンスが良いHi8や画質が良いベータカムを使っていた人たちは、8mm派からバカにされていたところがあった。あんな、安っぽい映像で映画が作れるかと。
映像作品をつくる人たちには、画質へのこだわりがある。そして、そのこだわりは、二つの相反する極へ向かうものである。
その極というのは、HiFiとLoFiである。画質の良さをとことん追求したHiFi、単なる画質の良さだけではなく、味のある映像を求めたLoFi。ただきれいな映像というのは、時にはもの足りな時があるのだ。その「時には」というのが、感情表現を多用する映画などである。記録や報道という分野では、臨場感のある鮮明な映像が求められるが、映画では決してそうではないのである。
僕自身、LoFiが醸し出す「味」というが好きだ。しかし、LoFiなものというのは、とにかくお金がかかる。8mmフィルムに関しては、いくら金があっても足りないような物である。まず、カメラ自体がすでに市販されていない。だから、中古を用意する必要がある。これ自体はお金がかからないのだが、問題はフィルムである。元々、フィルム自体が記録時間に対しての費用が高いメディアである。その上、今では、現像ができる場所は限られている。中には、アメリカに送らないと現像できない物まである。貧乏学生には、とても手が出ない物なのである。
今、世の中は、新しいHiFiを迎えている。それは、DVである。小さいテープにデジタルで高画質で記録する何回もダビングしても、ほとんど劣化がない。夢のようなコンシューマ(消費者向け)ビデオメディアである。僕自身、高校時代、このDVをフルで活用していたし、現在も借り物ではあるが、時々利用している。加えて、購入するため必死にお金を貯めている。
ふと思ったのだが、LoFi:HiFi=8mm FILM : Hi8という構図が代わろうとしているのではないか。
19(ジューク)のビデオクリップの中で、全編Hi8が使われている物がある。そして、その映像は確かにLoFiなのである。えっ?何だって!Hi8が、LoFiになった?良いのか、悪いのか、そうなってしまったのだ。でも、DVは、家庭でも業務用レベルの画質を実現できる可能性を秘めたメディアである。それに対して、Hi8は貧弱である。そして、DVを使い慣れてくると、Hi8に味があるように思えてきた。
新しい構図。それは、LoFi:HiFi=Hi8 : DVなのである。
僕らにとっては、Hi8が8mmフィルム的な存在なのかもしれない。先輩たちが、その青春を8mmフィルムにおさめたように、僕らはHi8におさめてきたのだから。
盆の終わり頃に、TBSで豊川悦司と加藤あいが主演した2時間ドラマで、過去(青春時代)を8mmフィルムで表現していた。30以上の人にとっての青春は、8mmフィルムなのかもしれない。僕が、今抱いている企画の中では、過去はHi8である。そう、僕らは、あのノイズが乗った嘘臭い色合い、輪郭の甘さが青春なのかもしれない。
でも、映画はVHSよりDVDだよな。
このタイトルからは、二つの文章を書くことができると思う。一つに、映画論的な内容のもの。そして、今、僕が書こうとしているプロデューサー的視点、インディーズ的視点での文章。
映画祭やコンペティションでは、商業、インディーズを問わずに、監督に注目が集まる傾向がある。特に、インディーズの場合、監督の写真だけが踊っていることが多い。
僕は思うのだが、その監督だけがその映画をつくったのだろうか。違うでしょ。もっと、いろんな人が絡んでいると思う。なのに、監督だけがプライズを手にしている。これは、おかしいことではないだろうか。
どちらかといえば、僕は監督よりの人間であるから、スタッフを集めて、仕事を頼む人である。加えて、お金をほとんど出さずに、人を使う部類の人である。そういう人間にとって、自分だけが格好いい振りをしているのは、気が引けるというより、我慢ならない。
インディーズ監督たちは、なぜインディーズで映画を撮るのだろうか。中には、例外もあるだろうが、ほとんどはインディーズじゃないと映画をつくることができないからである。そして、その映画をステップにして大資本の商業映画制作を目指しているのではないだろうか。そして、良い作品をつくると監督は、脚光を浴びる。だが、共に良い仕事をしたスタッフや俳優たちはどうなるのだろうか。
そこで、僕は思うのだが、映画は「総合芸術」ですよね。いろんなクリエイター、アーティストが集まってつくられるのが映画であって、映画監督または映画監督志望だけがつくるわけではない。であるから、その映画によって持たされるチャンスは、できれば平等にスタッフたちに持たされるべきではないだろうか。
もちろん、みんな平均点(実力に対して払われるチャンス)であることを望んでいるのではなくて、チャンスを得るためのチャンスは平等であると思うのだ。つまり、その映画を監督だけが名刺にするのではなくて、スタッフ全員が名刺にする必要があると思うのだ。
俳優ならば芸能プロダクション、劇団に対して、音楽監督ならばレコード会社に対して、衣装・スタイリストならばその業界にと。もちろん、プロデュース側の人間も、それを名刺に映画界を渡り歩くとか。
同時に、インディーズ映画を受け付ける映画祭、コンペは、スタッフ・俳優たちにも注目し、適切な評価を与えるべきである。考えてみると、アメリカのアカデミーは、その時代のスタッフ構成に合わせて、賞を増やしてきている。インディーズの世界でも、そう言ったことが必要ではないだろうか。
これらのことが実現できるならば、スタッフのほぼ全員が、目的意識を持って、映画制作に望め、自分たちの得意な分野で素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるのではないだろうか。
最後になるが、映画制作を仕掛けた人間たちは、自分たちの売り込みだけではなく、スタッフや俳優たちの売り込みも一生懸命に行う必要があると思う。そういう関係が、良いコラボレーション(共同作業)を発揮できるのではないだろうか。