創作環境を改善していく

約1年ぶりのクリエイターズカフェ(以後、クリカフェ)が盛況のうちに終了した。今回のクリカフェは、自分が仕切る最後のクリカフェでもあり、クリカフェって一体なんだったんだろうなって、ふと考えた。


クリカフェは、つくり手の横のつながりをつくる。コラボレーションのきっかけ作りをしていくことが主な狙い所だったわけだが、果たしてそうだったのかなと思う。いや、別にそれを否定しているのでは無く、その裏と言いますか、その深部には、これまた別な思惑と言いますか。ややこしくなりますが、いやらしくもその奥にアラカワの狙うところがあったのだなと。

映画をつくるとき、正直言って一人では何も出来ない。アニメーションなどのものは、たまに一人でつくっている人がいるが、実写ならばその多くは共同作業になる。加えて、いわゆる映像系と呼ばれる演出以外にも、役者、音楽、美術、制作などいろんな人たちに集まってもらう。となると、知り合いが多くなくちゃ行けない。友だちが多くなければとは言わない。一緒につくってくれる人たちがそれなりにいないと何も出来ないのである。映画は、共同作業でできるものなのである。

自分が大学1年の頃、そんな知り合いはほとんどいなかった。欲しくても、どこでそんな人と知り合えば良いのかも皆目わからない。まぁ、気が付けばそういう人たちと知り合いになっていたと言うのが実際の所なのであるが。

クリカフェを始めた動機には、やはり一緒に自分と活動してくれる人たち知り合いたいというのがあったはずだ。「大義名分」の裏にある、自分の創作環境をさらに良くしたいと言う欲望だ。その欲望は結構花咲き、自分の活動のプラスになっている。クリカフェと言うイベントを通して、友だち何人できるかなと言う小学一年生が持つ楽しさを味わうことができた。

創作環境を良くしていくという点では、岩渕が始めた盛岡自主制作映画祭も然りかもしれない。実に思う、この4年半の間に映像を中心としたインディーズシーンは変わった。良い方向に変わっているのではないかと思う。広がりを持てていると言うか、つながりを持ちはじめることができて、やはり広がりと言う言葉が一番良いかな、そういう良さが出てきている。

創作環境を良くしていくと言うのは、決してつくり手が満足する環境をつくると言うことではない。インディーズシーン、市民アートシーンにおいては、特にも「つくり手」と「受け手」の環を大きくして、充実化していくことが大事である。今後も、クリカフェの使命はその流れの中の軸になっていくことだと思う。新スタッフたちに、こういったことを託していきたいと思う。

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