GUIのパーツだけで、その歴史、機能、思想を語れると思っている。
GUIを最小限のパーツで構成するとすれば、何が残るのだろうか。実は、GUIは、テキスト表示とボタンで実は事足りるかもしれない。GUIのインタラクティブ機能は、基本はボタンであるし、情報表示の基本はテキストである。これらがどのような位置に配置されているかで、その機能だったり、操作の意味合い(例えば、優先度)は表現できる。
GUIもしくはUIは、マシンと人、またはシステムと人の橋渡しとして存在し、ボタンは、何等かの機能を呼び起こす、もしくは止めるという非常に原始的なかつ単純な機能性を持つ。GUIは、機械計器を模範もしくは模倣とするならば、ボタンは、機械制御の非常に原始的なプリミティブなものである。そのボタンが、何の機能を持つかを伝えるために、銘板でラベルが刷られ、ボタンの周辺に配置されていた。それが、GUIの姿の元である。
メカニカルなボタンは、それ自体が機械構造に直結していて機械を制御する。電子制御のボタンは、そこから何等かのトランジスタ、ICを経て、モーターなどの可動機を制御する。機械制御においては、ボタンはほぼ一つの機能が割り振られていることが多い。例えば、Aの機構・機械を稼働させる、止める、といったものだ。それが、機械がシステム化してくると、機械が構成するシステムの「一連の機能」を制御するボタンとなり、ユーザのメンタルモデルの中では、機械を動かすというイメージではあるが、様々な機械(機能)が組み合わさったシステムを制御するボタンとなっているのだ。操作者がボタンを一つ押すだけで、目の前の機械たちがシステム(群)として動き出すのだ。
それが引き継がれて、今のGUIのボタンは、様々な機能が一気に稼働する。それは、ユーザの目の前の機械だけでは無く、地球の反対側のサーバーも巻き込んだ地球大のシステムを制御する。例えば、あなたがSpotifyで再生ボタンを押したとしよう。確かに、あなたの手もの中にあるスマフォから音は流れてくるが、その音は、地球の反対側のサーバに保存されているデータが、海底トンネルに這わされた光ファイバーによる通信網とインターネットを介して、手元に届くわけだ。もう、自分の手の中の機械、もしくは目の前の機械を動かすというボタンから、地球を飲み込むような巨大なシステムの機能を我々は、手の中で操作しているのだ。
機械的なボタンに話を戻そう。最近は、街なかで見なくなってしまったが、メカニカルなボタンは、押すときのポチッと言う感触が、我々にボタンを押した、というフィードバックを与えてくれる。今でも、そのボタンの押した感触にこだわる人たちが、ボタンの機構による感触の違いにこだわり、ボタンの集合体とも言えるキーボードを含めて、打鍵感を追求している。ボタンの価値が、その機構による感触、打鍵感という物理的なものとしてもあるのだ。
しかしながら、ボタンはいつの日からか、その物理的な価値を奪われた。GUI上でのマウスでの操作、フラットな平面のタッチパネルの登場によって、我々はボタンらしきものをボタンと見なし、そして「機能」だけを残し、そのものをボタンとして操作することで、機械・システムを制御している。だが、押すという行為によって機能をもたらすボタンらしきものは、押すという行為を失うとボタンとしては成立しなかった。そのため、GUIはボタンを押すと言うことを擬似的に表現するために、視覚的に押せるように立体的な表現を加え、マウスや指でタッチすると、ボタンがへこむような視覚的な表現を持つことで、ボタンとしての体を保つことに、もしくは持つことに成功した。時には、ボタンが押されるときの音も付けられ、より操作者がボタンを押したという間隔を脳内で高める工夫がされた。GUIのボタンの擬態化の最高潮は、初期のiOSから取り入れられたスキューモーフィズムで結する。スキューモーフィズムデザインは、あたかも現実の世界にあるものをモチーフとして、画面内に持ち込み、現実世界の機能とシステムの機能が同等、もしくは近いことをユーザーに暗黙知として学習させ、システム・機能の理解の学習コストを下げることを狙ったものだ。お陰で、これまでパソコンなどに触れていなかったユーザーたちの理解のハードルを下げることに成功し、GUIを搭載したPC、そして、人類にとって不可欠な機械となったスマフォの普及に貢献した。
人類は、このGUIデザインを通して、マウスの操作、タッチパネルの操作というGUIの基本を学び、同時に、擬態化したGUIのボタンをクリックする、タッチすることで、大きなシステムを動かせる、もしくは自分が大きなシステムを動かしていると意識しなくても、自分が求める機能をシステムを通して実現できることを知らないうちに学習した。そう我々は、押すと言うことをしなくても、ボタンを操作できることを覚えてしまったのだ。「押す」ことが機能を動かすということをわざわざ表現されなくても、理解できるようになったのだ。
そして、人類はマテリアルデザインというものをつくり出し、出会う。その一つ前に、フラットデザインというものがあった。フラットデザイン、マテリアルデザインには、擬似的に立体感を出すシャドウなどは持たない。すっきりとした平面のグラフィックが並ぶ。つまり、画面というフラットなものに、擬似的に立体をつくりだしていたのをやめ、そこに表示された平面のオブジェクトに触るだけで、機能を操作できるということを実現したのだ。ここで初めて、GUIのボタンは、機械的な機構に引きずられ擬態化することなく、機能を体現する本来の姿を持つこととなる。その無駄の無いシンプルなビジュアルを多くの人が好んでいるように見受けられる。
無論、その変化にすべての人が追いついていけるか、もしくは、平面化したボタンの見た目が我々にボタンを押すというメンタルモデルが合致するのかというのは議論があるだろうし、誤動作を招くという意見もある。だが、この変遷は、インターフェースが持つ、機械・システムと人間の関係性の変化というのを見事に現している。もし、人類がその素っ気ない見た目(ビジュアル)について行けないとしたならば、一見無駄に思えてきた、その装飾的な立体感は、ビット化したシステムの制御にも、アトム的な機械的な操作感が必要では無いかという問いを投げかけている。