あえて、「とある地方都市」と言うことにしておきたい話題だ。
とある地方都市に、展示インストールのため、訪れた。行く前に、同僚から、昭和レトロなキャバレー跡地があったりするらしいと聞いていて、それは、おもしろそうだと思っていた。とは言え、既に、通常の営業はしておらず、いわゆる貸し箱になっているようで、足を運ぶ予定は無かった。
早朝に、観光名所となっている公園に行き、ホテルからの帰り道、あてずっぽに路地を入り込んでいくと、なんと、ウワサに聞いていた、そのキャバレーに出会う。確かに、昭和レトロな空気漂う、良さげな建物。場末の空気感。とは言え、その周辺には、やっているいるのか、どうなのか不明なスナックが立ち並んでいるのからすると、昔、この一体は、相当賑やかだったことを伺える。自分みたいな人間には、もう、アミューズメントスペースのような光景が続く。
この街は、ある時期まで、やはり賑わっていたのか、多くの商店の古い店舗が残っている。当時は、奇抜な建築だったのかなと思われる不思議な店舗などなど。多分、今この時代になっては、誰も考えつかない、ましてや建てない様なおもしろい店舗設計。だから、これらは残っているだけでも、観光的な魅力がある。歩きながら、iPhoneでガシガシと写真を撮ってしまった。
歩きながら、この懐かしい風景は素晴らしいなぁ思い、東京のどんどん新しくなっていく街並みにはない魅力と安堵感があるなと思う。しかし、この街並みにある程度慣れてくると、レトロという魔法の裏側にあるものが見えてきてしまう。それは、物は残っているだけで美しいが、その裏には、古い物を磨き上げるという不断の営みが必要である。良くも悪くも、この町の残る街並みは、朽ちてしまったものが多い。古い店舗というのも、その店舗を生き残っていると言うよりは、「残ってしまった」という感が否めない。既に、やっていないお店も多い。時が止まっているのだ。あの開店した晴れ晴れとした日から。言葉は悪いが、その後、改修などに、お金が回らずに、そのまま、残ってしまったのだ。
これは、この「とある地方都市」だけの話しなではないと思う。
タクシーの運転手さんに、この街で今賑わっているは、どこらへんなんですか?と聞くと、やはり、大きな道路沿いの郊外店だと話してくれた。大分、持ち堪えた中心部の商店街も、今はシャッター街ですよ、と教えてくれた。彼は、空洞化という言葉で伝えてくれた。
こんな話し、20数年前から語られてきた話しで、昨日、今日の話では無いことは承知だ。だが、この年になって、東京では無いどこかと考え始めると、「となる地方都市」の今を考えてしまう。地方都市にも、粗いグラデーションによって、クラス分けが進んでいるとも思われる。お金が回らないと、いろんなものが朽ちていく。わびさびの思想から言うと、その朽ちるというのも魅力ではあるが、朽ちりながら風化していくのとは別だ。この地方都市で拝見した、千里休の茶さじは、確かに、わびさびていたが、それは確かに、光を放つ程磨き上げられていた。
こんなことを考えなら、歩いていたら、盛岡の亡くなった大先輩のことを思い返した。彼が遺したものは、大きいなと思った。あの建物などなどが、残っていなかったら、今の盛岡はどうなっていたのだろうと、思い返される。
さて、前段で登場した運転手さんと話していて、自分が岩手出身だと言う話になったら、彼が嬉しそうな声を出して、イヤー、自分の息子が岩手に住んでいましてね、と話し始めた。最初は、軽米に住み、今は結婚して紫波にいるのだとか。岩手の嫁さんは、きれいで良い子だと話してくれた。結婚するなら、岩手の子ですよ、なぜか勧められる。俺、オッサンだからと思いつつ。