臥薪嘗胆。

今は、それに尽きる。

漢文と言えば、記憶に残る学校の先生に、古文・漢文の先生がいる。人の記憶というのもは、不思議なものだ。意外なものが残る。対して、好きな先生でも無かったのだが。

意外なことが記憶に残っているのに、おかしくもだいぶきちんと記憶に残っていないことがよくある。これは、人間の忘却の素晴らしさがもたらす悪戯というより、その当時、テンパっている、もしくは意識の余裕が無く、記憶のチャンクに、その事柄が入っていかなかったのではないかと思う。

最近、とある出来事を思い出して、失敗とは思わないが、後悔に価する一件だなと悔やまれることがあった。だが、なぜ、自分がその行動を取ったのか、未だに介せない。相当、何かに追われていたのだろう。若気の至りと言っていいことなのか、それ以上のことなのか、または些細なことなのか。

圧倒的に、アプトプットが足りない。文句を垂れる前に、アウトプットだ!出力だ!と自分に叱咤する。

次女の幼稚園の運動会に行く。子どもたちが自由し放題で、先生たちは統制を取ろうと大変なんだろうけど、何となく隊列はまとまっているが、直線では無く、線をノイズでマルチプライしたようなごにゃごにゃ感が微笑ましい。

というのも、その2週間前、長女の小学校の運動会に行ったのだが、久々に見た整列!気を付け!前習え!という号令の元に、一直線に並ぶ子どもたちを見て、違和感というか、嫌悪感を感じた。あぁ、こういう教育をしているから日本はダメになったんだなと、罪無き無邪気な子どもたちの姿を見て思う。これじゃ、まるで軍隊、いや、どこかの某国と一緒じゃ無いかと思ってしまった。

台に載った指揮者の言うことを暗黙に聞き、ただひたすら従えば、評価される。こういうことを身体的に染む込ませる。これは、何なんだろうか。世の中で叫ばれている、「イノベーションを起こす!」とかけ離れたよう光景だ。

幼稚園児たちは、確かに、だらだらに見るようだが、目的に(例えば、協議をするとか、お遊戯をするとか)向かって、下手でも自律的に動こうとしていて、先生たちも、強制的にと言うよりは促すようにして、全体の形を維持しようとする。高圧的では無く。

幼稚園から小学校に上がるまでに、こういった変化が起きて、何か、失われているのでは無いかと思ってしまう。39歳の自分が、未だに、あの白い大きな箱で起きていたことに違和感を感じて生きているのは、ここにあるのかもしれない。

まぁ、モンスターピアレントなどと言われないように、こっそり考えたいと思います。

建築系のイベントにて、NYのHigh Lineの話を聞く。全然知らなくてとても勉強になった。おそらく、一度、NYに行ったとき、おそらく出来上がっていたと思われるので、行ってこなかったことを後から後悔する。

情報アーキテクトという職名がある。つまり、情報の構造体を建築に見立てて、情報設計などをする人のことを、情報建築家的に呼ぶという、まさしくその職能について指し示しつつ、建築家への羨望を形にしたような職名である。情報設計が、建築設計に近いもしくは、相似的に語ることができるというのは、クリストファー・アレグザンダーの「パターン・ランゲージ」が大きいと思うが、その後の建築と情報の分野の歩み寄りを示唆する黎明なのかもしれない。

現代において、人々は「情報」という衣服を身に纏い世界を闊歩している。自分は、そんなイメージでいる。デジタルツインやミラーワールド的な表現概念もあるが、ミラーと言うことは実像と鏡像が常に対になって相互作用し合う。しかしながら、実世界と情報社会が対になるということは、どちらかに主体があると考えられるべきである。無論、近い将来なのか、遠い将来なのか、その主体が入れ替わるシチュエーションが増えてくる可能性はある。どちらかが主体であると言うことは、その片方が、主体に付いてくる、もしくは追随してくる、影響を受け、象が移り変わっていく。

同じくして、建築も、情報という衣服、皮膚を持ち始めている。建築というと、高尚なモノに見えてくるが、私たちが、普段歩く街の景色の中に、そういった物理的な建物の風景だけではない、情報の風景というモノが溶け込み始めていると言うことだ。

そういったステージになったときに、その建築と情報のランドスケープのデザインを誰がしていくかということになってくる。建築側の人たちが、このことを強く意識していて、提言や問題提起を行っているが、情報、デザインの人たちがこのことを意識して発言しているのをあまり聞かない。AR, VR and MR(つまりxR)で、こんなおもしろいことができます!とは言うが、それがどう社会に実装されていくのかというのを大きな文脈から聞くことがない。

建築というモノを情報が包含していく時代。そこに求められるクリエイティビティーとは、何か。ここにチャンスがあるのかもしれない。

今日は、朝から体調が悪く、集中できない。

絶とうと思い、だいたい1/3ぐらいまでに。

何か、いくつかのことを考えていたが、思い出せない。

「悲劇的なデザイン」という本に目を通し始める。デザインは何かポジティブな方向に変えていくというイメージがあるが、デザインは人を傷つけ、時には人を殺すこともあるというショッキングな話である。

確かに、「製造責任」というものが、プロダクトにはある。それによって、起こされた事故、問題について一定の責任を取らなくてはいけないということである。同時に、その負の問題に、継続して意識を持てるかというところである。デザイナーの態度として、このプロダクトは、どんな社会的影響を及ぼすのか、パーソナルな影響を及ぼすのかを常に想像しなければならないことである。それは、その製品が生み出すであろう幸せなことがらと表裏一体モノだと言っても良い。

不安要素を払拭することばかりでは、イノベーションは起こせないというが、プロダクトの開発には、「不安症」も必要だ。それが物理的な機能なのか、ソフト的な機能なのか、思想的なことなのか、それは様々なことにおいてかもしれない。

中華系の通販サイトから、無事に電子ペーパーが届く。開封して、梱包された製品を持ったら、思いの外、軽かったので、まさか!空か!!と思ったのだが、電子ペーパー自体が本当に軽くて、薄い。これは期待できる。

台風一過。不思議なことに、前回の15号の翌日と比べて、自宅の周りは、吹き飛ばされた落ち葉やゴミは少ない。周りの被害は、大分、大きいようだが。

ここ数日、クリエイティブなコーディングのために、環境整備を続けている。アウトプットが見えてこないのが辛いところだが、こういうツールや機能を揃えておくと、後々楽になるということが肌感覚でわかっているので、これは経験がもたらす何かしらなのだろう。

徐々に整いつつあるので、進捗も進むだろう。

自分はどうも、タイトル(肩書き)に弱い。そう呼ばれると、それらしく振る舞おうと自分をインフォームする。それが自分を拡張させるのだと、思っていたのだが、そうでも無い。

自分の社会的な、相対的な評価よりも、自分が何をつくりたいのか、世に送り出したいのか、それが主軸であり、その手段としてタイトルがあるのだ。と、今更ですか?と思い直す。(なおす、というよりは、ただす)

それにしても、世は複雑怪奇である。