公園という機能

旅立つ若者を送る。無茶苦茶だなぁと思いつつ、無茶苦茶だからできることもあるというのは、確かにそうかもしれない。


公園としての機能を持たない機能的を期待された公園。というのは、おもしろい。

公園というのは、自然発生するものではない。誰かが意図的に考えて、あえて造るものである。だから、公園という機能を期待された空間のはずである。よって、その空間は機能を持っているはずである。作り手は、自分たちは、間違いなく機能を付与したと自負する。しかし、完成し、人々が触れられるようになったとき、その機能を持ち合わせていないため、公園として機能しないということがある。誰も、そこで時間を過ごそうとはしない。公園のような風景は、そこにあるのだが、それは見た目でけであって、残念ながら公園らしきものに過ぎない。人々は、公園のような風景を見ながら、そこを過ぎ去っていく。

作り手は、公園という機能について明確な当たりを持っていたはずである。だから、彼らは、空間に機能を付与できたはずである。しかしながら、それは機能不全だったため、役割を発揮すること無く、空間を公園とし得なかったのだ。公園の機能とは一体何だったのか。


整然と雑然。なぜ、人は雑然とした方に魅力を感じるのだろうか。

器物

年始に、我が家に新しい器がやってきた。高いものではないが、信楽焼の良い絵柄の皿だ。「絵」というと、はっきりとした図版のようなイメージになるが、どちらかというと文様。

家に帰ってきたばかりで、家に食材が無いと言うことで、冷蔵庫の余り物で、何か作れないかと原価が100円行くか行かないかの三品をつくる。だが、その質素な彼らを素敵な皿に盛ると、それなりの一品に見えてくる。不思議なものだ。日頃、白い磁器を何気なく使っているので、いつもとは違ったおもいになる。


さんさ踊りは、かなり昔からあったようだが、江戸時代に入って、南部氏が奨励する際には、33個の派生形があったそうだ。今でも、各地区に独特の踊りが残り、統合版とは違い「伝統さんさ」として残されている。ここまで、一つの踊りでバリエーションというか、枝分かれして地区に残っている踊りも無いのではないかと、個人的には思う。伝承が危惧される踊り。何かアーカイブしていかないと、失せていく、それこそ形無き大切な物ではないかと思う。ひとまず、さんさ踊りの系統樹図など、いかがと思ってしまう。


正月休みという、ブレーキングは本当に無駄だ。

彼女

 IKEAとか、千葉には行くことがまぁまぁあるので、千葉はさほど遠い存在では無かったが、だまされていた…千葉駅まではかなり遠い。

 昨年、岩手県立美術館で催されていて、見に行きたかったけど見に行けなかった江口寿史の「彼女」展に、千葉駅からモノレールで数分の千葉県立美術館に行ってくる。彼にとっては、大きな回顧展である。

 先日、観てきたアナーキー展と同じく、何となく青春時代のサブカルの、自分の一端である江口寿史。世代的には、ドンピシャでは無いとは言え、彼の絵を見ると、あの頃ね、と思わせる。とはいえ、今観ても、その美しさは変わらない。そこには、「彼女」というビーナスが存在している。展示会場の解説にも書かれていたが、「彼女」という言葉は、とても日本語的な曖昧さがある。英語で言う、sheのように、明確な誰かを示すときもあるし、一般的な女性を表す場合もあるし、恋人・ガールフレンドを表す親密な言葉にもなる。そして、同時に、何だかここの中に、誰とも言えない彼女が宿っている感もある。小学の、中学の、高校の誰かというわけでもないが、確かに、そして何となく「彼女」が心の中いる。そんな「彼女」を江口寿史は、見せてくれる。

 美人画というと、菱川師宣の『見返り美人図』を思い起こさせられる。そうすると、次に浮かんでくるのは、数々の浮世絵の美人画図。海の外に目をやれば、モナリザを始め、多くの美人画が目に浮かぶ。ミロのビーナスだって、美人画の一つだ。なるほど、人々は、何かしらの美人を求めて、男女問わず、美人画を求めてきたのだと。昨今のアンチルッキングズム下では、美人画をどう捉えるべきかはわからないが、美人画は美人画だ。江口寿史の美人画の特徴の一つは、そのファッション感覚の良さにもある。80年代、90年代、2000年代の時代の風を感じる意味でも、重要な美術である。そう考えると、江口寿史の直系は、竹久夢二なのではないかと思ってしまった。なるほど、自分が江口寿史に惹かれるのは、同じく好きな竹久夢二の作風に通じるがあるからなのかもしれないと。竹久夢二が描く女性たちも、素敵な当時の服を纏っている。

 個人的に、なぜ、今、江口寿史かと岩手県立美術館での展示が始まるちょうど、その頃、江口寿史がキャラクター設定をした『サニーボーイ』を知る。あの甘酸っぱさと青春の葛藤の中に生きる少女たちの姿が美しい。『サニーボーイ』は、2022年のベストワン作品だ。

 一つの絵に、目を奪われる。江口寿史の代表的な作風のヘッドホンを掛ける少女。その少女の横顔は、大分昔に自分がつくったポスターの構図とそっくりだ。別に、当時、江口寿史を意識したわけではないが、あぁ、こういう構図良いですよね、と共感を覚える。モデルになってくれた「彼女」は、今元気にしているのだろうか、と冬の青く澄んだ空を仰ぐ。

能ある鷹は爪を晒す

 良くも悪くも、自分の変態性を認め、広く伝えていく。今年からは、そうしようと心に決める。

 まだ、どうなるかわからないが、年末に、デジタルアート系の企画の話しを聞く。ここぞと言うばかりに、気になる日本のデジタルアート系アーティストをリストアップしますよと話し、年始で時間が限られていたので、恐らく自分が知っている1/3ほどを急ぎまとめて、共有する。相手方にはとても、喜ばれた。自分の好きが高じての知識というか、リストが評価されると、それはそれでとても嬉しい。自分が当たり前と思っていることも、他の人から見たら、それは当たり前のことでは無く、珍しいことかも知れない。珍しいということは、恥ずかしいこと、隠すことでは無い。それが武器になることは多いということをすっかり忘れていた、いや、忘れさせていた。

 いろいろと文脈のある話しだが、年始に「建築の触覚」を読みながら、これ、自分が5年前に話していたことを明文化している本だと、感銘を受けた。5年前、その話は訳のわからない話と棒にも引っかからなかった。なので、残念ながら仕舞い込んでいたのだった。が、昨年末頃、それに近いような話しを人に久しぶりに話したら、面白がってもらった。本当に、面白がってもらえたかはわからないが、それは、進めていないのですか?と聞かれて、少々もったいない年月を過ごしたと、少々省みた。

 変態性を語るには、アウトプットをそれなりに広く取らないと、わかってもらえる人に出会えないということなのだろうと、今更に、改めて学ぶ。

 「能ある鷹は爪隠す」というのは、今の時代においては、死語なのかもしれない。出して、ベラベラと喋った方が良いのかもしれない。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とは、それは別もの。

 

解放

カメラとフィルムからの解放

これが、21世紀の映像への批評的な重要なポイントかもしれない

つまり、20世紀の映像は、封建的なカメラという枠組みの中に留まる映像だったのかもしれない。そのカメラの制約というのが、フォーマットになり、プラットフォームの固定観念につながっていく。

21世紀の映像の変化は、時代の潮流としての多様性を求める動きの中で、そういった封建的なカメラから生まれた固定観念を脱していくというものなのかもしれない。

学び遊ぶ

なぜ、学ぶのか。

という疑問には、明確な答えが無いかもしれない。それが何のためなのか突き詰めると、それは、自分の欲するからだといいところに行き着く。ここまで来ると、学ぶという行為ではあるが、それが、その反対である遊ぶと、あまり変わらなくなる。学びたいという欲求と遊びたいという欲求は、同義語になってくるのだ。

考えてみると、今の自分の学びは、遊びの延長線にある。今、自分が好んで読む数学の本に書かれている数学は、自分にとって遊びの延長であって、自分が楽しむジェネレイティブコーディングの為であり、コーディングによる美の世界を覗きたいという想い、そして、世界をよく理解しようという冒険の続きである。そもそも、そのコーディングという遊びは、学生時代に学んだ算数や数学、英語や物理が、ベースになっている。学び、それが遊びにつながっている。遊び尽くしたところで、一回り回って、今学びに戻ってきた感じがする。

遊びと学びは、相反するものではない。そう、今になって思える。学びがあるから、遊びがあり、より深く遊べる。遊ぼうと思うから、学ぶものがある。どちらか、どちらかに包含されるものでも無く、メビウスの帯の様にお互いを繋ぎ合わせているのかもしれない。

ただ、この感覚は、一回りしないとわからない感覚なのかもしれない。もしかしたら、タイミングとして遅いのかもしれないが、自分は、ここ最近、感じるのだ。

高校時代、大して数学が得意だったわけでは無いし、大学時代も大して数学を活用した部類では無い。でも、最近、数学が持つ魅力や美について、惹かれている。それは、20代、30代、自分が得たいと思った表現技法が、様々な数学によって成り立っており、それを得るには数学が必要だと言うことを感じてきたからだ。自分が得たい表現を起点として、数学を紐解いていくと、若い頃、あまり意味を見出せなかった数学の公式も、光り輝いて見えてくる。そこには、クリエイティブの原石がある。また、数学から世界を覗こうとすると、実に哲学的である。遙か昔、数学者と哲学者が同じだったと考えると、その理由がわかる様な気がする。

そう考えると、人は一生、学び、そして遊ぶ。学ぶと言うことは遊ぶということである。何だか、吟遊詩人の様な口ぶりだが、このことを知ると、学ぶと言うことは苦では無いということがわかってくる。学ぶというところで、この営みを終えてしまうと、人によっては、それは「苦」で終わってしまうのかもしれない。そして、本当の遊びは、学びが無いと始まらない側面もある。やはり、この2つが合わさり、循環することで、学び遊ぶことができる。それは、永遠のループなのだ。

自分の最近の悩みは、この自分が得た感覚を子どもたちに、如何に伝えるかだ。これは、本当に難しい。

総仕上げ

シン○○宣言という、まぁ、そういうのをネーミングしようかなと思ったのだが、そのまんま東も言い始めていたので、これは取りやめたいと思う。

5月の誕生日の時に、何か、改めて、自分の目標だとか未来予想をまとめようとするが、まとめきれず、今日までに至る。とはいえ、何も思い付いていないというわけでも無く、あるひとつのことについて見え始めていた。

仙台・盛岡への帰省の帰路、東京駅のステーションギャラリーで催されていた東北の展示に足を運ぶ。春先に、岩手県立美術館で催されていて、さすがに観に行けず指をくわえていたのだが、巡回展で何と東京にも来てくれた。ブルーノ・タウトと東北の関係など、いろいろと知ることができた良い展示だった。高度経済成長期に荒らされる前の東北の民俗・文化をブルーノは評価していた。一方で、東北で新しい物として、形だけで取り入れられた西洋的な物には、見向きもしなかったというブルーノ。何だか、親近感を感じる。

今日の最初に書いた目標と言いますか、ステイトメントは、このことに通じるとこもあり、展示を観ながら、いろいろと思いを巡らせた。


誰だってできることは、誰だってできるわけだし、そこで自分が自分の力を発揮できるとは言えない。自分にしか、できないことすることで、自分の力を発揮できるのかもしれない。自分にしかできないことは何か、この1,2週間、己に突きつけた、もしくは突き刺された(盛岡的表現)問いかけは、一気に氷解してしまった。

仙台の実家で、昔のFUJIROCKのUnderworldのライブ映像をYouTubeで観る。三高坂を”Born Slippy”を聴きながら、自転車で駆け上がっていた、あの頃の自分は、今の自分を評価するだろうか。結局のところ、自分の目指すところ、見たいと思う風景は変わらないのだろう。大分遠回りしたが、その風景を見たいという思いは変わらない。同時に、そこに自分の可能性を感じる。いや、あると言い切りたい。

最後の総仕上げに取り組まなければならない。そびえ立つ山を登る気は無い。切り開くだけだ。

Last Letter

やっとのことで、岩井俊二の「Last Letter」を観た。自分の好きな監督の、期待する作品は、ちゃんと観たいと思って、今日この日まで温存してきた。ようやく、静かに見られる時間ができたので、準備万端で観る。

岩井作品には、かの「Love Letter」という名作があるわけで、それへのアンサー的な作品と言っても良いのだろうか。何しろ、今回は、全編宮城県ロケ(岩井俊二は仙台出身)。仙台や白石の風景がまばゆい。名撮影監督、篠田昇がいない今でも、岩井作品の独特の空気感は健在だ。

やはり、岩井作品は、その脚本の良さにある。今回も、何回も、そう来たのぉと驚かされ、泣かされてしまう。岩井作品の面白さは、観ているときは、そのリズムで、何だかあり得ないような設定も、自然と入ってきて、その世界の虜にされてしまうところにある。後から、はて、あの設定、変じゃない?と思っても、まぁ、あれはあれだからと納得している自分がいる。そんなことを突っ込んだら、粋ではない。その畳みかけるようなリズム感と空気感が、岩井作品の魅力なのだから。

とある役で中山美穂が出てきて、おぉ、と思ったところで、まさかのトヨエツ。これはネタバレなので、書きません。そうそう、あの花火映画のオマージュも織り込まれていた。

Last Letterである、主人公の母の祝辞が身に染みる。