映画は監督のものか?

 このタイトルからは、二つの文章を書くことができると思う。一つに、映画論的な内容のもの。そして、今、僕が書こうとしているプロデューサー的視点、インディーズ的視点での文章。

 映画祭やコンペティションでは、商業、インディーズを問わずに、監督に注目が集まる傾向がある。特に、インディーズの場合、監督の写真だけが踊っていることが多い。

 僕は思うのだが、その監督だけがその映画をつくったのだろうか。違うでしょ。もっと、いろんな人が絡んでいると思う。なのに、監督だけがプライズを手にしている。これは、おかしいことではないだろうか。

 どちらかといえば、僕は監督よりの人間であるから、スタッフを集めて、仕事を頼む人である。加えて、お金をほとんど出さずに、人を使う部類の人である。そういう人間にとって、自分だけが格好いい振りをしているのは、気が引けるというより、我慢ならない。

 インディーズ監督たちは、なぜインディーズで映画を撮るのだろうか。中には、例外もあるだろうが、ほとんどはインディーズじゃないと映画をつくることができないからである。そして、その映画をステップにして大資本の商業映画制作を目指しているのではないだろうか。そして、良い作品をつくると監督は、脚光を浴びる。だが、共に良い仕事をしたスタッフや俳優たちはどうなるのだろうか。

 そこで、僕は思うのだが、映画は「総合芸術」ですよね。いろんなクリエイター、アーティストが集まってつくられるのが映画であって、映画監督または映画監督志望だけがつくるわけではない。であるから、その映画によって持たされるチャンスは、できれば平等にスタッフたちに持たされるべきではないだろうか。

 もちろん、みんな平均点(実力に対して払われるチャンス)であることを望んでいるのではなくて、チャンスを得るためのチャンスは平等であると思うのだ。つまり、その映画を監督だけが名刺にするのではなくて、スタッフ全員が名刺にする必要があると思うのだ。

 俳優ならば芸能プロダクション、劇団に対して、音楽監督ならばレコード会社に対して、衣装・スタイリストならばその業界にと。もちろん、プロデュース側の人間も、それを名刺に映画界を渡り歩くとか。

 同時に、インディーズ映画を受け付ける映画祭、コンペは、スタッフ・俳優たちにも注目し、適切な評価を与えるべきである。考えてみると、アメリカのアカデミーは、その時代のスタッフ構成に合わせて、賞を増やしてきている。インディーズの世界でも、そう言ったことが必要ではないだろうか。

 これらのことが実現できるならば、スタッフのほぼ全員が、目的意識を持って、映画制作に望め、自分たちの得意な分野で素晴らしいパフォーマンスを見せてくれるのではないだろうか。

 最後になるが、映画制作を仕掛けた人間たちは、自分たちの売り込みだけではなく、スタッフや俳優たちの売り込みも一生懸命に行う必要があると思う。そういう関係が、良いコラボレーション(共同作業)を発揮できるのではないだろうか。

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