背中

親父の背中を見るではないが、父親が土日、家にいるときは、ほとんと机に向かっていた、新聞のスクラップをしていた記憶しか無い。家で、だらだらぐーたらしている記憶が無いのだ。だから、自分の中では、休日は、勉強したり、研究したり、制作したりするのは普通だと思っている。何が失敗したかって、それが普通だと思えないことに気付かなかったことなんだろうな。

予算

低予算で作品をつくり慣れている人たちが、多めの予算を掴まされると、なぜ、駄作をつくってしまうのか。低予算の手癖が染みついていて、それでお金を使ってしまうと、使い道を誤るのか…。

めがね

免許更新があるので、視力が落ちたような気がするので、駆け込みで眼鏡屋に行く。いざ、視力検査をすると、あんまり変わっていないですね、とこと。そうなんですか??と。強いて言えば、左目と右目のバランスが悪いので、これを補正しましょうか…、と。今までの同じく、ジャスパー・モリソンデザインのフレームで。

なんで見えにくいのか、老眼でも無いようですし…。

ハイパーコネクティビティ

畑に行く。道中、「竹林公園」というのがあるので、寄ってみる。前から、竹が多いなと思っていたので、何があるのだろうと好奇心がそそられる。案内板が示す、細い道を上がっていくのだが、公園に続く道とは思えない未舗装の住宅の脇を歩く道で、不審者に思われないかと思いながら歩き進める。しばらくして、公園らしき開けた場所に着く。ほっとする。

竹林公園と言うだけあって、向こう側の景色が見えないぐらいの竹林が広がっている。「たけのこをとらないでください」というカンバンに愛嬌がある。いや、盗掘ではないが、切実な問題なのだろうか。

畑の方は、先週行ったメンバーが草取りをしたのだろうけども、元気よく雑草が伸びている状況。最初の1時間は、草取りに勤しむ。お陰で、太ももが、次の日の朝、筋肉痛だ。無心に、草を取るという行為が何の生産を産むかわからないが、無心になって、作業をするというのも良い物だと、改めて、ここに来た意義を感じる。十数年ぶりに、野生のトカゲを見たり。

リュックに入れたブックカバーが付けられた意中の本を取り出したら、なんと忙しさにかまけて忘れていた本だった。イタリアのデザイン研究者が書いた、デザインにできないことという本だ。

デザインの定義は人それぞれではあるが、この本では、他分野をつなげるハイパーコネクティビティを持つものとしてデザインを定義している。

デザインはその中心の不確定さゆえに、他の専門分野や文化的領域の狭間で意味を持ち、また、それらを結びつけるものでもある。

続けて、バウハウスの初代校長のヴァルター・グロピウスの言葉を引用している。

デザインを芸術と技術の「新しき融合」と呼んだ。芸術と技術はいまもなお個別の領域ではあるものの、デザインはこのふたつの異なる領域の間から出現し、双方にとっての斬新な解釈を生み出している。   

芸術と技術の出自が、デザインという若輩によってつなげられるようなものであるかは、別議論として、二つの領域をコネクトするという考え方は、興味深い。これまで、アートや多要素との「違い」を説かれてきたのに、それらをつなげる触媒としての存在として見るというのは、新しい視点ではないだろうか。

デザインの持つ意味、意義を考える上で、良い道しるべを得たと思う。

Zettelkasten

Zettelkasten(ツェッテルカステン)という手法を調べている。梅棹忠夫の「知的生産法」で紹介されている京大型カードが近い考え方である。とは言え、ドイツ語の名前で覚えにくい。「ツェッテル」は、カードや紙を意味し、「カステン」は箱や入れ物という意味だそうだ。そう分けると、覚えられるのだろうか。

Obisidianとの組み合わせが良いなど、いろいろ記事を読んでいるが、あともう一歩足りない…。たぶん、ここが自分が求めるところなのだろう。

膨大

何をつくりたいかのか、と具体例を求められて、はてと窮する。

掘り下げていくというよりは、断片を紡いでいく。すると、つながる、つながる、つながる。コンテキストなグラフは、何かを語る。

そう考えると、人間が生きるということは膨大な知と経験のネットワークをつくることなのか。

「もの」の空間構成

「もの」による構成のインスタレーションに惹かれるのは、インターフェースとしての物質が建築空間にどのように存在すべきかのヒントを与えてくれているからではないだろうか、そういうことを細かく分析していくことが大事なのかもしれない。