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人と話していて、ゲームの話しについて行けないことが多い。専用コンソールから、スマフォのゲームまで、今何て言った?とゲームタイトルを聞き直すが、何のゲームなのか、さっぱりわからない。

意外ですね、ナントカさん、○○○好きなんですか…とか言う会話を聞いても、その意味がわからない。音楽で言うところの、聞いているバンドで、へぇー、意外とナントカさん△△△なんですね…という会話のようなものにも、ついて行けない。

最後にはまったゲームって何だろうか…というのが、実の私である。ゲームに時間を費やすことがあまりない。ゲーム自体の素晴らしさは知っていて、ゲームから、インタラクティブなこと、UX/UIについて学ぶことが多いのだが。

ゲームに講じない自分は、その代わりに普段は何をしているのか。思い返すと、恐らく、他の人たちがゲームをしている時、自分はコーディングしている方が多いのかもしれない。もしくは、本を読んでいるか。確かに、ゲームは楽しい。が、コーディングして、自分が求める好きなものを作ったり、扱い切れていない新しい技術に挑む方が、遙かに冒険的であり、エキサイティングだと自分は感じてしまう。誰かが創造的につくったもので遊ぶよりも、創造的につくることが遊びなのかもしれない。

振り返れば、幼い頃、家に来たパソコンでゲームに遊びまくることも無く、むしろ、戦艦ゲームをLotus1-2-3(昔の表計算ソフト)のマクロで作り上げることに没頭したものだ。

あまり、成長していないと思うと同時に、こういう自分をいかに昇華できるか。悩むべきことは多い。

情報と文化

アラン・ケイの、その筋では有名な文章を遅ればせながら読む。「ヒューマンインタフェースの発想と展開」という本に収録されている。この本は、アップルが社内のUIについての知識をまとめようとし、最終的には社外の執筆者も巻き込んだUIについての論文、レポート、エッセイをまとめた本だ。訳文が難しく、また、引用される心理学への知識が乏しいため、半分理解できているか怪しいが、骨太の興味深い文章だった。彼らがつくり出したUIが、単に現実のデスクトップを模倣した物ではなく、人間の意識や精神の構造を考察し、そこから生み出された物であると言うことを知ることが出来る。

文章を締めくくる段落に有名な一節が出てくる。

未来へのアプローチで、最も興味深い領域へ誘うものはロマンス であると信じている。道具の概念は人間にとって常にロマンチックなアイデア であった。剣からパーソナルコンピューターや楽器まで言えることは、「未来 を予測する最善の方法は、それを発明してしまうことである」ということであ る。

the best way to predict the future is to invent it.

は、あまりにも有名な言葉であるし、自分の座右の銘の一つだ。

しかし、この言葉には続きがあった。

「もしこれが・・・だったらどんなにすばらしいだろう」というロマンチ ックな夢は人生にビジョンをもたらす力を持っている。しかしながら、複雑な プロセスの管理という概念は剣を高々と振り上げた勇者よりもかっこいいわけではなく、真の管理でのロマンスは文化自身を創造することにほかならない。

発明というのは、文化自身を想像することであると、彼は最後に述べている。

興味深いことに、アラン・ケイが絶賛したMacintoshを生み出したスティーブ・ジョブスも、同じようなことを言及している。

Macが素晴らしい製品になった理由の1つは、コンピューター科学で屈指の知識を持つ人材が、音楽や詩、 芸術、動物、歴史の知識も持っていたことだ。コンピュー タのない時代なら、別の分野で活躍していたはず。彼らは、それぞれが持つ知識を、Macに注ぎ込んだ。非常に 文化的な行為だったよ。空気感というかな。何と表現すべきか……文化的な姿勢で、Mac開発に取り組んだんだ。 別分野で触れた、最高のものを伴ってね。視野が狭いと、 そんな風にはいかないだろう。

スティーブ・ジョブス

AppleはMacというコンピュータの商品をつくってきたのでは無く、「文化」をつくってきたのだ。その製品を通して、生み出される生活や思想など、その製品をとりまく環境と時間をつくてきたのだ。もしくは、つくろうとしてきたのだ。

日本語版のMacOSが漢字Talkと呼ばれていた時代、windows95が出てきた時代、「UI」という言葉はキラキラしていた。コンピュータがもたらす新しい時代を高らかに告げていた。人とコンピュータの新しい関係性や、新しい情報へのアクセスの仕方など、そこには「新しい文化」の兆しを感じ取れるモノたちだった。今のUIはあの頃よりも確かに進んだ物ではあるが、その頃のような煌めき感が無いと自分は感じている。確かに、データドリブン的に磨き上げられた精密なUIが生み出される一方で、アラン・ケイの言葉を借りるならばロマンスが無い。そのUIの効果が、どれだけのお金になるのか、そこにUIへの評価が流れていないか。

そもそも、自分が、心躍らせていたUIと言うのが、果たして人間とコンピュータの間にあるUIだったのだろうか。もしかすると、コンピューターを内包する別なメンタルモデルへのインタフェースだったのかもしれない。

キーボード、マウス、タッチパネルと、様々なHUIが出てきた中で、その創成期には、確かに機構的なプリミティブな面白さがあったが、そのプリミティブなおもしろさがコモディティ化した今、実はそれらがもたらす情報へのアクセス「方法」、「手段」に、我々は心引かれていたのでは無いかと、振り返えさせられる。

恐らく、その新しい情報へのアクセス方法が、新しい文化を創成し、世界のワンダーを我々に届けてくれるのでは無いかと思う。とは言え、その新しい情報へのアクセスについての考え方は、1970年代からの大きな宿題であり、半世紀経った今も、我々の生活の中に持たされていないと考えると、甚だ絶望感と焦燥感を感じると同時に、我々が為すべきこと明快なりと思わざるを得ない。

オーナシェフ

技術系や職人系の職種の人が、経営者になると、経営に集中すべきか、現場に出て実作業もこなすか、事業を拡大する中で求められるという話しを聞くことがある。確かに、プレイングマネージャーというのは大変なもので、その仕事、現場が好きであっても、会社維持、拡大のために、「昔は現場に出たものですが…」ということになるようだ…。

と言うが、オーナシェフという職種はすごい。キッチン、お店という現場で奮闘しつつも、オーナーとして店(会社)の経営を細かに確認しながらオペレーションしていく。日々の売り上げと仕入れ、月の給料の支払いを工面し、中長期の経営戦略立案など、現場と経営を両立させながら動かしていく。経営に注力しつつも、自分たちの本職であるシェフとしても、現場を取り仕切る。オーナシェフたちの仕事ぶりを聞くと、意外なところにお手本がいるなと感心する。もしかしたら町工場の社長に通じることなのかもしれない。

昔は、コードも書きました。と言うのも、何だか嫌だなぁと思う今日この頃。ならば両方をという話しになりそうだが、自分の能力的に、コードも書き、ディレクションをするというのはかなり難易度が高い。コードを書き始めると没頭してしまい、全体を俯瞰できなくなってしまう。キャップを取り替える時間割を設ければ良いのだが、コードを書き始めると、のめり込んでしまい気が付くと時間が過ぎてしまっている。コードを書くのをやめて、ディレクションだけに絞れば、という話になるのだが、それはそれで何か違う。

もう少し視点を、カメラを上に上げていくと、つまり俯瞰していくと、要は自分は何を成し遂げたいのか、それにはどの方法を取れば良いのかということなのかもしれない。そのときの自分の変化を、大きな目的のために許容できるかということなのかもしれない。

ぶぢょうほうまんじゅう

気が付くと9月末の書き込みが最後で、もう3ヶ月も経ってしまった。やはり、習慣を保てないというのは、いけないことである。

旧友と久々に話す。いつも、自分に問いと知見を与えてくれる二人だ。

今回は、悩める自分の話しに終始付き合ってくれた。お陰で、いろいろと道が開けた。今回の一番の収穫は、自分は「ぶぢょうほうまんじゅう」になれば良いである。まぁ、大変唐突な話である。意味がわからん、と思う。

この1年、考え始めていることである。それは、自分にとって東京での戦い、修行は終える時を迎えていて、次のステージだとかフェーズを迎えつつあるという話し。これにつながってくるのが、この「ぶぢょうほうまんじゅう」になる。話しがまとまるか、わからないが、まとめてみようと思う。

だいぶ前に、日本47都道府県の物産展と称して、渋谷に、全国各地の「デザインされた」逸品を集めた展示会が行われた。意図したのか、偶然なのか、その会場に揃った「デザインされた」逸品たちは、みんな白く、明朝体で商品名が書かれ、箱物であれば、エンボス加工でも入っていそうな、みんな同じ顔をした、似たり寄ったりのものたちが顔を揃えていた。でも、彼らは、洗練された、上品なたたずまいを誇り、地方でも、こういうことができるのですと、自慢げだった。

察するに、デザインをしたい東京のデザイナーが地方の助成金なのか、助けを求める声を聞きつけて、「デザインをした」パッケージなのか、それとも、周りの白化粧に憧れた地方のデザイナーが、これが新しい地方のデザインだとか言って、おしろいを見よう見まねで塗ってしまったのだろうか。という、様相だった。

たまに、出張や旅行先で、お土産を求めて、そういったお店に入るのだが、店の一番手前に平積み陳列されている土産物に辟易する。どこに行っても売ってそうな、なんとか饅頭だの、なんだかクッキーだの、もう、イラレで名前を取り替えただけのようなパッケージと、その中身。こちらは、本当に、ご当地臭い、これぞ○○に行ってきた!というものが欲しいのに、と思ってしまう。他ないのかと、あたりを見ると、また白化粧した上品なヤツが、これを買って帰ると、センスが良いと言われますよと、微笑んでいる。最終的に、売店の片隅売られている、昔から売られているが今は片隅の狭い思いをしている方々と出会って、彼らと帰途につくことが多い。

西の方に出張に行くと、自分はよく「赤福」を買って帰ってくる。これは、定番中の定番の土産物だ。しかしながら、パッケージは古くからのもので変わりなく、あぁ、あれね、とわかりやすい。そして、赤福は賞味期限が短い。賞味期限が翌日程度で、固くなってしまう。早めに帰って、人に渡さないといけない。そこに、土産物として貴重性が生まれる。1ヶ月でも持ちますよ、という何だかクッキーとは違う。

自分の中で勝手ながら、地元盛岡からの一番のお土産は「ぶぢょうほうまんじゅう」と決めている。この饅頭は一口サイズのゆべしの中に黒蜜が入ったもので、気を付けて食べないと中から黒蜜が出てきてしまって無作法(ぶぢょほう)になるので、そこから名付けられたらしい。この饅頭は、次の日には固くなるので、当日が賞味期限である。加えて、この「ぶぢょうほうまんじゅう」、早いときでは盛岡は八幡町のお店の開店早々に売れ切れてしまうことがある。敢えて帰りの新幹線を昼前に取り、一度八幡町のお店に朝早くに行って買い求め、その足で東京に戻り、知る人ぞ知るという方に、その日の午後にはお土産で渡す。というお土産にしては、手間の掛かるレアな逸品だ。

味も良いのだが、この「ぶぢょうほうまんじゅう」が良いのが、包装紙である。饅頭自体は、よく惣菜が入っている透明のプラスチックの容器に、そのまま小分け包装もされずに入っていて、それをくるりと紙で包装されている。昔ながらの和菓子屋さんの包装だが、その包装紙が、これまた良い筆書きのグラフィックによるもので、恐らく、だいぶ昔から変わっていない代物だ。作家の高橋克彦氏によるしおりも相まって、なんとも盛岡臭い、パッケージとなっている。この素朴というべきか、盛岡臭いパッケージが、間違いなく、人に渡したときに、あぁ、このひとはどこかに行ってきて、盛岡というところに行ってきたんだというリアリティを伝える。どこでも買ってこれそうな何だかクッキーには無く、白粉クッキーにも無い、価値がそこにある。

こういうことを書くと、おい、盛岡を馬鹿にしているな、田舎扱いするな、この東京に魂を売った者め!とお叱りを受けそうだが、そうでは無いのである。敢えて言えば、東京の人が、盛岡から買おうとする物は、東京の姿をした物ではないのである。「盛岡」そのものなのである。借り物はいらないのである。残念ながら、旅先で「東京」は求めていないのである。その場所のものを求めているのである。だから、その土地の雰囲気を感じさせる物や古くから残る物に、人は惹かれる。その土地の個別のものを求めているのだ。それが土地の「個性」なのだ。

ここまで書いていくと、なぜ、自分は「ぶぢょうほうまんじゅう」にならなければならないという思いに立ったかという話しは、どう結実するのか、落ち着くのか、戸惑いも出てくるが、実は、そういうことなのだ、という良い相似的な話しである。

平たく言うと、自分は田舎者である。田舎の出である。それも、東北の出である。これは、どう否定してもしょうがない。これは、20代の頃にたどり着いたアイデンティティであるが、東京の洗練された何かに憧れ、それも大衆的なものに憧れ、それをどう自分の中に取り込めるか、それを追ったのが30代なのかもしれない。しかしながら、そこに答えもなく、実も無かった。

自分には、不思議な習性がある。地元でとか、東北で、というお話に無性に盛り上がったり、盛岡で、東北でやろうというと、何だか、東京で、というよりも、思考が動きやすい。これは、今でも不思議なのだが、自分は、東京サイズでは無いらしい。盛岡・岩手・東北サイズなのである。これは、論理的に、理性的に考えるのが実に難しい。体がむずくのである。変な話し、DNAというものなのか。

東京で、東京的なことをやったとしても、どうもエンジンが掛からない、それは言い過ぎかもしれない、フルスロットルにならない様な気がするのだ。実際は、どうかわからないが、今、そういう心境に至っている。

よく自分の中で「北の、デザイン」という言葉が沸いては、自分に問いを与え、悩ませることが多い。北だからできるデザインとは何か。

友人に、原風景を持つ人間の強さ、というのを改めて教えられた。これは、自然豊かなところで育った人間にとって劣等感になるかもしれないし、アドバンテージになるかもしれない要素である。北で生まれ育った人間だから知っている原風景がもたらすデザイン、クリエイティブとは何か。それを自分は、改めて考えて、求めなければ、と思ったのだ。それは、東京からの借り物では無いもの。

そういう自分がつくるモノは、借り物では無い「ぶぢょうほうまんじゅう」であるべきだと、お恥ずかしながら、この時分になって、改めて悟ったのだ。東京で、東京的なことをやっても、ただ埋もれるだけであり、自分は永遠に「東京」にはなれない。東京はステージであって、自分の本質では無い。

食べ物のお話をしているところ失礼だが、おまえは「臭いか?」ということでもある。田舎臭いということは良いことである。おまえは、北国臭いか?アラカワ臭いか?その問いかけに、我のワークは答えられているか。そう思うのだ。

もう一つ、友人たち教わったこともあるが、それは長くなるので、明日以降に。

こういうことを考えられると、良い年末と年明けを迎えられそうだ。

ピクセルパーフェクト

アンガーコントールは、6秒らしい。怒りを感じたら6秒待つ。大体の怒りの感情は6秒経つと収まるらしい。それを踏まえると、子供へのイラッは、12秒待てば良い。同じく、12秒後、タヌキのように行動に出れば良い。

そう考えると、タヌキは偉大だ。

案件のリサーチで、Three.jsを引っ張り出してくる。1年前ぐらいに、結構いじっていたWebGLを使った3Dエンジンで、WEB上で比較的容易に3Dをつくれるものだ。Flashの終焉ごろに流行ったPaperVisonの様だ。メイン案件で、Unityを使っているが、Three.jsのコードを見ている方が興奮する。なぜだろうか。3Dツールへのトラウマもあるが、やはりコード好きなのか。それともWEB好きなのか。

TwitterのTLで、パーフェクトピクセルという言葉、やたらと流れてくる。UIデザイナーが出したカンプをフロントエンジニアが1pxのズレなく再現できるかという話だ。当たり前だという意見から、そんな議論は不毛だという意見まで、立場や思想の違いから様々な声が。

現実的な話として、レスポンシブル時代において、1pxを忠実に再現できるかというのは果たして、重要なのかというのは一理ある。PCの画面サイズが1024*768前後の時代であれば、ブラウザのウィンドウサイズも、ユーザー環境が違ってもほぼほぼ同じだったので、画面の左上を原点として、1pxの狂いも無く配置すると言うことが大事だったのかもしれない。しかしながら、現代、PCの画面サイズもバラバラであるし、スクリーンも様々だ。PCもあれば、スマフォもあれば、タブレットもある。求められるのは、そのスクリーンサイズの中で、比率的に、レイアウトされているかと言うことになる。これは、余白やボックスサイズだけでは無く、フォントサイズなども含まれる。

UIデザイナが、1pxのズレを許せないか。これは、意図した1pxだからである。設計された1pxだからである。使いやすさ、美しさが考えた上に算出された1pxなのである。それが守られていないと、設計された機能を実現されないのだ。つまり、1pxが重要では無い。その1pxを導き出した設計が重要なのである。設計が守られているか。これが、デザイナが意図したUIを実現できるかの一つの大きな要素になるのだ。

レスポンシブル時代において、その設計は絶対値から相対値へ変化しても来ている。実際に、CSSでは、vhとvmという単位が導入されてきている。これは、画面の高さ、幅に対しての比率からの値を指定する考え方だ。

グラフィックデザインの基本とも言えるグリッドデザインシステムは、顕著な例とも言える。紙の横幅を何分割かして、ここにグラフィック様子をはめ込んでいく考え方だ。この場合、A4なのかA3なのかによって、グリッド毎の間隔は広がり、その中に納められるグラフィックのサイズも変化するし、もしくは左寄せなのか、中央、右寄せでサイズは固定にするのかなど、グラフィックデザイナは判断を求められる。

エンジニアならば、このデザインは、多階層なif文による条件判定で実施無ければならないと、アルゴリズム的なものだと感づいているはずだろう。現代のオンスクリーンデザインにおいては、絶対値より相対値、そして相対値よりアルゴリズムが求められている。

この議論の中で、UIデザイナが上に立ち、エンジニアの力量を試す構図ができているが、果たして、それもそうなのだろうか。UIデザイナが、その値にきちんと意味を持たせているかも、我々は考慮しなければならない。自分の場合、エンジニアの立ち位置でUIデザイナが求める実装を求められることが多い。その際にデザイン指示書に対して質問を投げかけるが、即答で返ってこないことが多大にある。特に動的なデザインの場合に、デザイナは答えに窮することがある。WordPressやヘッドレスのCMSから流れ込んでくる情報を表示するテンプレートを用いたデザイン場合、様々な情報の量や質に合わせて、形を想定して実装する必要があるが、そのパターン出しが甘いデザイン指示書も多い。なぜならば、情報量(文字数など)によって、行数が一定では無く複数行が想定される場面において、(UIデザイナが思い込んだ)1行の情報量の場合のピクセル単位での指定はされているが、複数行になった場合の施策が考えられていない場合がある。複数行の場合の行間は?行末の処理は?その場合他パーツとのマージンは単一行の場合とどう違ってくるのか?フォントサイズは、同じサイズで適正なのか?などなど。エンジニアは、そういった想定を考えて実装を求められることもあるが、それはフリー演技として彼らに求められるのでは無く、UIデザイナが当初から考えるべきことである。

そもそも、1pxというが、オンスクリーンデザインにおいて奇数の指定というのは、多用すべきもでは無い。というのも、コンピュータというのは2進数で動いている計算機である。そのため、処理を速くしたり、変なアンチエイリアスが掛からないようにするには、2の乗数でサイズを出していくことが求められることが多い。2,4,8,16,32,64,128,256,512,1024など見覚えがある数値では無いだろうか。一方で、Rを指定する場合は、計算上奇数の方が好ましいと言うのもある。こういう数学的以前の道具の特性を理解した数値出しがされているか?これも、考えなければならない重要な点である。0.5pxなどという数値指定を出しているデザイナは、影でエンジニアに嘲笑されていると覚悟しよう。

話をさらに進めるならば、未だにUIデザイナがデザインカンプをつくり、それをフロントエンジニアが実装するというワークフローにも疑問を感じなければならない。デザインエンジニア的な人材が、UIデザインもUIの実装もかねて、設計と実装、検証をループさせて実施していくことが本来は求められるべきである。私は絵しか書けないというからという時代は終えて欲しい。私はコードしか書けないからと言うUIフロントエンジニアの時代も終えて欲しい。確かに、高機能なUIコンポーネントを実装するフロントエンジニアの場合は、それに当てはまらないかもしれないが、今、分断されているUIデザイナとフロントエンジニアの境界は融けるべきものではないだろうか。

住居

夢の中で、大先輩に、吐露していた。夢の中とはいえども、語っている自分に驚いてしまった。そういうことを思ってきたのだろう、そして、どうシフトチェンジしていくのかを考えているのかと。

そう考えると、十数年間に考えていたことを本当にしなければならないという気がしてきたが、そんなことを自分が背負って良いのか、自信が無い。確証を持てない。良いことではあると思っているが。

最近、家で仕事やるのも、やりにくいと思ってきた。「臨時」ならば、凌げるものだが、これが「常時」になるのは限界のような気がする。

そもそも、これまでの住居が、仕事場と機能を兼ね備えるようにはなっていない。仕事場は、オフィスであり、住居は住居である。それをいきなり、両方を兼ね備えろと言っても無理がある。あまり、そういうことに頓着しない人は良いのかもしれないが、自分はやはり仕事場だとか、作業場というのを必要とする人間なので、やはりしんどい。だから、家での仕事が快適という人は、すごいなと思う。家で仕事することに安心を覚えるというのは、市中に出歩かずに感染リスクを下げることができるという安心であって、家で仕事ができる安心ではない。

別な軸で話をすれば、リモートで仕事ができるならば、オフィス機能を持つ住居を持てるならば、どこでも仕事ができる。しかしながら、やはり「オフィス機能を持つ」ことが条件にはなる。自分にとっては。

自分のような人が大多数とは思わないが、日本の住居に関しての考え方がだいぶ変わるのだろうなと思う。

オカリナ

俳優の自殺のニュースが相次ぐ。これは、役者だけの話なのだろうか。そうでも無いような気がしてきた。

日本の8月の自殺者数は、1849人。去年より、245人。15%も増加しているとのこと。そして、この死者数は8月が突起したものではなく、毎月約1,500人以上亡くなっているのである。7月から増加傾向にある。新型コロナウィルスによる死亡者数が1,500人であるから、新型コロナウィルスよりも多い人数が自殺で毎月死んでいるのである。

アーティストは、社会のオカリナのような存在だという。果たして、ニュースにはならないが、有名俳優以外にも、命を絶っているアーティストはいないのでは無いだろうかと不安になる。

この日本の社会がおかしくなっているのか、それとも、コロナ渦が、我々の心を病んでいるのか。どう考えても、おかしいだろうとしか言えない。毎月、約1,500人以上の方々が、自ら命を絶っているのだ。社会の気が狂っているとしか思えない。それが、自己責任と言えるのか?

コロナに殺される前に、コロナの恐怖に殺される。新型コロナウィルスによる、社会の変化、経済の変化で、人が死んでいくのだろうか。

少なくとも、オカリナの鳴き声が絶している。

性癖

インターネット的なものが好きです。というものの、何を持ってインターネット的なのかというと、とても的の広い話になる。

その中でも、何が好きなのか…。

そう言えば、ヴィジュアライゼーションと言いつつ、どこかのサーバからデータを引っ張ってきて、ごにょごにょするはやはり好きである。こうURLを叩くと、意図したフィルタリングによるデータがAPIから出てくる。これが好きなのである。細かく引数を並べて、意図したデータを絞るのも好きだし、大量のデータが流れてくるのでローディング画面処理を、つまり非同期通信をきちんと書かなければならないというのが好きである。

つまり、サーバからデータを引っ張ってくるのが好きである。

その二の次に、もしかしたら、ヴィジュアライゼーションがあるのかもしれない。データを引っ張ってきた証としての。なので、ビッグデータです、AIです、といって単なるアーカイブデータをスタティックに見せるのには惹かれない。予測不可能なデータによるエラーも含めて、予定調和なきインタラクションが好きだ。

これはもう性癖なのだろう。

近作

論じるより「近作」が無い方が問題だ。

世の中の面倒くさいの量は変わらず、どういった面倒臭さの比率設定を取るかの違いだとわかる。予算の件など。

娘の小学校の臨時休校は今日で終わる。さすがに、小学校にコロナ感染者が出るとなると、動揺する。しかしながら、こういう感染者発生、休校ということは、これからも繰り返されることだろうから、それに免疫を付けておかなければならない。加えて、自分たちがいつ感染者になるか、わからない状況でもある。