zoom飲み会なるものを初めてやる。集まったのは旧知の仲なので、いつも、どこかの飲み屋に集まるように、忌憚のない話でおもしろい。だが、終始、コロナの話で、明るい話にしようと思っても、不安に苛まれる話に落ち着いてしまう。タイミングもあるのだろう。みんな、不安なのだ。東京、京都、盛岡をつないだので、それぞれが、それぞれの立場の不安やこの状況をどう乗り切ろうか、考えている。

いつもながら、勘違いが甚だしい私だが、今回も、あることに悔いている。COVID-19と最前線で闘っている方から御相談の連絡をもらう。311のときに、私、そして岩手が大変にお世話になった恩人の方からだ。ご相談の内容は伏せるが、残念ながら、今の自分の技術力や体制では到底、手に負えないものだったので、構築に向けてのメモを書く程度に留まることに。とても、悔しい。やります!と言って、翌朝には、どうでしょう?と言いたいところだ。めっきり、映像系の技術をいじっているので、オンラインサービスを構築するための、最近のモダンな技術がおろそかになっている。

311がほぼ10年前。どうも、こういった技術は何らかの周期で求められる。それも、危機的なときに。あぁ、悔しい。後悔だけがつのる。311後、何をやっていたのだろうと。「やりましょう!」と言える会社でも経営しておけばと柄にも無いことを思ってしまう。だが、あながち間違いでも無い。

自分の性分には、嘘はつけないのかもしれない。身頭ともに、筋トレをしよう。

長女が、今日始業式だったが、授業も無いので休ませる。

苦渋の選択でしたが、小学生は休ませました。考え方はシンプルです。親がリモートワークをしリスク回避しているのに、子どもをそのリスクの中に送り出すのあり得ないということです。(ちなみに、今日は授業は無し、始業式とHRだけの模様)

分散登校時は、ソーシャルディスタンスを確保するらしいので、状況がさらに悪化しなければ登校も考えています。今日は、1年生を除く全員登校、教室に全員を入れさせるらしく。ソーシャルディスタンスの確保もできない状況。
こういうことを考えている保護者もいるということを表明することで、同じ判断をした保護者を孤独にはしたくないと思い、書いた。

https://www.facebook.com/arakawakensuke/posts/10222323067047710?notif_id=1586129487483094&notif_t=feedback_reaction_generic

友人が、罹患しても軽症なのか重症になるのか、わからず、これはロシアンルーレットだと言う。確かに、そうだと思う。ならないと、わからない。しかしながら、ロシアンルーレットは引き金を引かなければ、その確率は発生しない。できるだけ、ロシアンルーレットの引き金を引く場には行かないことだ。

話は変わるが、暇にならない…。

朝練。意外と人がいるので躊躇してしまうが、体を動かすのは、ソーシャルディスタンスを取ってやる分には有効だという専門家の話もあるので、もっと早めの時間に出よう。しかしまぁ、気と体を緩ませると簡単に膨れる我が体よ。

いつのときでも、自分の妄想を企画書に落とし込むのは難産である。あんなに、頭の中にいっぱいあったような気がするものも、いざとなると数ページだ。数ページが少ないのか、多いのか、わからないのだが、こんなものだったのか?と、逆に恐くなる。自分の頭のキャパシティを。

家族で、スターウォーズのエピソード4〜6を観る。映画を観ている間は、確かに、この呪われた世界のことは忘れさせてくれる。

アートなどは、不必要なものだから…という言葉を聞くが、この緊迫した退屈な時間を過ごすのに、多くの人がアート、音楽、映画などの力で、ある意味生きられているのではないだろうか。確かに、アートではご飯は食べられないが、身体と心は一体である。メディアを通してアートに触れなくても、苦しいときに何か歌を口ずさむだろう。じゃぁ、その歌は誰がつくったのだろうか?

多分、Twitterで見かけたアートの不必要に対する問いかけ。残念ながら、タイムラインの彼方へと流れていってしまった。

朝練、隅田川に、たくさんのウミネコが水面で羽を休めている。時折、朝焼けの空を優雅に、自由に飛ぶ。

未知なるウィルスに怯える人類は、彼らにはまさしく「対岸の火事」である。いつもは、彼に悪戯する人類を高みの見物でもしてるいるのかもしれない。と、卑しく思ってしまう。もし、人類がこのウィルスで滅びても、彼らは生き残る。地球とは、そういうものだ。と、思ってしまう。それもそれで、星の多様性だ。

最低、向こう3カ月間は、この状態かもしれないと思うと、この3ヶ月をどう使うか。考えてみれば、3ヶ月は、1クオーターだ。1プロジェクトを進めるには、十分すぎる時間だ。ようは、発想の転換かもしれない。

311の時のような、何か苛まれる感情に覆われる。体に倦怠感を覚えるよりも、心に倦怠感を覚える。

オリジナルの企画の筆が遅い。遅い。

COVID-19で暇になるはずが、意外と暇では無い。

今日は、軽めに。

セレンディピティという言葉があるが、何かに誘われて、タイムリーなものに出会うことがある。

お昼寝タイムの娘を寝付かせながら、手に取った渡辺保史さんの遺作を読んでいたら、昨日、書き綴ったリアルとヴァーチャルの中道について、示唆する文章があった。

佐野元春が日本人アーティストとして初めて1998年に、ライブを有料でネット中継した際のインタービューとその解説の文章だ。渡辺さんは、この1998年をインターネットがもたらし情報社会のエポックだと、書で語っている。

ある一室から、カメラを佐野をはじめとするバンドメンバーが丸く囲み、演奏を配信したようだ。当初、ライブを届けるという感じで始めたが、段々、カメラとマイクに語りかける、まるでラジオDJのような気分になってきたと当時の佐野はインタビューに答えている。

夕方、Twitterの書き込みで知り、エルトン・ジョンが呼びかけた大物ポップスターによる自宅からのパフォーマンス配信を見た。各スターたちが、自分の家のリビングやプライベートスタジオから演奏し、寄付を呼びかける。名だたるポップスターが、流行のYouTuberになってしまったような感がある。彼らは、自宅の部屋から、数万人へと音楽を届けている。

前出の渡辺さんの本に戻る。佐野元春へのインタビューを引用する。

佐野 そうかも知れないね。誰かのリビングで気楽に演奏しながら、それが実は数千人、数万人と繋がっていく、というのは似ている。ぼくはオンラインで送り届けるアンプラグドな表現は、ルネサンス時代のロマンティシズムに回帰していくかのような印象を持っている。伝統社会のフォークソングのように、自分はネットワーク社会の中で音を紡ぐ役割に徹することができるんじゃないか、と。

渡辺 でも、ぼくはそのマクルーハン的な「グローバル・ビレッジ(地球村)」への統合というビジョンに、少し留保したいように思うんです。一見すると、ネットワーク社会は全人類共通の文化的な基盤になりつつあるけれど、一方で極めてミクロな対立や衝突、齟齬が起きている。この困難な状況に対して、音楽は果たしてどんな貢献ができるんでしょうか?

佐野 ぼくは、音楽にはそうした状況に対しても何らかの力があると思っているよ。ネットワークがここまで多くの人々に開放されたことで、人々の「気づき」が起こっている。どこが世界の中心で、どこが辺境かが分からなくなってきていることへの不安。徹底したローカリズムが、実はグローバリズムへとつながるんだという気づき。こうした感情が怖れとなって行動化した時に、政治が介在してくるという事態も既に現実になっている。でも、人々の気づきがいい方向へと転べば、マクルーハン的な真の統合へと向かっていく可能性はあるんじゃないだろうか。ネットワークで日常を過ごし始めているぼくら自身が、思考を停止してしまう方向に向かってしまうのか、それを拒み続けることができるのか? 音楽は、こうした状況に対して、的確なメッセージを発しながら、社会に対してインパクトを与えることはできると思う。

Designing Ours / 渡辺保史

何とも、今の世界のことを話しているのだろうかという幻覚に襲われる程のやりとりだ。これが1998年、20年以上前に語られていたとは。とても、本質的なところを突いたインタビューと言える。

今日は、分断について書こうと思ったが、この示唆に富んだ文章を読んでの読書感想文、いや紹介で終えようと思う。

謹慎処分のような、この週末。人に言われなくても、外に出たくないと思いたくなる世界である。

きっと来るだろうAfter COVID-19の世界と、いつまで続くであろうかというWith COVID-19の世界。

311のときも、何か価値観が変わるだろうと言われ、瞬間的に変わったもの、変わらなかったものなどなどがあったが、今回はどうなのだろうか。それも、全世界的にだから、ことが大きい。

数日前に書いたが、「庶民の大航海時代」が終わろうとしている。人々が、それに飽きたのでは無く、何かしらの恐れを感じるようになり、地球がテーマパークだと、観光に歩き回る時代は何かしら終焉を迎えている。もし、その足が戻ったとしても、21世紀初頭の狂気的なお祭りのようなものは無くなる。インバウンドなどからの収入を頼りにする生活を考えざるを得ない。

COVID-19がもたらした地球全体の現象として、CO2の排出量の現象があるらしい。特に、中国での経済の停滞化により著しいらしい。観測値は無いが、旅客機の欠航が相次ぎ、これもCO2の排出量を落とす要因になっているようだ。「庶民の大航海時代」を象徴する飛行機ともに、その時代を支えた旅客船も、COVID-19を世界に伝播させる要因となり、Afterの際、再びその栄華を取り戻すことは難しいかもしれない。

「不要不急」の移動はあるだろうし、様々な人々の動きはあるだろうが、21世紀の初頭に爆発的に増えた人類の移動は、縮小することを否めない。

「大航海時代」は、グローバルな視点で言えることではあるが、国内、地域内の動きにも影を落とすのではないだろうか。大人数が集まる場所への恐怖が、我々人類に残すからだ。(とは言え、人類はその危機を何度も味わってきたのだが、その反省が活かされていないとも言えるのが今の実情ではあるが。)

21世紀初頭の「庶民の大航海時代」は、リアルな体験を求めるという嗜好を我々人類に与えた。インターネットが普及する中、ヴァーチャルな体験ではなく、リアルな体験を好み、それを、なぜかインターネットに流して楽しむという遊びを、我々人類は覚えた。それは、大航海時代という狂祭の中において、フェスという祭りを盛り上げた。パッケージで配信される体験ではなく、リアルに演者が魅せるステージを実体験として、そして大人数で共有するという「祭り」に酔いしれた。実際、音楽の世界では、CDやオンライン配信で利益を得るよりも、フェスやライブの方が収益を上げていた。また、世界各地の「リアル」を求めて、人々は大航海した。その人々が落とすお金を目当てに、インバウンド向け産業が勃興した。

しかし、この「リアル」な体験を届ける産業が、このWith COVID-19の中で、一番大打撃を受けている。観光やステージという産業は、何世紀もあった産業ではあるが、「これからは、これだ!」というバブル的な拡大が図られた分、はじけ飛ぶのも早かったのかもしれない。(とはいえ、バブル的なものがはじけただけでは収まらない惨劇が起きている。芸術文化の根底を揺るがす由々しき状態だ)

「リアル」な体験を求める人類は一方で、xRという新たな映像伝達で「体験」をもたらすことに躍起にもなった。xRは、VR、AR、MRなどの総称だ。特に、VRの世界は、インターネットでの配信やゲームを含めて、盛り上がりを見せ始めている。どこでもドア的なものへの人類の飽くなき欲望が、この技術を押し上げている。どこでもドア的なものへの欲求は、「大航海時代」の飛行機とも似ている。飛行機は、船と比べて、その圧倒的なスピード(転送速度)をもたらした。

人類は、今、自分がいるところから、できるだけ移動を短時間にして、よりリアルなものを求めている。それは、Afterでも、そうであるであろう。できるだけリスクを冒さないで移動したいと思いながらも、リアルを求めるはずだ。恐らく、ヴァーチャルだけでは、満足できない。だから、MR(Mixed Reality)なのかもしれない。

リアルとバーチャルの中道。これが、After COVID-19のキーワードかもしれない。これは、他の言葉にも置き換えることができる。ネットとリアルの中道。つまり、すべてインターネットの中で完結するものから、リアルな世界と自分の生活圏からそんな遠くない半径の中のことが結び合うものへ。

COVID-19が発生したこの時代、同時に我々は「分断」というイシューも抱えていた。そして、このCOVID-19は様々な「分断」を露呈した。COVID-19が露呈させた側面もあるが、それまでの分断を指摘する中で、我々が手に入れた視座が、露呈を明確にさせたのかもしれない。

自分の生活圏からそんな遠くない半径の中という領域と分断は、密接な関係性を持つ要素ではないかと思う。

このことがらについて、その他、分断、ウィルスと未確認なリスクにおびえる世界、というのが残るイシューだ。また、書く。

最後になるが、このCOVID-19は、気候変動問題にとって、デメリットだという見方もある。

https://www.technologyreview.jp/s/191941/why-the-coronavirus-outbreak-is-terrible-news-for-climate-change/

COVID-19により、案件の仕事が無くなり、空いてしまったこの時間を新しい知識を得たり、技術を身に付けようと、呼び掛けられている。自分も、確かに、この時間を有意義に使わなければと思った。

日々、更新され伝わってくる欧米の状況。数週間前に、WHOが、この病気は世界人口のほとんどの人が掛かるかもしれない病気だと伝えたとおり、もはや、逃げられない病気なのかもしれない。そして、ワクチンがまだ無い今、誰でも死ぬリスクを負っている。

そう考えると、今死んでもいいように、遺すべきものをつくる、もしくは書き残した方が良いのでは無いかと思えてきた。心配性、過剰反応と言われるかもしれないが、キリギリス的に過ごす時間と、アリとして過ごす時間、どちらが有益なのだろうか。どんな光景が広がっているかはわからないが、After COVID-19はいずれ来る。その時に、自分がどう生きられるかは、それに掛かっているのかもしれない。

とは言え、with COVID-19も考えなければならない。ノンノンと、Afterは待てない。withがどれぐらいの期間に及ぶものなのか、わからないのだから。

結論から言うと、アラカワ、もっとできるんじゃない?ということらしいのだが、立てた打席では打ち返してきたと自負していたので、そう言われるとクラクラする。これが所謂、打席欠乏なのか…。

少し、視点を引いてみると、打席は与えられるものでもあるが、つくるものでもある。ここ1年、与えられる打席で苦戦したが、それが評価につながらないとすれば、つくるものかもしれない。

一方で、1打席で受ける球数が多すぎじゃ無いか、という見方もあるようで、そう考えると、球数の話でも無いわけで。さらに話を進めれば、打席が多ければいいわけでも無く、どれだけのヒットを積み重ねたかとか、ホームランを打ったかということになる。

ただし、目先の打率などの数字に追われても、疲弊するだけなので、そこは何かしら考えなければならないのだろう。ただ、見えてきたところでは、いや、わかっているところでは、つくった打席の方が疲弊が少ないし、やりがいはあるということである。

いろんな話や自分が見聞きしたものを合わせると、これは、世の中、持たないぞと、コロナ(COVID-19)について思う。ここ3ヶ月ほど仕事について、生活について、どう考えなければと塞ぎ込むオッサンを尻目に、渋谷に溢れるJKやJDの平和な姿を見て、まいったなぁと思う。

いずれは来る(来なければ困る)アフターコロナウィルスの世界。日本はまだそこまで深刻な事態が表面化していないが、ヨーロッパの諸国への打撃は大きい。復活、復興の初速度、そして加速度はかなり低い物になるのではないかと思う。それは、精神的なダメージが大きさがあるのでは無いかと。リーマンショックの時は、金のこと以外は、何とかなると勢いで攻めれたかもしれないが、裸一貫にもなれないぐらいフィジカルな怖さが残る。いざやろうと思っても、自分たちの生命としての恐怖感が残る。コロナPTSD。

世界の、人類の新たな脆弱性を露呈した、いや常に持ち続けていた脆弱性が露呈したいとも言える。誰かたちを、人類を滅ぼすにも、もはや銃はいらない。「菌」で十分だ。それも、破壊者にとっては低コストな方法で…ということだ。

新しい大航海時代の如く、人々は世界を飛び回り、それを向かい入れる方も、その大航海時代の狂祭に酔いしれた。もうパッケージは古い、ライブだと、世界を駆け巡り、人々が狂喜することに、我々は21世紀感を求めたのかもしれない。移動することは、自由であり、人類の新しい時代だと。新しい時代は、自由の奪取によって持たされるというのが人類の神話だ。

しかしながら、その自由は、無残にも、誰かに奪われたのでは無く(もともと誰かから奪取したものでも無い)、「菌」という多種の生命体から、いとも簡単に奪われた。確かに、人類が冒険し開拓するとき、いつも、それは「菌」との戦いであった。もしくは、人類が何か跳躍しようとしたときに、かならず「菌」という者が出てきて、我々を阻害する。

だが、これまでの大航海時代とは違ったモノがあった。それは、物理的な移動だけではなく、情報的な、精神的な移動網も構築された時代だったとも言える。

人類は、結局の所エクステンドする生命体だ。拡張しつつづけるところに、自分たちの存在感、種の維持の価値を見出す生命体だ。だから、形を変えて、常に大航海を続ける。物理的に分断された今、そしてこれまでとは違った物理移動の重たさ(倦怠感、だるさ)を残す世界の中で(つまり、アフターコロナウィルス)、我々に翼を与えてくれるのは情報網という航海手法と合わさった世界なのかもしれない。(情報網による分断も残る分けなのだが)

我々人類は、航海というオープンさと分断という、二局面について、向き合わなければならない。

不得意

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何かできないということを、いけないこととして捉えるのではなく、不得意だから、と捉えるとお互いに気が楽になるよう気がする。つまり、不得意なことをがんばっていれば、できなくてマイナスな評価だとしても、スタートがマイナスだから、相対的に見ればプラス方向に上がっているわけだから、良しと捉えることができる。もちろん、達成値が0を越えて、いくばかりかプラスの値を取れば、それは万々歳である。

同じ現象をどうせ見るのならば、気楽な視点で捉えた方が、精神の平和をもたらす。そう考えるようにしている。

東京オリンピックをなんととしても、通常通りやろうとしている要人たちは、「一億玉砕」をこの時代になってもやろうとしているのだろうか。日本が、自分たちはやれると思っても、世界が、世界の人々がそういう状況では無いとき、世界の平和祭典をやったところで、誰が嬉しいのだろうか。おそらく、最後まで意地になってやろうとして、我々はだまされた、わかってくれないと、国際連盟から離脱しようなことになるのだろうか。

無印のスニーカーを愛用する私が、この数日、革靴について考えている。厳密には、革靴をモチーフにした作品を考えている。靴とは不思議な物である。服と同じぐらい日々、体に身に付ける物ではあるが、服とは何かが違う存在である。

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