煮詰める

ホワイトソースのグラタンのレシピを探す。帝国ホテルのシェフがつくるグラタンというのを見つける。精悍なシェフが手早くつくるYouTubeを見ながら、小麦粉を混ぜ混ぜするホワイトソースより簡単そうというのに惹かれて、作り始める。

だが、簡単では無かった。弱火で、食材に火を通していくのが思いの外、時間が掛かるからだ。食材から出てくる汁を(シェフはあえてジュースと言っているが)煮詰めていく。それが良いのか、味は他のグラタンより美味しかったらしい。

煮詰める。

煮詰まる、というのは、ネガティブな追い込まれたイメージはあるが、煮詰めるには何かをギュッと凝縮する良い印象を持つ。しかし、煮詰めるには時間を要する。だから、突然に煮詰めたものを求めても、手には入らない。普段から、煮詰めていなければ、必要なときには手には入らない。コトコトと煮るしか無いのだ。何となく、小鍋を火に掛けて煮詰める感じ、良いものが生まれそうな空気がある。

常識

自分の常識は、他人の常識では無い。そういうことは、この歳になっても数多ある。

作品をつくったり、コードを書くだけだったら、何と楽か。

その楽を実現するには、どうしたら良いのか。最近、そんなことを考えているのだが、ぼんやりと答えは見えているのが、それを認めるのはなかなか難しい。


やはり、アウトプットは大切だ。

風土

盛岡での展示での大きな収穫は、生活の豊かとは何か、という問いとそれを問う思考ではないだろうか。

盛岡に展示の際に、肩書きを求められることが多く、窮することがあった。最終的には、訳のわからないデジタルアーティストなんって言葉でお茶を逃がす。とはいえ、今後、こういった展示活動を続けるならば、何かしら必要ではある。

今回、デジタルアートと名を銘打っているが、個人的にも、周りからも、いわゆるのデジタルアートではないことは明らかで、それが他のデジタルクリエイティブ、メディアアートとは違う点なので、ここをはっきりと差別化しなければならない。

では、何が違うのか。

リサーチワーク、フィールドワークを通して、自分は何を感じたのか。それは、間違いなく風土なのではないかと思う。確かに、「風をあつめて」の「風」という漢字が入っている。シリーズ名にしようかと思っている”Gathering Elements”の要素も、「土」が入ってくるだろう。いや、それら単体のことではない、全体としての風土についての話しである。

風土を感じられる新表現としてのデジタルアート、デジタルクリエイティブなのではないだろうか。大画面のLEDがゴリゴリと動いても良い。が、そこに風土を感じさせるものがあるかどうか。

風土を感じさせられるというのは、どういうことなのか。次に自分の頭がひねり出したのが、「衣食住」という言葉だった。

話しがややこしくなるが、このことを考えるにあたって別なアプローチもあった。果たして、自分の様なタイプの人間が、盛岡のようなところで業を営むには、どういうことをしたら良いのだろうか、研究したら良いのだろうかと。

今回、自分は、どちらかというと「住」の方によったプロトタイピングだったのだろうか。かなり、カテゴライズに無理があるが。

人類の成長は良い方向へと間違った方向へと、今とっちらかっている。人類の飛躍を否定して、デジタル的な物を取り上げて、懐古的に走るのはナンセンスである。むしろ、自分が提示したような新しい物と古き良き物の共存、共創が新しい世界を切り開く。

(と書いて、時間切れ)

幸せな匂い

血圧を測り始める。この数値、大丈夫なのだろうか。


自分が目指すところが、華々しいところでは無い、というのが最近、改めて感じるところなのだが、ならば何を求めているのか?

華々しい物であったり、何か展示されている物は、確かに好きで、そこに、クリエイティビティを感じると気分が高揚し、こういうものを自分もつくってみたいと「憧れ」を持つ。しかしながら、それが本当に、自分が目指すものなのかと問われると、そうでも無いような気もする。

華々しいとか、その逆の地味なものとか、そういう類いのタグ付けによって、言い表せるものではないようではある。

それを描ききる、もしくは言い表すための補助線として匂いというものがあるのではないかと、先日気付いた。

気が付けば、学生時代から送られているとある店からのDM(E-mail)がある。その店は、雑貨のセレクトショップで、一貫して、デザインされた雑貨を扱う。古くからApple製品を好む客層を相手にしているラインナップだ。その店から購入したのは、2,3回なのだが、毎回届くDMを開き、そこで紹介される商品を何となくニヤニヤしながら見るのが好きなのだ。良いデザインプロダクトには、そういう魅力がある。無印良品にも近いものを感じる。そこに共通しているものは何か、そう考えたとき、ぼんやりと見えてきたのが、匂いだった。それも、幸せな匂いである。それを使うと、にんまりしてしまう日常がある…幸せな匂いがするもの。そういうのものが好きであるし、そういうものを生み出してみたい。そう、思えてきたのだ。

遭遇

なぜ、若いときにやっていなかったのだろうか、ということがある。

最近、メディアアートの思想的、理論的なところを求めて、文献を探すと、ここ5,10年ほどのところで書かれた良い本があまりない。掘り下げていくと、メディアアートが勃興し始める90年代後半のつまり、Windows95が発売されたぐらいの時代の本にあたることになる。メディアアートが熟成の期に達していると思われる昨今よりも、むしろ、古い文献の方がメディアアートの原理について説いている。決して、その年代の本を求めているわけではないが、内容的に良いなと思わされ、巻末の初版の年に目をやると、そこには、90年代の数字があるのだ。

そう考えると、自分が学部生をしていた1999〜2002年ぐらいには、その本は存在していたわけで、その本たちをきちんと目を通していたら、自分は、今、どんな風になっていたのだろうかと、一種の後悔がある。そういう情報が周りに無かったとは言え、あまりには情弱としか言い様が無い。それらの本は存在していたわけだから、自らが請えば手に入れ、読めたはずである。


本とは、別な話である。

幸運にも、歌舞伎の招待券を頂き、歌舞伎座では無いが、人生で初めて歌舞伎を生で観る。テレビで、歌舞伎中継を観たことはあるが、生で、それも1F席の良いところで、観覧するなどと言うことはこれまでには無い。演目によるのだろうが、自分が観た「通し狂言『絵本合法衢』」は観やすいもので、その世界にはまり込んでいく。その素晴らしさに、自分の筆は追いつかないが、歌舞伎とは何か今のエンタテインメントとは別物という意識、つまりこれは、遺産的な伝統芸能だと思っていたのだが、それは間違いだと多くの点で気付かされる。至る所に、これまで自分が観たことがある演出技法が伺える。つまり、自分がこれまで楽しんできた、観てきた演出の原点は歌舞伎だったのだと、サンプリングネタの元を知って、そうだったのかと驚かさせられるのに近い。思えば、もっと若い年で観ていたら、世界の見方違ったのでは無いのだろうかと。

子どもたちと観たのだが、恐らく、彼女たちにとって良い体験だっただろうし、何かしらステージを観るときに、一つまた別な尺を持つことが出来るのだろうから、自分よりもだいぶ早い年で観れたことは素晴らしいことだ思った。だが、果たして、自分がもし、小学生の頃に、同じく歌舞伎を観たとして、今と同じような感想を持つのか、それは怪しいものだ。今の年齢で積み重ねて来たものがあるから、何かしらの感想を持ったのだろうと。


何かに出会うのには、時遅しも、早いことも無い。それと出会った今が、その良き機なのだろう。あとは、その遭遇と向き合えるかだけなのかもしれない。

共有記憶のデザイン

さすがに、一日中(9〜22)、集中作業は身体に異変をもたらす。


Instagramのリニューアルを担当したイアン・スパルターのドキュメンタリーを見て気になり、彼が出ているPodcastなどを聞く。多分、自分よりちょい上ぐらいで、少年期からアートに、プログラミングが好きで、それが高じてキャリアをスタートさせ、時代の先端を行くデジタルプロダクトデザイナーだ。ドキュメンタリーでやけに、日本の風景が出てくるなと思ったら、Instagramでの成功後、日本にmetaのスタジオを設立するために、日本に移住したらしい。

Podcastを聞きながら、感化される。黒人として、白人が幅をきかせるIT業界で如何に仕事をしていくかとか、どう仕事していくか、キャリアを考えていくか。ここでは、自分の仕事ができないと思ったときに、英断を如何に実行するか。日本は失敗を許さないという文化を変えていくべきだとか。外から見た日本の伝統工芸の素晴らさなど。

彼自身のキャリアについて気になるところだが、ドキュメンタリーで触れられているInstagramのリニューアル作業や日々のUIアップデートの検討過程は、大変参考になる。Instagramのリニューアルの際に、賛否両論を呼んだのがロゴのリニューアルだ。哀愁が漂うレトロなポラロイドカメラのロゴから、ラインだけによるスマートなロゴに切り替えたことで、前ロゴに親しみを持っていたユーザからは反感を買った。悪く言うと無機質なロゴ、よく言えばニュートラルなロゴになることで、レトロおしゃれな写真アプリ(つまり写真好きのニッチなアプリ)から、一般的な「写真と生活を共有するアプリ」に変貌を遂げて、それまでの「写真」ユーザから裾野を広げることに成功する足掛かりとなった。

旧来のユーザからは反感は買ったが、新ロゴは、旧ロゴを否定していなかった。その新ロゴの制作過程がおもしろい。社員等に、それまでのロゴを何も見ないで書かせた。すると、様々なロゴらしきものが生み出される。だが、そこには共通点があった。人々の頭の中のロゴは、まず真ん中にレンズの○があって、外側に箱枠があって、左側に虹色のグラデーションというのが大方の人々が持っていた様々なロゴの共通点だった。彼は、人々に、その人なりのインスタの旧ロゴを描かせることで、旧ロゴの持つ、人々が持つイメージを見つけ出そうとした。彼らはその共通点、つまり印象的な要素だけを残し、新ロゴを作りあげた。そして、この新ロゴとグラデーションをデザインシステムのコアとして、デザインを展開していった。このすっきりとした新ロゴは、より広い人に受け入れられるニュートラルなロゴとして、機能し始めた。

こう書きながら思ったのが、ニュートラルであるという余地が、多くの人に受けいられるための重要なポイントになったということだ。様々な人が、その余地に、自分なりのモノを託せた。余地があるニュートラルなロゴが、なんかカメラ?という認識を生み、そこに自分なりのカメラアプリを使った生活をイメージさせた。

そのニュートラルを生み出す要素は、多くの人の記憶の中に残っていた「ぼんやり」として印象であり、多くの人が持っていた共有記憶(知)だ。そのぼやけた印象にフォーカスしていくと、本質的な要素が見えてくる。白濁した豆乳の中に手を入れて、ゆっくりと掬い上げると、丸々とした柔らかい豆腐が姿を現すように。ぼんやりとした空間から本質的な要素を抽出させるという行為が、様々な人の共通した認識を具現化させた。

プロダクトの良き姿、形というのは、ぼんやりと自分たちの頭の中の記憶につながっているものなのかもしれない。そのぼんやりとしたつながりが、我々に、プロダクトとの良きメンタルモデルを築き上げさせるのかもしれない。この話は、そうそう、ふつう、そうだよね、という認知についての、深沢直人、ジャスパー・モリソンの「ふつう」、「SUPER NORMAL(スーパーノーマル)」につながっている。