東北五県合同上映会レポート

東北五県合同上映会のレポートを掲載したフリーペーパに寄稿した文章をここにも掲載します。結構長文です。なにしろ、どの執筆者よりも長かったという。当日の座談会で話された内容をフォローしつつ、自分のインディーズ映画に対して思うところを綴ってみました。

いかにインディーズ映画制作者としての活動を広げていくか

今回の東北5県合同上映会(以降、T5)における座談会を振り返ってみると以下の4点にまとめられるのではないかと思う。

  • 宣伝戦略
  • 配給
  • 評論・批評(インディーズ映画コミュニティの構築)
  • 上映会、映画祭の在り方

行く前までの予想では、映画製作の撮影や編集の話にもなるのかなと思っていたのだが、意外にも参加者の関心は、いかに完成した映画を観客に魅せていくかと言うことにあったようだ。

ここ最近、ショートフィルムへの関心、DV, DTVの普及により、地方におけるインディーズ映画製作の制作環境が改善されつつあり、撮ることの次のステップである「みせる」というステップに新たな展開を求めているのかもしれない。

宣伝戦略

自分は今回第1部の後半から出席することになり、第1部で多く語られた宣伝だとか告知に関する話し合いに参加することができなかった。他の参加者からの感想、自分が参加してからの話を聞いてのことをもとに書きたいと思う。

基本的に、インディーズ映画は宣伝・告知の分野において苦戦している状況にあるようだ。折角、映画を作って上映会を開いても、集まるお客さんは作品関係者、身内などがほとんどで、一般のお客さんに観てもらうというところまで至っていないケースが多いようである。そういう状況下の中で、自分が住む岩手県盛岡市で開催されている盛岡自主制作映画祭 MOVIN’3や自分がプロデューサとして製作した「戸ノ岡物語」の宣伝活動、集客などをいろいろ評価していただいたことは嬉しい。しかし、その一方で「誤解」もあるのではないかと思う。その誤解のところに、実は状況を改善する答えがあるような気がする。

チラシ

インターネットのWEBサイトが重要な宣伝ツールになったとはいえ、作品や上映イベントを知るきっかけの入り口として紙媒体のチラシは、今でも非常に大きい存在である。座談会でも、チラシの質というのは非常に上映会の動員につながる要素だという話しになった。また、チラシのデザインを変えることで、これまで置いてもらえなかったようなセレクトショップ系の店舗にも置いてもらえるようになったという、宣伝の幅が広がった事例も報告された。

しかし、インディーズ映画界においてチラシをデザインする人材が慢性的に不足しているという問題がある。自分が思うに、すべてをまわりのインディーズ映画関係者で完結する必要はないと思う。どのジャンルにも、インディーズはいる。グラフィックデザイナを目指す学生やインディーズでフリーペーパを発行している人たちもいる。そういう人たちに声をかけて、一緒にチラシを制作していくというのも良いと思う。実際、盛岡自主制作映画祭でチラシなどのグラフィックを担当しているのは、必ずしもインディーズ映画関係者とは限らない。大学でグラフィックデザインなどの美術を専攻している学生、そういった分野に興味があったり長けているスタッフがチームを組んで制作に当たっている。

宣伝展開

チラシを作っても、それをいろんなお店や施設に設置しもらわなければ、いろんなお客さんの手には渡らない。そのお店や施設を一店一店回るのは骨が折れる作業だ。座談会で、学生が主体に運営している盛岡自主制作映画祭の事例を述べさせてもらって、週末などに参加できるスタッフが目抜き通りに集合し、分担して一気にチラシを撒くというような話しをさせて頂いた(らしい)。すると、それはやっぱり学生だからできることで、社会人になるとそんな時間はないという意見もあったようだ。自分は、ここで敢えて言いたい。それは、甘えであると。

自分たちが、インディーズ映画を撮り始めて、合同上映会的な形で映画祭をスタートさせたときも、また単独で上映会を企画したときにも手本とさせてもらったのが、盛岡のアマチュア・インディーズ演劇界である。盛岡には、約20劇団ほど存在しており、実は演劇の街でもある。彼らのほとんどは、昼間は会社員として働いており、夜に稽古をし、時間をやりくりして公演を行っている。彼らももちろんのこと、チラシ配布は行っているし、ピンポイント攻撃であるチラシの折り込みなどを積極的にこなしている。そういう姿を見ていると、できないことは無いと思うのだ。

マスコミを通しての情宣

マスコミを使うということも一つの宣伝である。予算がないインディーズ映画においてCMをうつなど夢のまた夢であるが、いろいろな工夫でメディアに露出はできる。例えば、テレビでもラジオでも情報番組の中にはイベント紹介コーナなどがある。局に連絡を取れば、結構な確率で紹介してもらえる。これは、紙媒体でも同じである。一行でもイベントがありますよとインフォが載っていれば、それだけでも違うはず。

自分は、第1回盛岡自主制作映画祭で宣伝・広報を担当した。知り合いのフリーライターの方に教えて頂いてプレス(ニュース)リリースを作成し、盛岡に本社・支局を持つメディア関係のすべてにFAXまたは送付した。おかげさまで、ほとんどのメディアに取り上げて頂くことができた。A4数枚の資料が一気に映画祭をブレークさせる立役者になったのだ。こういった取り組みは、現在でも映画祭では行っているし、自分が行うイベントでは常時行っている。意外と、ネタが少ない地方。記者の人たちは、日々ネタ探しをしている。そういう人たちの目にとまれば、ローカルニュースで特集を組んでもらえることも目ではない。特例ではあるが、テレビ局のWEBサイトの動画配信企画と連携させて頂いて、TVCMを流させてもらったこともあった。

座談会の話を聞いていて一つ驚いたことは、組織に宣伝・広報担当がいないことが多いらしい。人が少なくても、その担当は置いた方がが絶対良いと思う。観客の人に対しての重要なインターフェースの一つである。作品のおもしろさを良い形で伝えられるスタッフは、映画作品の成功に置いて重要なキーパーソンだと思う。

配給

撮影などの映画制作と上映会などの配給を分業化できないかという議論も出た。実際に、映画を撮っている人ならば、実はそういうことをいつも考えていると思う。何しろ、編集を終えるまでに疲れ果ててしまって、それを人に見せるためのエネルギーを結構疲弊させてしまっていることが多い。自分も、いつも周りのスタッフに助けられている。配給の分業に関しては、後半で触れる映画祭・上映会の在り方についてにも関わってくる問題だと思う。

自分が思うに、商業映画と比べたときのインディーズ映画の特権は、上映の最後の最後まで監督が携われると言うところにあると思う。やろうと思えば、最後の客出しまで監督が立ち会える。つまり、観客一人一人と最後まで接することができるのだ。否定的に言えば、そこまで監督がやらなくちゃ行けないのか?というのもあるかもしれないが、自分はその「直販」的なところも魅力的だ捉えている。
どのような場所で、雰囲気で作品を見せるかというのも、大切な「演出」ではないだろうか?自分が上映会をするときには、空間デザインを得意とするスタッフにお願いして、会場作りにも気を配っている。お客さんに届ける最後の最後まで演出できるのが、理想だと思っている。

あくまでも、自分は「分業」には、否定的ではない。分業という点で言うと、上でも書いたように、自分の場合、上映会担当を設けて会場の手配や当日の運営を仕切ってもらっている。設備関係などは、ホールの方、機材に詳しいスタッフなどが担当するが、飾り付け・什器などの配置は担当スタッフが見取り図とにらめっこしながら、いろいろ素敵なデザインをしてくれている。確かに、これは「上映会場」担当かもしれないが、どの土地で上映していこうか、またはどのメディアに売り込んでいこうかなどを考えていく配給、大きく捉えればプロデュースワークというのを監督以外のスタッフが担当していくというのは重要である。自分も、このことに関しては昔から取り組んでいる問題だ。良い映画を撮ると同じくらい、良い映画を売り込むというのも大事なことだ。ここまで書いてきた内容を考えても、その点が今の東北のインディーズ映画には足りないのかもしれない。と言っても、商業映画においてもプロデューサ待望論が叫ばれて久しい。実は、日本のコンテンツ制作における全体的な問題かもしれない。

評論・批評(インディーズ映画コミュニティの構築)

座談会の中で、インディーズ映画について評論・批評する場がないという話しが一般参加者の方から出て、いろいろ話しが発展したのだが、その議論に参加しながら、全体的に焦点が絞り切れていないなと感じた。というのも、観客側が批評・評論するのと、映画祭・上映会主催者側が批評・評論する行為は、似ているようで違う。そこを分けて議論しなければいけないと思うのだが、用語の定義、テーマの切り分けが成されないまま議論が進んでしまいもったいないなと感じた。ここでは、観客側のを「評論・批評」と捉え、映画祭側のを「キュレーション」と捉えて話を進めたいと思う。

なぜ、インディーズ映画には「おすぎ」みたいな評論家がいないのか?という問題定義で始まったこの議論。たしかに、インディーズ映画評論家という方にお会いしたことがない。インディーズ映画の流通がまだまだ多くなく、評論できるほどの本数を観ている人が少ないという状況があるのではないだろうかという推測もあった。要は、インディーズ映画を楽しむという人たちのコミュニティがまだまだ成熟していないというのがあるのではないだろうか?

インターネット上には、商業映画についての感想がつづられた数多くの個人サイトがある。そういった個人サイトが増えていくことが、実はインディーズ映画の評論を生み出していくのに必要なのではないかと思う。つまり、インディーズ映画についての感想・意見を話せる雰囲気を作り出していくというのも、これまた大事なのだと思う。

映画作品が制作者側から投げられたボールなのだとすれば、感想や評論は観客が投げられたボールなのである。ありがちな例えではあるが、そのキャッチボールができる環境をつくるというのも大切なのだ。インディーズ映画は「観る」という行為で終わってしまっている場合が多いと思う。

上映会、映画祭の在り方

世に出てくる作品数が増えてくると、すべての作品を観るわけにはいかないので、どの作品が自分好みなのかを知る手がかりが欲しくなる。すると、評論家による道先案内というの重要になってくる。

商業映画とは違って、その流通経路が少ないインディーズ映画は、どの映画がおもしろいのかというのを予め知って、それを狙って作品を観るというのはかなり難しい。よって、おもしろそうな映画が集められている上映会や選りすぐりの作品が上映される映画祭の存在は、インディーズ映画を観ようとしている人たちにとって大きい存在である。

ここで求められてくるのは、どういう視点で作品を選ぶかと言うことである?様々な作品が集められる上映会においては、どういうジャンルでとか、どういう雰囲気の映画を集めるかが直接観客の求めるところにつながってくる。主催者側はそういうことを意識しながら、その上映会らしい作品選定をしていかなければならないのかもしれない。座談会では、こういった行為をラベリングするという捉え方もされていた。一つの方向性の中で作品を選んでいく。服で言うとセレクトショップのように各ブランド(映像作家)の服(作品)をチョイスしていくような感じである。

インディーズ映画を扱う映画祭やコンペティションはとても増えた。今回のイベントでもそうだが、東北でもそういったイベントが無いのは1県だけという状況である。岩手、青森、山形などでは、原則的に各県の出身者の作品を公募して上映している。よって、それぞれの地域性が少なからずとも出ているが、そのラインナップが果たして映画祭の個性と捉えたときに、はっきりとした個性が出ているかという疑問はあるのではないだろうか。また、日本各地、世界各地から作品が寄せられるコンペになってくると、特にもどういった作品を選ぶかと言うところで、その映画祭の個性に違いが出てくる。つまり、応募されてきた作品の中から、人に見せられるレベルの作品を選ぶとか、おもしろい作品を選ぶとか、そういう次元の審査から、我々の映画祭では、どういった審査基準で作品を選んでいくということを一本立てることが重要ではないかと思う。それは、作品性、作家の将来性、現在の映像表現の潮流における相対的な評価など踏まえての審査が求められる。

ただ選ぶから、推奨する。その域へ映画祭を持って行くことが必要である。座談会では、審査員の質や審査方針が確立されていないという声も出ていた。昨年から、各地の映画祭のコンペで審査基準、審査員のコメントを公開していくという審査の透明性、また審査に対する責任所在を明らかにしようと言う動きが出てきている。これは、観客からの評論によるメッセージと同じくらい、そういった審査員からの評価というメッセージが、つくり手、そしてインディーズ映画コミュニティに対してプラスになるからである。

こういったことは、現代美術において、キュレーションという形で重要な仕事として認められている。いかに新しい才能を発掘し、そして世に出していくか、また育てていくか。各地のビエンナーレでは、キュレーションを行うキュレータ達は大きな力を持ってる。インディーズ映画にも、こういう動きが重要なのだと思う。座談会ではプライズ(賞)を上げないで、上映ということ、またその作品に対するコミュニケーションができる場を提供することに力を注ぎたいという意見もあったが、プライズはプライズであると自分は思う。しかし、どのような形でプライズを上げるか、そしてプライズを上げた後に、そのつくり手たちにどんな風に接していくかで、これからの映画祭のあり方が問われるような気がする。それは、インディーズ映画コミュニティを育てるという意味で重要なことだと思う。

座談会について

今回、東北5県のインディーズ映画に携わる人たちを中心に、お話しをさせていただいた。非常に、今回の場は有益なものだった。仙台で動いてくれたスタッフの皆さんに、改めて感謝したいと思う。

次回以降のこういったイベントに対しての要望を少し書かせていただければ、パネルディスカッション形式になどにして、議論の流れを整理しながら問題点を探り、解決の糸口を見いだせるような議運をできればなと思う。その後に、他の参加者を交えての議論などを展開するのも良いと思う。

最後に

自分も含め、インディーズ映画に関わる人たちが、より多くの観客の皆さんに自分たちの作品を見せたいと思って考えているかを今回の座談会でとても感じた。それぞれの地域で、試行錯誤が行われていて、その事例を伺うことができて興味深かった。

エンターテイメント、アートにおいて、つくり手と受け手のコミュニケーションは必要不可欠だと思う。しかし、コミュニケーションというのは、本当に難しい。特にも、少数対大多数の形式のコミュニケーションというのは、これでもかと言うぐらい気を遣わないと、良い形で成り立たない。

観客からのボールをちゃんと受け取っているか。実は、今そんなことを考えている。ちゃんと返球が来るためには、良いボールを最初にこちらから投げなければならない。そして、そのキャッチボールをする場は、ちゃんと整備されていて、ワンバウンドのボールも捕球できるようになっているのか。それを今後も問うて、考えていきたいと思う。

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