長女を外苑前の自転車教室に連れて行く。自転車の乗り方など、「教室」などに連れて行かなくても、親が教えれば良いじゃ無いかという話になるのだが、実際、親が教えようとすると、なぜできない!?と熱が入り、怒鳴り、叱り、子どもは転んで痛くて泣いているのか、ただ怒られて悲しいのか、もう分からずに…。ということになるらしく、それならば、自転車教室に預けて覚えた方が、子どもも下手に叱られることも無く、素直に覚えられるのだという。

結論から言うと、2時間ぐらいで、長女は自転車に乗れるようになってしまった。本当に、驚いた。本人には悪いが、今日は、まず乗れないだろうから、来週も来るかなぁと構えていたのだが。

ここで、教わる、教えるということの学びを得たような気がする。

河川敷で、泣きじゃくる子どもを自転車に乗せて、親が自転車の後ろを支えながら、走り、バランスを取らせ漕がせる。段々、バランスを取れるようになったら、転んでも、なんとか自転車に乗り続けさせて、ある瞬間バランスが取れて、1人で乗れるようになる。そして、ぱぁーと後光が差す。というのが、日本式スパルタ自転車習得法だ。

外苑前の自転車教室では、まず、ペダルを外した自転車にまたがり、足で地面を蹴りながら進むところから始める。ここで、体でバランス感覚を身につける。転びそうになったら、直ぐに足が付けるので、子どもは恐くはない。できるだけ、スピードを付けて前に進めるようにし、目線も下に落とさず、上(前)に向けるようにする。ここで、バランス感覚を身に付けると、ようやくペダルを付けて、漕ぐ練習になる。最初、漕ぐときは、自分が加えた足の加重による重心の変化に対応できないのだが、一度、感覚として覚えたバランスの取り方が生きてくるのだろうか、自分でバランスを取れるようになるようだ。

この間、子どもたちは、初老の講師たち(聞く限りでは、自転車メーカーをリタイヤした方々)に罵声を浴びさせられることも無く、必要なときにアドバイスをもらうだけで、自律的に学んでいく。特に、悪ふざけをする子どももおらず、子どもたちは、ひたすら自転車と、そして自分に向かい合う。

ここで考えさせられたのは、ゴールに向かうための過程をきちんと細かいタスクに分けられるかということだ。自転車教室では、最初に、バランスを見つけると言うことで、補助輪などを使わずに、ペダルがない自転車で身に付けさせる。そして、バランスを崩したときに、ギリギリのところで足を付けるという行為を身に付けさせ、体幹的に体でのバランス調整能力を身に付けさせる。次に、ペダリングによる重心移動の調整を習得させるという段階を経ているのだ。

そして、重要なのは、自律性の中で学習させると言うことである。これは、教える側の目標達成の仕方を考える必要がある。教える側が、子どもに、何かを覚えさせると言うことに執着し過ぎて、もしくは、そこに自己達成を求め達成されないことの焦りを感じたり、できない他人への理解が無いと、それがもどかしさにつながり、感情的になってしまうのではないだろうか。おそらく、感情的な教育、特に怒りの感情による教育は、ことさら子どもに対して良い効果は無いことが多いはず。教えると言うことの最大のゴールは、教えを受ける側が目標達成することにある。教える側の目標達成ではない。教えを受ける側の目標達成に向けての最善のルートは何か、そのことを最大限に考えると、どう取り組むべきか見えてくるのではないだろうか。

子どもが自律的に模索しながら学ぶ中で、壁にぶつかったときに、適宜に教えていく。それも、過剰では無く。その繰り返しが、良い学びの循環を生むのではないだろうか。

と、書くのは易しである。実際のは、そうも行かず、日々、子を荒げてしまうのだが。

あぁ、そうか、だから「教室」があるんですね。