解離性

いろんな夫婦の在り方があるのだなと、お話を伺う。人の話はよく聞くものである。


土日、気になる展示に足を運ぶ。ゲルハルト・リヒター展に、ジャン・プルーヴェ展に。リヒター展が催されていた近代美術館は、この展示も良かったが、常設コレクション展がとても良かった。近代美術館は、岩手出身にはたまらない美術館でもある。というのも、ここでは、同郷の先人の萬鉄五郎、松本竣介の絵に会うことができる。常設展の冒頭の戦争画には興味が無いなあと思いつつ、中盤にあった1960年代後半のアバンギャルドな作品立ちに心奪われる。今で言う現代アートになるのだろうが、1967年から1970年ぐらいまでの日本のアート作品には魅力を感じる。この数年の間、日本、そして世界の潮流はどうであったったのだろうか。そういう流れでいくと、「現代アート」がメインのはずの東京都現代美術館のコレクション展はいまいちだった。同じ年代の作品も展示されているのだが、何かが違う。

近代美術館で観たソル・ルウィットの「ウォール・ドローイング#769」は、その作品の制作過程、制作手法がおもしろかった。何パターン化の線画をグリッド上に、一定の規則で構成していく作品である。そして、作者は、そのルールを記述するだけで、作品自体のドローイングは、別なスタッフに託される。そのため、ルールに則れば複製可能な作品である。3階ぐらいまでの吹き抜け空間に描かれた壁画としての存在感は圧倒的ではあるが、その作品の本当の存在はそこにあらず、その圧倒的な姿は作品のルールが表出した一面に過ぎない。作品との不思議な対峙を得られる。

作者はルールをつくる。つまり、アルゴリズムをつくる。そして、第三者が描画する。そして、それは、複製可能である。何だか、デジタルアート、クリエイティブコーディングの作品構図に似ている。作者によるコードと再生するメディアが一体となっているように思えるデジタルアート作品ではあるが、それらはレイヤーで分けることができるものかもしれない。その解離性に、何か面白さを感じる。

泣く

感情の多様性、ということを考えさせられる。特に、泣くということに。

泣きたいときに泣けない、または泣くことが許されないし、許せない。それって、どうなのだろう。自分は、やはりわからないところが多い。泣くということで、救われることもあるし、解されることもある。

リス

酒田から戻る。東京は暑い、そして、人が多い。

元来車の運転は苦では無いので、今日も空き時間、最後の1カ所と言うことで、旧青山本邸に行ってくる。不勉強にも、あの青山氏の邸宅があるのかと思っていたら、そうでは無くて、明治時代の漁業王の青山氏の豪邸らしい。確かに、当時にして、平民が建てる邸宅としてはかなりの豪邸だ。展示コーナーで流されているDVDを観ながら、彼の生涯を知る。貧しかった幼年期から、雇われの漁師から始まり、そして使用人300人を抱える漁業実業家へ。この本邸だけでは無く、豪華な別邸も建てているようで、人はお金が余るとこうなるのかしらと思ったが、ナレーションでほぉと思ったことがあった。

彼が拠点とした北海道の祝津に建てた本社兼社員寮の様な建物は、お抱えの地元の大工を呼び寄せて、建てた建物で、地元酒田の伝統的な建築が取り入れられているものだったらしい。中々、大工をお抱えするのも大変なわけで、彼のお陰で、こういった建築手法を継承する大工も生活できたのかもしれない。そう考えると、豪華絢爛な設えなども、お金を出す人がいなければ、世に生み出されないし、その技術の継承、開発もできないわけだから、金持ちが、金に糸目をつけないで、邸宅を建てるというのは、それなりの意義があることなのかもしれない。そう、彼が考えて建かはわからないが、これは大分大きな功績だろう。

最近、ポスト資本主義のような本を読んでいると、資本って、何ですか、富の集中って何ですか、と考えるが、富の分配というのは、何だろうか、という考えに行き着く。人というのは、蓄えると言うことを好む傾向がある。口いっぱいに木の実をためるリスのように。それが、本当に、意味があるのか、何なのか。

そういうことをぼやぼやと考える暇があるなら、仕事をしなさいと言うのが、本当のところなのだろうが。

優雅

優雅ですね…。さすがに、今日は自分でもキレるかと思った。

先日、知人とあえて「休む」という話をした。普段、どんな風に休んでいるんですか、と尋ねられて、いわゆる一般的な休息というのを取っていないのだと、自分の一日を振り返り改めて思う。お互いに、休み方を知らない何とか貧乏ですね、と話す。

いや、確かに、時々、本当に充電が切れて、2~3時間昼寝をすることがあるが、ボーとするとか、何もしないで過ごす時間とか、そういうのがめったに無い。それが、現代病なのか、何なのか、それはわからないが、やりたいことは山ほどあるのだ。

そういう自分からすると、優雅ですね…というのを見ると、はぁ、何だかなと思う。そういう方々が、人生の時間は貴重だとか人に説いているのを聞くと、滑稽だなと思う。

本当に、時間は有限なのだな。

有限化

案件企画のため、TouchDesigner上で空間演出の仮をつくっていく。やはり、細かい表現はできないので、こういった作業は早めにUE5に移行しなければ。

Uninstalled Instllatinシリーズの作品数をできるだけ増やさないようにしつつ、世に出せるように。

実際問題、画面上でも、ある程度具体的に見えてくると、深掘りできそうな部分や、捨てるべき部分などがいろいろと見えてくる。人間の想像力などと言うのは、そんなものかもしれない。頭の中では、無限大ではあるが、突き詰められる問題も無限大すぎて、有限化して突き詰められないのかもしれない。

良問

子どもが受けたいというので、進学塾の学力テストを受けさせる。持ち帰ってきた出題を、難しかった…という子どもと見返す。何でも、学校では出てこないような問題だったと。ひとまず、算数の問題を見てみる。なるほどぉ、という問題である。といっても、難癖を付けてくるような意地悪な問題でも無いが、一ひねり考えなければ問題だ。問題を解く、ということよりも、確かに理解しているということを評価するための良問たちだった。自分の方が、はまりそうだ。

アトムとビット

久々に、アトムとビットについて考える。その境界線は、ますます曖昧になっていると言われているが、人の性なのだろうか、その境界線を求めようとする。もしくは、どちらかの存在に、双方が憧れを持ち、どちらかへの転換を試みる。

「REM」を途中まで観る。建築家 レム・コールハースのドキュメンタリーだ。彼の建築自体を取り上げたドキュメンタリーと思いきや、経営者、人間としての彼を追ったドキュメンタリーとしての内容だった。続きを観ようと思う。