さすがに、10Kリアルタイムレンダリング映像はきつい。ここで得たノウハウ、今後に活かさないと、わたくし、浮かばれません。

2時間集中して、晩御飯を、 作り置きを含めて料理する。非常に、達成感がある。

数点の料理をする場合、冷たいものから作り始めたり、鍋のやりくりなどもあるから、レシピと作り方を全体的に把握し、ワークフローを考えながら、走り出す必要がある。もし、どこかでスタックしたりすると、ワークフローの脆弱性が悔やまれたり、良い感じのクリティカルパスを見いだせると嬉しくなる。

というのが、大体の私の日曜日。

すみません、電マって、健康器具だったんですね。タモリ倶楽部で知りました。

「今週の一本」をいじる。

まぁまぁだな。とは言え、自分が求めるフォームは現れない。無理せず、合わせ技を覚えよう。

新橋は何とも不思議なゾーンだ。虎ノ門や汐留などのキラキラした再開発エリアに囲まれつつも、「昭和」が残っている。平成をそのまま通り抜けてきたようだ。

平成に区切りが付いて、ようやく昭和を振り返られるのかもしれない。だから、大河ドラマも、昭和が舞台なのかも。昭和生まれが言うのも何だが、「昭和」が歴史、時代の中に、めでたく仲間入りするわけだ。つまり、昭和のお話は、「時代劇」になるのだ。

大晦日だとか、正月だというのは好きになれない。無理矢理、人のタイムラインに区切りを付けるからだ。人のタイムライン、時間軸というのは、リニアであって、どこかに、区切りなどというのは、存在しない。その作為的に作られる区切りというのに嫌悪感を持つ。わざわざ、人工的に作った区切りで、何を振り返るのだろうかと。

年号変更の煩雑さから、西暦だけにすべきだという議論が再熱しているが、西暦は、一点を除いて、連続したリニアなものだ。しかしながら、考えてみると、年号を変えるという何とも、事務的には強引な方法によって、人為的に、振り返る隙間をつくっているのかもしれない。おそらく、多くの国は、年号というものが存在しないから、こんな儀式は無いはず。

明治からの伝統、大正からの伝統などというが、昭和の伝統の何を評価して、何を捨てるべきか。そんな議論も、わかりやすくなるのかもしれない。

彼は生きていた。

幼稚園に、行事で行くと、「カセットテープ」を見かけて、思わず手に取ってしまった。

彼は、まだ、現役だった。

昔、Eテレで、UAと番組をやっていた山口とも(ともとも)の「ガラクタ音楽会」があるというので、2日連続で「がすてなーに」へ。

ステージ中央に構える廃品で作られたドラムセットは圧巻!お茶目な演奏会ではあるが、パーカッションの演奏は秀逸。この人に、本当のドラムセットを叩かせたら、すごいんだろうなと思いつつ。

「一人楽園」という、音効さんのように様々な道具たち(ガラクタが半分)によって奏でられた南の楽園へのトリップするような楽曲は、とても心地良い。何故、こんなモノから、別なモノの心地良い音がするのだろう。大豆を転ばせば雨だれの様に聞こえる。それはまるで、自然界の相似性の様だ。音にも、相似性があるのかもしれない。何とも、そんな風に思えてくる。

と、考えると。我々が目にしている、耳にしているモノは、本当にオリジンなのだろうか。それとも、何かの相似的な写像なのかもしれない。そう考えれば、VR(実際現実、仮想現実は誤訳だ)は、ある意味、人間の意識のメタレベルから投射された写像とも言える。

本当のオリジンは、どこにあるのだろうか。

転んで痛がっている子供に、母親が痛さを和らげる意味で、「まぼろし〜」と声を掛けていたが、夜の街に彩られるように(新宿2丁目?)、現実とは、幻のような、はっきりしないモノなのかもしれない。それが、確かと感じられるときは、生と死の一瞬なのだろうか。

駄々をこねる娘。

ここは我慢我慢と、己に言い聞かせて、娘にある条件下の選択肢を与え、選ばせる。

悩んだ末に、娘は選択する。それに納得したのか、機嫌が戻る。

人はそういうものだ。選択という自由なのか、意思を持てるというところに満足感を得られるのだろう。

問題は、その適切な選択肢を用意してあげられるのか。悩ましい。

年末年始を挟んで、久しぶりの英会話レッスンを受ける。

元から話せないのに、さらに話せなくなっている。ショックだ。

継続は力なり。
知識と筋肉は裏切らない。そういうことでしょうか。

その筋では神と呼ばれる方と会う。

意外にも、とても気さくな社交的な方だった。

世の中、そういうものです。

とある原稿を考えつつ、思ったことを。

今、あなたはどこに立っていますか?と聞かれたら、何と答えるか。様々な答えが考えられるが、「時」という答えもある。

今、あなたが立っている地表は、時が積層された地層の上に立っている。ミルフィーユの様に、切り出したら、我々は、何層にも、時とともに積もった地層の上に、立っているのだ。

ということは、地球は、どんどん大きくなっているの?何ていう素朴な疑問も生まれてしまうが、いずれにしても、我々は時が意図もせずに可視化された積層の、地層の上に立っていることには間違いない。

さて、その地層の、つまり、時の先には何があるのだろうか。時系列ならば、「今」があり、そして「未来」がある。

ふと見上げると、星の光が宿る夜空が見えるのかもしれないし、澄み渡った天高く届く青空が見上げられるのかもしれない。

パパぁ、この本を読んでと手渡された絵本。なかなか、良い話じゃないかと読み聞かせると、主人公のパパはすでに死んでいる設定…。んー、特に意味はないよね?と思いつつ、本から目をやると無邪気にほほ笑む娘たち。パパは、まだ生きています。

Next Page →