アンガーコントールは、6秒らしい。怒りを感じたら6秒待つ。大体の怒りの感情は6秒経つと収まるらしい。それを踏まえると、子供へのイラッは、12秒待てば良い。同じく、12秒後、タヌキのように行動に出れば良い。

そう考えると、タヌキは偉大だ。

案件のリサーチで、Three.jsを引っ張り出してくる。1年前ぐらいに、結構いじっていたWebGLを使った3Dエンジンで、WEB上で比較的容易に3Dをつくれるものだ。Flashの終焉ごろに流行ったPaperVisonの様だ。メイン案件で、Unityを使っているが、Three.jsのコードを見ている方が興奮する。なぜだろうか。3Dツールへのトラウマもあるが、やはりコード好きなのか。それともWEB好きなのか。

TwitterのTLで、パーフェクトピクセルという言葉、やたらと流れてくる。UIデザイナーが出したカンプをフロントエンジニアが1pxのズレなく再現できるかという話だ。当たり前だという意見から、そんな議論は不毛だという意見まで、立場や思想の違いから様々な声が。

現実的な話として、レスポンシブル時代において、1pxを忠実に再現できるかというのは果たして、重要なのかというのは一理ある。PCの画面サイズが1024*768前後の時代であれば、ブラウザのウィンドウサイズも、ユーザー環境が違ってもほぼほぼ同じだったので、画面の左上を原点として、1pxの狂いも無く配置すると言うことが大事だったのかもしれない。しかしながら、現代、PCの画面サイズもバラバラであるし、スクリーンも様々だ。PCもあれば、スマフォもあれば、タブレットもある。求められるのは、そのスクリーンサイズの中で、比率的に、レイアウトされているかと言うことになる。これは、余白やボックスサイズだけでは無く、フォントサイズなども含まれる。

UIデザイナが、1pxのズレを許せないか。これは、意図した1pxだからである。設計された1pxだからである。使いやすさ、美しさが考えた上に算出された1pxなのである。それが守られていないと、設計された機能を実現されないのだ。つまり、1pxが重要では無い。その1pxを導き出した設計が重要なのである。設計が守られているか。これが、デザイナが意図したUIを実現できるかの一つの大きな要素になるのだ。

レスポンシブル時代において、その設計は絶対値から相対値へ変化しても来ている。実際に、CSSでは、vhとvmという単位が導入されてきている。これは、画面の高さ、幅に対しての比率からの値を指定する考え方だ。

グラフィックデザインの基本とも言えるグリッドデザインシステムは、顕著な例とも言える。紙の横幅を何分割かして、ここにグラフィック様子をはめ込んでいく考え方だ。この場合、A4なのかA3なのかによって、グリッド毎の間隔は広がり、その中に納められるグラフィックのサイズも変化するし、もしくは左寄せなのか、中央、右寄せでサイズは固定にするのかなど、グラフィックデザイナは判断を求められる。

エンジニアならば、このデザインは、多階層なif文による条件判定で実施無ければならないと、アルゴリズム的なものだと感づいているはずだろう。現代のオンスクリーンデザインにおいては、絶対値より相対値、そして相対値よりアルゴリズムが求められている。

この議論の中で、UIデザイナが上に立ち、エンジニアの力量を試す構図ができているが、果たして、それもそうなのだろうか。UIデザイナが、その値にきちんと意味を持たせているかも、我々は考慮しなければならない。自分の場合、エンジニアの立ち位置でUIデザイナが求める実装を求められることが多い。その際にデザイン指示書に対して質問を投げかけるが、即答で返ってこないことが多大にある。特に動的なデザインの場合に、デザイナは答えに窮することがある。WordPressやヘッドレスのCMSから流れ込んでくる情報を表示するテンプレートを用いたデザイン場合、様々な情報の量や質に合わせて、形を想定して実装する必要があるが、そのパターン出しが甘いデザイン指示書も多い。なぜならば、情報量(文字数など)によって、行数が一定では無く複数行が想定される場面において、(UIデザイナが思い込んだ)1行の情報量の場合のピクセル単位での指定はされているが、複数行になった場合の施策が考えられていない場合がある。複数行の場合の行間は?行末の処理は?その場合他パーツとのマージンは単一行の場合とどう違ってくるのか?フォントサイズは、同じサイズで適正なのか?などなど。エンジニアは、そういった想定を考えて実装を求められることもあるが、それはフリー演技として彼らに求められるのでは無く、UIデザイナが当初から考えるべきことである。

そもそも、1pxというが、オンスクリーンデザインにおいて奇数の指定というのは、多用すべきもでは無い。というのも、コンピュータというのは2進数で動いている計算機である。そのため、処理を速くしたり、変なアンチエイリアスが掛からないようにするには、2の乗数でサイズを出していくことが求められることが多い。2,4,8,16,32,64,128,256,512,1024など見覚えがある数値では無いだろうか。一方で、Rを指定する場合は、計算上奇数の方が好ましいと言うのもある。こういう数学的以前の道具の特性を理解した数値出しがされているか?これも、考えなければならない重要な点である。0.5pxなどという数値指定を出しているデザイナは、影でエンジニアに嘲笑されていると覚悟しよう。

話をさらに進めるならば、未だにUIデザイナがデザインカンプをつくり、それをフロントエンジニアが実装するというワークフローにも疑問を感じなければならない。デザインエンジニア的な人材が、UIデザインもUIの実装もかねて、設計と実装、検証をループさせて実施していくことが本来は求められるべきである。私は絵しか書けないというからという時代は終えて欲しい。私はコードしか書けないからと言うUIフロントエンジニアの時代も終えて欲しい。確かに、高機能なUIコンポーネントを実装するフロントエンジニアの場合は、それに当てはまらないかもしれないが、今、分断されているUIデザイナとフロントエンジニアの境界は融けるべきものではないだろうか。

夢の中で、大先輩に、吐露していた。夢の中とはいえども、語っている自分に驚いてしまった。そういうことを思ってきたのだろう、そして、どうシフトチェンジしていくのかを考えているのかと。

そう考えると、十数年間に考えていたことを本当にしなければならないという気がしてきたが、そんなことを自分が背負って良いのか、自信が無い。確証を持てない。良いことではあると思っているが。

最近、家で仕事やるのも、やりにくいと思ってきた。「臨時」ならば、凌げるものだが、これが「常時」になるのは限界のような気がする。

そもそも、これまでの住居が、仕事場と機能を兼ね備えるようにはなっていない。仕事場は、オフィスであり、住居は住居である。それをいきなり、両方を兼ね備えろと言っても無理がある。あまり、そういうことに頓着しない人は良いのかもしれないが、自分はやはり仕事場だとか、作業場というのを必要とする人間なので、やはりしんどい。だから、家での仕事が快適という人は、すごいなと思う。家で仕事することに安心を覚えるというのは、市中に出歩かずに感染リスクを下げることができるという安心であって、家で仕事ができる安心ではない。

別な軸で話をすれば、リモートで仕事ができるならば、オフィス機能を持つ住居を持てるならば、どこでも仕事ができる。しかしながら、やはり「オフィス機能を持つ」ことが条件にはなる。自分にとっては。

自分のような人が大多数とは思わないが、日本の住居に関しての考え方がだいぶ変わるのだろうなと思う。

俳優の自殺のニュースが相次ぐ。これは、役者だけの話なのだろうか。そうでも無いような気がしてきた。

日本の8月の自殺者数は、1849人。去年より、245人。15%も増加しているとのこと。そして、この死者数は8月が突起したものではなく、毎月約1,500人以上亡くなっているのである。7月から増加傾向にある。新型コロナウィルスによる死亡者数が1,500人であるから、新型コロナウィルスよりも多い人数が自殺で毎月死んでいるのである。

アーティストは、社会のオカリナのような存在だという。果たして、ニュースにはならないが、有名俳優以外にも、命を絶っているアーティストはいないのでは無いだろうかと不安になる。

この日本の社会がおかしくなっているのか、それとも、コロナ渦が、我々の心を病んでいるのか。どう考えても、おかしいだろうとしか言えない。毎月、約1,500人以上の方々が、自ら命を絶っているのだ。社会の気が狂っているとしか思えない。それが、自己責任と言えるのか?

コロナに殺される前に、コロナの恐怖に殺される。新型コロナウィルスによる、社会の変化、経済の変化で、人が死んでいくのだろうか。

少なくとも、オカリナの鳴き声が絶している。

インターネット的なものが好きです。というものの、何を持ってインターネット的なのかというと、とても的の広い話になる。

その中でも、何が好きなのか…。

そう言えば、ヴィジュアライゼーションと言いつつ、どこかのサーバからデータを引っ張ってきて、ごにょごにょするはやはり好きである。こうURLを叩くと、意図したフィルタリングによるデータがAPIから出てくる。これが好きなのである。細かく引数を並べて、意図したデータを絞るのも好きだし、大量のデータが流れてくるのでローディング画面処理を、つまり非同期通信をきちんと書かなければならないというのが好きである。

つまり、サーバからデータを引っ張ってくるのが好きである。

その二の次に、もしかしたら、ヴィジュアライゼーションがあるのかもしれない。データを引っ張ってきた証としての。なので、ビッグデータです、AIです、といって単なるアーカイブデータをスタティックに見せるのには惹かれない。予測不可能なデータによるエラーも含めて、予定調和なきインタラクションが好きだ。

これはもう性癖なのだろう。

論じるより「近作」が無い方が問題だ。

世の中の面倒くさいの量は変わらず、どういった面倒臭さの比率設定を取るかの違いだとわかる。予算の件など。

娘の小学校の臨時休校は今日で終わる。さすがに、小学校にコロナ感染者が出るとなると、動揺する。しかしながら、こういう感染者発生、休校ということは、これからも繰り返されることだろうから、それに免疫を付けておかなければならない。加えて、自分たちがいつ感染者になるか、わからない状況でもある。

9月に入り、今年も残るも、あと4ヶ月。あっという間に過ぎた様に思えるが、とても濃かったとも思える。ただただ、過ぎる日々より、いろいろ考えた日々だからだったのではないだろうか。

コロナで遅れていた免許更新に行ってくる。大分久しぶりに取る証明写真は、前のと比べると、それ相応に年を取っている。問題は無いのだが。

イノベーティブであることは、突飛なことであることなのか、そうとは言い切れない。プロダクトに関して言えば、「便利」であるということは、それはそれでイノベーティブであり、その「便利」が突飛では無く、様々なことの積み重ねによって生まれることもある。

自分は、発明家のようなことはできないと言うことは重々わかっている。ずば抜けたアイディアがあるわけではない。でも、いろんな違和感を正したいとか、不便を便利にしたいと思うことが、モチベーションの一つである。それを見飽き上げることも、価値では無いかと思う。

ネットやデジタルな物は、何か、革新的な、これまでには無いものを求められるところがあるが、アナログなプロダクトと同じく、細かく磨き上げていくことが大事である。考えてみれば、ノートを一つ取っても、本当に多くの会社の製品が存在している。そのシェアには差があるにしろ、どれが正答ではあるかは愚問である。デジタルサービスの恐いところは、何かが正答であるかを求められがちなところにある。自分の好みであれば、どれでも良いのだ。Evernoteでも、notionでも、何でも。今はこれが流行だから、これを使おうというのは無くても良いのだ。そういう意味では、まだ、デジタルサービス、デジタルプロダクトというのは熟していないのだろう。

デザインが技術を包む込み、成熟させるのか。そうとも言い切れない。技術ドリブンで生まれる便利さもある。それは、否定できない。そこには、デザインという整理統括は及ばない。技術は日進月歩で新しく生まれていく。しかしながら、生まれていく、その技術は本当に我々にとって「革新」なのだろうか。新しく生まれる技術には、「革新」的であるものと、細胞の新陳代謝のように生まれるものがあるのではないだろうか。日々繰り返される新陳代謝に、我々は踊らされてはいないだろうか。細胞の些細な形状が新しくなるものの、その機能は実は変わっていない。そんなものが「革新」のように振る舞っているのではないだろうか。

永くあり続けるものを求めるならば、その「新しさ」は何なのかを見つめて、選び抜けていかなければならない。

所用の帰り、都外の街を23時頃、歩く。何だか、賑やかである。飲食店の看板の煌々と眩しい。何か変だと気付いた。そうか、ここは東京では無い。だから、22時の営業自粛などというものが無いのだ。都内の秋葉原で乗り換えたのだが、コロナ渦なのかと思わせるぐらい、家路の人で混んでいる。赤ら顔のふらふら人も含め、さほど、世は変わってはいない。

不健康を見出す病気学と健康とは何かを問う健康学。なるほどなぁと思う。確かに、体は動いてはいるが、自分は健康では無いと自覚して何年経つのだろう。不健康病か…。

子どもは黙っていても育つ。大人は黙っていては育たない。とにかく、自分を律しないと、育たない。それには、いつまでもというゴールはない。

プロダクトのストーリーを考えていたら、逆に、自分にストーリーが無いことに気付いた。

コロナ渦により、仕事の仕方も大分変わり、望むか望まれないかを別にして、リモートワークは、当分続く。一応、オフィスにも週一で行くことにはなっているが、必要性があると言われて居なければならないのは賞味40分程度。となると、その必要性も問い直せば、必要ないのかもしれない。となると、オフィスに通う必要性が無くなる。

コロナ渦により、イベントや現場系の仕事もかなり無くなり、社内での自分のジョブチェンジが進んでいる。オンライン系のコンテンツ、デジタルプロダクトのマネージャーやテクニカルディレクターの立ち位置が、ほぼほぼになってきた。これらの制作のコミュニケーションはほとんどオンラインで進む。元々、コロナ渦前から担当していたプロダクトの開発は、東京・仙台・青森の多地点で開発を進めていたので、コミュニケーションも元々オンライン。それで、プロジェクトの進行に問題があったかと言うとほぼ無い。東京という「現地」にいなければ成り立たない仕事が無くなり、東京にいるべき理由が少なくなりつつある。東京だからできる仕事が、自分にとっては無くなりつつあるのだ。

東京は、既に、生命の危機を持つ街になってきているし、そのことによって自粛という幽閉の街と化している。動きが取りやすい地方の話を見聞きしながら、うらやましいと思う次第である。

東京だからできること、それは東京だから自分ができることである。しかしながら、それが無くなると、自分は東京で、その他大勢になり果ててしまう。そうなると、自分の存在価値が自他ともに薄れていく。

なぜ、あなたは、そこに居て、生きているのか。ストーリーが無くなりつつある。

とはいえ、よし、東京を出て地方に移住しようというのは、そう簡単にできる話では無い。

東京は東京。地方は地方である。自分の様に、あまり強くない人間にとっては、東京という環境は、やはり素晴らしい。甘くも辛くも、東京以外の日本のどこかで仕事を…と思えるのは、今の会社にいるからだ。東京を拠点とする会社が仕事を引っ張ってきてくれたり、引き合いがあるから、地方でも東京の仕事ができるのではないかという算段ができるだけで、単身で地方に渡ったら、自分みたいな人間には、大きなジョブチェンジとマインドリセットが求められる。

プロダクトのストーリーに戻るが、東京でつくりましたと言うよりは、仙台・東北を中心につくっていますという方がストーリーがある。そこから、全国へ、世界へという方が。そのことが魅力的なストーリーなのかは、人によって受取方が違うかもしれないが、自分にとっては魅力的だ。

参ったな。自分のストーリーを考えなければ。

確か、書くことを思い付いていたのだが、忘れている。

隅田川の両国の船着き場に、水辺空間らしきものができた。その上に、新しくホテルと公共施設ができている一体型の開発だ。前から、堤防が、階段状の座れるスペースに変わっていくなぁとこの数ヶ月見ていた。工事中のため、登って堤防の向こう側に行くことができなかったのだ、完成したのが登り切れるようになっていた。さて、どこに続いているのだろうと、登ってみると、何とまぁ、両国国技館の前に出た。

朝の6時というのに、国技館の前には人集りが。相撲の場所もやっていないのに、なぜだろうと思いながら、まぁ何か相撲の何かだろうと、浅草に向かう。

後から、わかったのだが今年の24時間テレビは、武道館ではなく国技館でやっているらしい。それで、朝から人集りができていたのだ。

小さい頃は、24時間テレビにかじりついてみていたような気がする。盛岡は、夏休みは大体16日ぐらいに終わり、24時間テレビがやっている頃は、関東以南の子どもたちとは違って、すでに学校が始まっているのだが、夏休みの延長戦で、テレビでやっているお祭りを見るのを好んだ。それが「おもしろい」ことであり、日本のすべてであるような気がしていたからだ。今となっては、チャリティーとは何かという疑問の渦の中にある24時間テレビである。

24時間テレビをやっているなぁとネットで知り、見なくなってからもう何年経つのだろうか。自分の周りも、24時間テレビに懐疑的な人は多い。

あれは、時代の遺産なのか。それとも、時代を超えてものなのか。

で、書きたかったのは、確か、こういうことでは無かったはずだ。

浅草橋には、花火問屋が小売りもしている。残念ながら、最近、店を閉めるところが多いらしく、今日行ったら営業しているのは1件だけだった。

そして、その1件のレジの奥には、ピエール瀧のサインが…。謎深い。

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