どうしよう、どうしようと、さすがにピヨっていたのだが、久しぶりに、結婚式で先輩やら友人に会ったら、朝までの焦燥感はどこかへ消え、やることをやれば、それで良しと、為せば成るの落ち着きが出てきた。

いろいろと調べる中で、光明が差してくる。なので、やりたいことをやりたいと言ってみることに。とはいえ、難題という壁は、イノベーションの親である。

営業時間が早いだけということで、初めて行ったクリーニング屋さんの店員さんが、「野田さん」似でかつ的確な対応をしてくれて、家から近いということだけで、行っていたクリーニング屋さんの横柄なおばさんの対応とは違い、次回も、ここに来ようと思った。

大体、そういうものだろう。

それは、初期衝動的な表現なのか、それとも思考的な表現なのか。コンテンポラリーアートにおいて、コンセプトが重要視されているのだという。とはいえ、ギャラリーや美術館に行っても、作品に関する情報というと、作品の前にキャプションが1枚貼られているだけのような気もするが、時代はそうでは無いらしい。

コンセプトと同時に、最近のアートで重要なのは、リファレンスかもしれない。クリエイティブの場合でも、いかにリファレンスを掘り起こすかが求められることが多い。そのリファレンスを元に共通認識を持ちつつ、我々の提案はいかに、クライアントからの依頼にマッチしたものであるかを伝える。アートの場合のリファレンスは、どちらかというと「巨人の肩」を提示し、自分、そして自分の作品の立ち位置を明確にし、自分の作品が美術史の中でどう語られるべきで、どういう新しさがあるかを提示することが求められる。もはや、論文を書くのに近い。

すでに、人類は、たくさんの創作物を造ってきて、多くのフレームワークや表現を生み出してきた。出し尽くしたとは言わないが、その差は、もはや些細なものかもしれない。表現のアイディアも、妄想を語ったレベルから、形にしたレベルまでで、玉石混淆の様相というか、言った者勝ち、拡散した者勝ちという状況とも言える。

表現を裏打ちするものが、求められるのには違いない。個人的には、衝動派ではないので、それはそれで良いのだが。

このところ、同年代のまわりの人たちが、制作の上流の方に移ったり、制作系から離れたりして、なんだか寂しいなと思っている。自分は、相変わらず学生の頃から変わらずに、ゴリゴリやっている。それが良いのかは、客観的にはわからないが、そういう自分がいつつ、まわりがそういう風に変化していくことに、やはり寂しさを感じる。

とは言え、自分も一時、マネージメント寄りになっていたので、場合によっては、「ゴリゴリ」では無くなっていたのかもしれない。実際問題、一時のお休みがあったので、「ゴリゴリ」とはいえ、昔のようには動けない歯がゆさもある。でも、その「歯がゆさ」を感じることが出来る幸せがある。その歯がゆさを感じつつ、その一時の間に身に付けたことを振り返りながら、今に活かし、他には無い立ち位置を見いだす。それは、続けているから、味わえる境地なのかもしれない。

続けることの難しさ。客観的にはわかっている。どうも、面倒な方を選んでいるようだとは。滅私奉公ならぬ、滅私奉家ならば、別な道はありますよね、と。

が、それよりも、私を立てようと思っている。そして、志を貫こうと。

8月下旬の仕事に向けて、改めて、といいますか、十数年来の腰を上げて、GLSL(という映像処理を得意とするプログラミング言語)をゴリゴリ始めている。リアルタイムに、高速に、映像を生成する必要があるからだ。正直に申すと、(GPUで動く)Shaderプログラミングは、確か、大学時代にもあって、演習だったか、個人的な興味でいじったことはあるが。(GPUとは、グラフィック/映像処理に特化したコンピューターのチップ。近いのがCPU)

GPUでShaderをいじると言うことに面白さはあるが、それよりも、CPUとは違う、その速さがとても気になるところ。いわゆる、GPGPUという言われる処理で、大量の計算をGPUで行うと、CPUより格段早く、シミュレーションなどが圧倒的に速い。

とはいえ、GPUで処理をするためには、GLSLという普通のプログラミング言語とは違う言語で処理を書かなければならない。この言語が面白いのが、普通のプログラミン言語では、俯瞰的に、位置指定しながら、矩形や円を描画するのだが、GLSLの場合は、描画エリアの中の1pxからの視点で順次1pxごとに描画処理を記述する。つまり、多言語では、全体の中の図を描くことになるが、GLSLの場合は、その図の中における一点の中からの視点で描いていく。本来、人間は、全体で図を認識し、像を形成するわけだから、図の中の一点から何かを描画するために記述するというのは不自然と言えば不自然だ。迷い込んでしまった迷路。その中から、自分が迷い込んでしまった迷路を描くようなものだ。

高級言語(人間の言葉に近い言語)においては、人間の思考、つまりアルゴリズムを表現した形で記述しているわけだが、言語によってはそうはいかない。どちらかというと、機械が理解しやすい表現方法を選ばなければならないこともある。もしくは、速度を求めるために、機械の特性に合わせる必要もある。

これは、我々人間が、他の言語や文化を持つ同類に、話しかけるときと同じである。その民族、文化、言語に合わせて、視点を変えて、理解を求め、話しかける。機械に対話を求めるというと、おかしな話に転じそうになるが、入力と出力を求めるならば、そうなるのかもしれない。

巨大な迷路、立ちはだかる壁、その中に放り込まれた我々は、その中から、探索しながら世界を構築していかなければならない。同時に、我々は、その探索してできあがった世界観と、自分の位置を外になんとかして共有しようと思う。そのときに求められる言語とは何か、もしくはその言語が下地とすると姿勢とは何か。

いろいろとまとめたいことがあるが、未だに、まとめられず。

でも一つ、今年、誕生日の時に、改めて思ったのが、

人生は、あきらめと、選択と集中

なんじゃないかなと。

きちんと細かく説明しないと、語弊を生みそうだが、私はそう思う。

所用で、久しぶりに丸の内に行く。外は暑いので、地底人ごとく、地下鉄の駅から、用のあるビルまで地下道で行こうと思ったのだが、丸の内界隈を庭のようにして闊歩していた頃とは勝手が違って、少々迷ってしまう。というのも、去年までは工事していて仮囲いだらけだった大手町駅も、すっかりきれいになってしまい、風景が変わってしまったのだ。

最近は、渋谷の街を毎日歩いているので、丸の内を行き交う人たちと雰囲気が大分違うのも、なんだか面白い。やはり、街の顔は、その街で変わるのだ。

一つ気が付いたのは、渋谷と丸の内での時間の流れ方だ。渋谷はどちらかというと、時間を流れるのを待っている人が多い。時間を消費するというか。一方で、丸の内を行き交う人たちは、時間の流れをくぐり抜けて行く。時間が流れるのを待っているようには思えない。時間を変質させ、何かに変えようとして移動している。

昔、エーテルという言葉があったが、世界を時間という要素が満たしているとしたならば、時間は同質の密度では存在していなくて、場所場所によって、その密度は変わり、まるで流体試験の可視化映像のように、複雑な等高線を描いているのかもしれない。

と言う、自分は、どういう時間の密度をまとい、動いているのだろうか。

そんなこんなをぼやいていたら、前職で、よくお会いしていた方にバッタリと会う。さて、彼からは、私の時間の密度が、どのように変化したように見えたのだろうか。

人は、時間の密度という衣をまとい生き物なのかもしれない。

家族で、農業体験に行く。

農家の方から、面白いお話を聞く。その方、実は、「野菜嫌い」なのだという。

小さい頃は、ハンバーグに入っているみじん切りのタマネギを取り除いて食べていたぐらいだったとか。だから、野菜嫌いでも食べられるような美味しい野菜を作ることを目指しているのだとか。育てる品種も、食べやすい品種を意識して選んでいるのだとか。単に野菜じゃ無くて、野菜の魅力を引き出す物を作っていると言って良いのだろうか。

不思議な物だ。

嫌いだから、苦手だからこそ、そのものの本当の、本質の魅力を知ることが出来る。そのある意味、小さいな輝く部分を見つけ出し、それを増幅させることが出来るのかもしれない。

好き過ぎると見えない物があるのかもしれない。

これは、他のことでも言えることなんだろうなと、娘たちが美味しそうに食べるにんじんとキュウリに目をやる。

最近のメディアアートにまつわる賑やかさ(つまり、論争では無いレベルの騒々しさ)と個人的なメディアアートは何だったのか自問自答。

そこに終止符を打つような先輩の一言。「すでに、メディアアートは世界では存在していない。」

日本では、メディアアートが存在していているようなことになっているが、世界では、すでに、メディアアートは90年代で終えていて、メディアアート的な手法は現代アート、モダンアートに取り込まれているという考え方。

腑に落ちた。

建築スタジオMODUの講演を聞きに行く。天気、気候、社会的な関係性で変化する建築を展開する建築家の二人だ。

建築というのもは、何か固定されたものではなく、天気などの環境的な要素と、それが存在する都市、そしてその空間を利用する人々の関係性によって、常に変化し、未完成であるという考え方は、非常に共鳴し、同時にその先行的な事例は興味深い。

別に、建築自体を自ら作りたいわけではなく、そういった建築の考え方、建築が存在する世界において、デジタルクリエイティブ、ヴィジュアライゼーションはどうなっていくのか、もしくはどうあるべきかに、強い興味がある。

天気は、イタリア語で、”tempo”。時間という意味を持つ。ちょっと、腑に落ちた。

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