社会実験

所用で行った室町で、とあるAR展示がされていたので、興味本位でアプリをダウンロードし試してみる。正直な感想は、残念な物だった。

こういうときは、つまらなかったで終わらせないのが、肝心である。なぜ、自分は失望したのか、そこを振り替えなければ。

張られているポスターで嫌な予感はしていたのだが、アプリから出てくるコンテンツのテイストについて行けず、そこでほぼ減なり。能面をしたおじさんにセーラー服に、ダサいジャージの男って、もうこの時代、オワコンじゃ無いだろうか?

出現してくる3Dコンテンツも、造形的に良さがわからない。データ容量、スマフォの負荷度もあると思うが、もっと緻密性があっても良いのでは無いだろうか。8ビットにするなら、もっと寄せる。リアリティを求めるならば、そっちに寄せる。中途半端は良くない。

加えて、「日本橋」というものに対してのステレオタイプが鼻につく。何か古めかしい、江戸的なものを出してきたら、日本橋になるのでは?というイメージが残念なところ。御神輿を出したらOKという感覚が理解できない。現代なのか、未来なのか、そういう要素が無いと、タダの悪戯書き。

気になったのが、平日の午後だろうか、ARと並行して展示されていたギャラリーのお客さんも、ビジネスマン風のおじさま方が多い。何となく、ビッグサイトの展示会な雰囲気。そういう彼らを若い男性社員が引率している。何だか、日本企業のいけていない感の側面。この展示企画は、誰が誰に向けての展示企画なのだろうか。

あ、アプリの名前が物語っていた。そのアプリの名は「社会実験」。

盛岡柄

盛岡の地図柄のiPhoneケースをいひひと購入するが、届いてみると、我が実家あたりが、背面カメラのレンズ部分で、載っていない!少々、やってしまった…感。

DailyCodingをUE5でやってみようかとチュートリアルをパラパラと見る。プロシージャルに組み立てられる機能が増えたようで、何かしらできそうだ。

台湾への思いを募らせつつ、台湾混ぜそば風丼をつくり、食べる。

メディアアート、デジタルアート

閉館するというので、とある大規模展示施設に行ってくる。いくつか、感じたこと、考えたことをまとめてみよう。

コンピュータを使ったアート作品は、すべてメディアアートと呼ばれる時代は過ぎ、デジタルアートなどと、新しいカテゴライズによって区分される時代が来ている。メディアアートといわれる分野というのは、新しいメディアを画材として取り入れるところに、そのアートらしさがあり、コモディティ化したメディア表現は、そのコンテキストにおいては、目新しさが無い。アートには、目新しさが求められるが、メディアアートには、コンセプトから、この新しいメディアと、どう向き合うかを求められるジャンルと言っても良い。

ならば、コモディティ化したメディア表現を取り入れた作品が、アートでは無いかと言えば、そうでは無い。例えば、コンピュータでのメディア表現が、「新しい」という様程でアートとしての要素にはなっていないというだけで、それが、いわゆる画材のように、キャプションの素材欄のところに、PCと書かれるように、アート作品をつくり出す一要素になっているのであれば、それは、メディアアートというよりは、デジタルアートと言っても良いのかもしれない。つまり、コンピュータを新しいメディアとして対峙しつつ、作品の素材にするのでは無く、作品を構成する素材としてコンピュータによる表現を取り込むということだ。

そういう意味では、プロジェクションマッピングや触ると何か反応するというのも、コモディティ化していて、既に、それだけではメディアアートとしてのコンテキストの中においては、輝きは無い。現時点では、すでにデジタルアートといったコンテキストの中に位置づけられるものになってきている。だから、それは古めかしいと言うことでは無く、よりそのアート性が求めるのか、それとも、その表現性を活かしたデザインの方向に向いていくのか、そこは分岐点かもしれない。

アンビエントに、そして、環境映像的に、カームデザイン的に、インタラクティブ性を持つということは、確かに難しいことであると、考えさせられる。目を凝らすと、センサー情報から人の動きを読み取り、映像に変化を与えていると言うことがわかるが、それが多くの人が認知できるわかりやすさではあるかというと疑問である。

ジェネラティブナな映像をつくり出す上で、そのシードとなる値をどう決めるかは、これは難しい。乱数値を充てがうことは容易なことであるが、果たしてそれが乱数値であって良いのか?というのは、考えるべき点である。そういう意味で、その乱数値を、環境情報や人流などを検知するセンサー情報に置き換えるというのは、あまり意味を持たない乱数値から、意味を持つ値を元にして生成されるジェネラティブナな映像と、その作品性を強くする。もしくは、機能性(空間への存在感と貢献度)を高める。そこには、弱いインタラクティブ性が存在する。弱いインタラクティブ性は、空間と映像を繋ぎ合わせて、そこに適切に存在することを保証していく(もしくは、その保証をつくり出していく)。

それにしても、4年の歳月というのは恐ろしい。きっと、自分が既に見慣れてしまっているからなのか、解像度やPCスペックに古さを感じてしまう。メディアアート、デジタルアートの常設展示というのは、メンテ性という点でも難しい。

「とある地方都市」

あえて、「とある地方都市」と言うことにしておきたい話題だ。

とある地方都市に、展示インストールのため、訪れた。行く前に、同僚から、昭和レトロなキャバレー跡地があったりするらしいと聞いていて、それは、おもしろそうだと思っていた。とは言え、既に、通常の営業はしておらず、いわゆる貸し箱になっているようで、足を運ぶ予定は無かった。

早朝に、観光名所となっている公園に行き、ホテルからの帰り道、あてずっぽに路地を入り込んでいくと、なんと、ウワサに聞いていた、そのキャバレーに出会う。確かに、昭和レトロな空気漂う、良さげな建物。場末の空気感。とは言え、その周辺には、やっているいるのか、どうなのか不明なスナックが立ち並んでいるのからすると、昔、この一体は、相当賑やかだったことを伺える。自分みたいな人間には、もう、アミューズメントスペースのような光景が続く。

この街は、ある時期まで、やはり賑わっていたのか、多くの商店の古い店舗が残っている。当時は、奇抜な建築だったのかなと思われる不思議な店舗などなど。多分、今この時代になっては、誰も考えつかない、ましてや建てない様なおもしろい店舗設計。だから、これらは残っているだけでも、観光的な魅力がある。歩きながら、iPhoneでガシガシと写真を撮ってしまった。

歩きながら、この懐かしい風景は素晴らしいなぁ思い、東京のどんどん新しくなっていく街並みにはない魅力と安堵感があるなと思う。しかし、この街並みにある程度慣れてくると、レトロという魔法の裏側にあるものが見えてきてしまう。それは、物は残っているだけで美しいが、その裏には、古い物を磨き上げるという不断の営みが必要である。良くも悪くも、この町の残る街並みは、朽ちてしまったものが多い。古い店舗というのも、その店舗を生き残っていると言うよりは、「残ってしまった」という感が否めない。既に、やっていないお店も多い。時が止まっているのだ。あの開店した晴れ晴れとした日から。言葉は悪いが、その後、改修などに、お金が回らずに、そのまま、残ってしまったのだ。

これは、この「とある地方都市」だけの話しなではないと思う。

タクシーの運転手さんに、この街で今賑わっているは、どこらへんなんですか?と聞くと、やはり、大きな道路沿いの郊外店だと話してくれた。大分、持ち堪えた中心部の商店街も、今はシャッター街ですよ、と教えてくれた。彼は、空洞化という言葉で伝えてくれた。

こんな話し、20数年前から語られてきた話しで、昨日、今日の話では無いことは承知だ。だが、この年になって、東京では無いどこかと考え始めると、「となる地方都市」の今を考えてしまう。地方都市にも、粗いグラデーションによって、クラス分けが進んでいるとも思われる。お金が回らないと、いろんなものが朽ちていく。わびさびの思想から言うと、その朽ちるというのも魅力ではあるが、朽ちりながら風化していくのとは別だ。この地方都市で拝見した、千里休の茶さじは、確かに、わびさびていたが、それは確かに、光を放つ程磨き上げられていた。

こんなことを考えなら、歩いていたら、盛岡の亡くなった大先輩のことを思い返した。彼が遺したものは、大きいなと思った。あの建物などなどが、残っていなかったら、今の盛岡はどうなっていたのだろうと、思い返される。

さて、前段で登場した運転手さんと話していて、自分が岩手出身だと言う話になったら、彼が嬉しそうな声を出して、イヤー、自分の息子が岩手に住んでいましてね、と話し始めた。最初は、軽米に住み、今は結婚して紫波にいるのだとか。岩手の嫁さんは、きれいで良い子だと話してくれた。結婚するなら、岩手の子ですよ、なぜか勧められる。俺、オッサンだからと思いつつ。

奇々怪々

飛行機から見下ろす、雲の造形に惚れ惚れとする。恐らく、娘に、何で雲ができるのか?と聞かれても、答えられない。なぜ、雲が発生するのか。水蒸気が云々と言うより、奇跡だ。

その雲に促されるように、細かく震える飛行機の翼。この、大きな機体が空を飛んでいるのも、奇跡だ。変な話し、この翼2つで、この大きな鉄の塊は飛んでいる。兎に角、奇々怪々だ。

と、普段、自分が生きているスモールワールドの狭さに気付かされる。


自分、岩手の田舎の出身なんで…という会話で、距離が身近くなることは、多い。気取ってちゃ、ダメよ。

三角関数と家畜

さすがに、一日では、考えきれない…。普段からの脳筋トレとが足りないのだと痛感。そして、沈痛。夜寝られなかった。


届いたNewtonの三角関数の別冊をパラパラとめくる。この本は、第3版になるらしく、先日、改訂されて出たばかりらしい。例の国会議員の三角関数についての炎上で、改めて三角関数を振り返ろうと買ってしまったのだが、この改訂版の炎上商法だったのかと、吹いてしまった。

本の冒頭にあった、ピタゴラスの定理を使ってスカイツリーが見える範囲を求める問題を読みながら、こういう風に教わったら、当時、もう少し興味を持っただろうなと思いつつ、数学の魅力をどう伝えるかは難しいと考える。

果たして、三角関数(比)が生活の中において必要かという議論が、正弦波の如く、周期的に蒸し返されているが、生活必需品であるかと問われれば、生命を単に維持するにはいらないだろう。しかし、他の事柄と同じで、これは「教養」である。

三角関数は、農耕のための土木測量に始まり、地球の直径を求めたり、銀河の中において地球の存在を求める天文学までにおよび術である。つまり、我々が存在する「世界」を見つめ、よく理解するための術である。そして、我々人類が、この広大な世界において、どういう存在であるかを確かめるものである。先人たちは、その解像度を高めるために、日々、世界と向き合ってきた。

その結実が、数学である。数学は、数字や記号の羅列ではない。人類が、世界をどのように捉えてきたかということを書き記したものであり、その取り組みとしての「姿勢」を表している。

我々人類は、世界を知り、制御していると奢りがちだ。数学は、我々人類に、世界を教えてくれるが、同時に、我々が如何に世界を知らないか、そして認知できていないかを思い知らせるものだ。世界を、宇宙を理解することで、人類が生きる宇宙、そして地球が、この広大な世界において稀有な存在であることを知る。その数学を学ぶことを排除することは、人類が歩んできた英智への営みに対する暴挙である。また、世界を知るという行為は奢ることなく、弛まなく取り組むなければならないという、我々人類が歩んできた「姿勢」を放棄することなのだ。

ここに、例の政治家の発言の怖さがある。世界を知ると言うことよりも、誰かがつくったシステム「で」お金を稼ぐ術を学んだ方がいいというのは、市民への詭弁である。多くの人々が知っているが、システムをつくるのと使うのとでは、相当な違いがある。相当な差がある。利用する者は、利用される者から脱することはできない。システムをつくるには、それ相応の学と教養が必要である。数学などの基礎的な教養を奪うということは、システムをただひたすら利用する側の人々を生み出し、世界を知る術を奪い、世界に対して無知とする。何も知らない人々を扇動することは、権力者にとっては容易いことであり、夢想しがちなことである。その先に何が待っているのだろうか。

日本は、「遙か昔」、電子立国、工業立国などと言われた。三角関数を使えないエンジニアがおっても、そんなことでは立国できない。数歩退いて、エンジニアじゃなければ、数学は必要ないとして、我々は、少なくとも、世界を知る「姿勢」を教養として忘れてはいけない。教養とは、我々が文化的に生きるための必需品である。それがなければ、我々は家畜に成り下がるしかない。

面白いこと

書きあぐねている「ノイズについて」。コードと文芸は、共存できるのか。

自分が、1週間の内に何か面白いことをしたか。これを振り返らなければならない時が、週に2度ほどある。1つが、会社のチーム共有会というミーティングに出す、おもろネタ。2つ目が、英会話の先生との冒頭の会話向け。だいたい、月曜日の朝に、振り返るのだが、人が求めているような面白いことが無い。個人的には、あの本が面白かった。あの式が気になる。あのグラフィックが…というのは、あるのだが、それがいわゆる世間の「面白きこと」では無い。まぁ、変態だからしょうがないかと思えば良いのだが、それはそれで、何だかなと思うことが多い。日々の面白いことでも、メジャー感が無い。もしくは、その誰がおもしろいのかと思うようなことを面白く語れれば良いのだが。

ほど遠い世界

桜も散り、一年の節目がまたひとつ過ぎた。人との会話でも、既に、「猛暑」がやって来るという話題が上がる。東京の夏も、あと数回と思えば、楽しめるだろうか。

気が付けば、世の中、メタバースとWEB3という言葉が闊歩し、得意げに、意味有り気に、怪しい使われ方がされている昨今、自分なりに少々考えてみる。

VRワールドのことを「メタバース」と人は言いたがるが、「メタバース」は思想的な、コンセプト的な呼称であって、「メタバース」の具現化を目指した今のVR等は、まだこの呼称に相応しい本当の姿にはほど遠い。この構図は、アラン・ケイのdynabook思想とその状況に似ている。確かに、「dynabook」と冠した商品などが当初売り出され、世界は夢見たが、それは彼の思想にはほど遠い完成度の、その当時の最先端だった。ようやく、最近のタブレットやノートPC、そしてスマフォが近づいてきたのかもしれないが。「メタバース」も、それらしき物が今あるが、それはまだ本来の「メタバース」では無い。途上中の途上だ。「WEB3」も、同じく、その状況と言っても良い。WEB2.0が何だったのか、そして、その功罪は何だったのか。今、我々は、本当にWEB2.0を使っているのか、そしてそれを踏まえて、我々は3(.0)に向かっているのだろうか。WEB2.0とはなんだったのか。その延長戦に我々は生きていけるのか。様々な疑問が転がる中で、我々は次の未踏地を求めている。

「メタバース」、「WEB3」について、いくつかのイシューで話しをできるのかもしれない。

  • 「メタバース」という帝国主義
  • 「メタバース」と私とわたし
  • 「メタバース」とアンビルドアーキテクチャーと機能による形
  • 「メタバース」、「WEB3」と自然資本主義
  • 「WEB3」とハゲタカ
  • インターネットと民主主義

今日すべてを書き出すことは、難しいので、これをToDoとして、日々に向きあってみようとしよう。


手始めに、観た映画について。その映画とは「竜とそばかすの姫」だ。ようやく観た。映画館で観ようと思っていたが、機会を逸し、家で家族と観た。

細田守の「サマーウォーズ」に続く、仮想現実世界(言い換えればメタバース)と現実が交差する青春ものだ。実際のところ、何か仮想現実を批評するするでもなく、思春期に必要な「物語」の中の理想の自分と、現実の自分の対峙、そしてそこからの成長を描いたストーリーだ。仮想現実世界にダイブする感があるか、新しさがあるが、古典からインスピレーションを得ているとするならば、「ネバーエンディング・ストーリー」などと、物語としての構図は似ている。

ただ、この映画の舞台となる仮想現実世界「U」の設定は興味深い。会員50億人を突破する仮想現実サービスだという。ほぼ世界人口のほとんどが参加している世界と言っても過言では無い。となれば、ここはもう「世界」ではなく「社会」である。この社会に参加するには、自分の生体情報を元にした潜在的なもう一人の「自分」をアバター化して参加する必要がある。この点が前作「サマーウォーズ」と異なる点であるような気がする。いつもの自分とは違う「わたし」となり、このUの中で生きるのである。このあたりが、「メタバース」と自分の複数化、アバター化の話しとなり、「わたし」と「私」の話しとなる。

アニメ映画は不思議なもので、数年おきに、何か預言書のような作品が生まれることがある。恐らく、本作も、その1本のような気がする。

それは重たい

古いキーボードを引っ張り出してきてPCに繋いだのだが、オッサン化が進んだのか、キーボードの打鍵が重たい。このままだと、腱鞘炎になりそうだ。若い頃は、この重たさが良かったのだが、気が付けば、好んで使うキーボードはいずれも軽めのキーボード。

でもまぁ、そのオッサン化も嫌いなわけでは無い。常に、我々は変化している。取捨選択が進み、雑念が減る。

一難去ってまた一難。

ディストピアの入り口

モデルナのCOVID-19ワクチンの2回目を接種してくる。打った直後は、さほど副反応など感じなかったが、午後になってきてフラフラとしてくる。翌朝には、かなり具合が悪く、37℃台の微熱。昼前に、38℃前後の熱が出てきて、起きてられない状態に。インフルエンザやひどい熱の時のような関節痛は無いが、体が痛い。調子の悪さは、3日目の朝まで続き、ようやく3日目の午後に落ち着いた感じだ。「ワクチン」を打ってこんなにひどくなるのが、当たり前、もしくはまだ副反応が軽い方というのは、これまでのワクチン接種と比べて過酷である。インフルエンザのワクチン接種の副反応で、ここまで起きたら問題になるくらいだったはず。

フラフラ言いながら、これはディストピアの入り口では無いかと思ってしまう。世の中では、3回目の接種が必要だとか、ワクチンの効果は半年か持たないので再度打ち直す必要がある。加えて、変種株に対応したワクチンを接種していく必要がある。つまり、抗体免疫のアップデートが必要だと。毎回、この副反応が伴うとなると、気が滅入ってくる。この時代を生き抜くには、こういう痛みに耐えていかなければならないらしい。そして、このワクチンを打てない人は、感染の恐怖と闘わなければならないし、未接種者は断絶と拒絶の社会の中を生きていかなければならない。これは、ディストピアとしか言い様がない。After COVID-19などと言っていたが、どうもそれは来ないらしい。我々は、完全にWith COVID-19の世界に留まることになりそうだ。しかし、未だに我々には、その準備が個にも、社会にもできていない。

UE4を覚えなければと、いろいろなチュートリアルを観る。自分が若い頃と言いますか、プログラミングやツールをガンガン覚えていた頃は、世の中にチュートリアル動画等というものが無かったから、概ね、技術本を読むか、技術系ブログを見るのが普通だった。だから、どうも画面の前に構えてチュートリアル動画を淡々と見るというのは、慣れないところがある。

新しい物を覚えるとき、自分の場合、実際に手を動かすしつつも、使い方についてある程度の情報量を流し込み、全体を把握してから、自分が作りたい物を作り始めるというのが、自分の習得の仕方である。初動のスピードが遅いように見えるが、このやり方の方が、しっくりと来ることが多い。

では、つくりたいものは何か…ということになるのだが、UE4のサンプルを見ながら、そのリッチなレベルを観ても、さほど惹かれ無い…。別にそんなにきれいに草を生やしても…というのがオチなのだが、キューブにライティングしながら、あぁ、そう言えば自分はミニマルなオブジェクトをプロシージャルに動かしながら、ごにょごにょするのをきれいにレンダリングするのが好きだったなと思い出す。そういう雰囲気のグラフィックを生成していくのも、それもそれで有りだなと思い。その下準備を始めるが、それそれは、いろいろと難解そうである。自分の手に馴染むツールに出会うというのは、生涯あるのだろうかと思いを馳せる。