センスウェア、再び

本日は、12年目の3.11だ。当時、9歳だった佐々木朗希がWBCのマウンドに立つというのは、感慨深い。熱いものがある。


先日、「佇むインターフェース」という考え方への名付けを見つけ出したのが、では、このインターフェスは、何を表すためのモノなのだろうかと、一つコマを進めてみる。

すると、最近、手を触れていなかった「センスウェア」という言葉が思い起こさせられる。改めて、「センスウェア」という言葉を調べてみるが、不思議なことに、誰が提唱し、定義したか、何か歴史的な名著が出てくるわけではない。ただ一つ言えることは、やはり、sensoriumのメンバーで考えられたもので、特に、LivingDesignの西村さん、そして渡辺保史さんのお二人が大きくこの発想に関わっており、これに竹村先生も賛同していくという流れのようだ。このあたり、渡辺さんがご存命だったら、きちんと伺いたいところで、とても悔やまれる。ネットの検索上位に入ってくるのは、原研哉さんが企画した展示会だが、これは、センスを纏うという意味合いが強い様である。

sensewareは、sense-wareと分けられるように、soft-ware, hard-wareを意識した言葉だ。つまり、(物理的にも、電子的にも)我々が手にすることができる仕掛け(道具とは表現しきれない無目的な物としてもあるいるので)として、感覚に訴え、感じることができる物である。これは、カームテクノロジー的なノンバーバルな、もしくは非通知型のユーザーインターフェースと言ってもいい。的を射た表現とは言えないが、あえて定義すると「感覚に訴え感じ取ることができるユーザインターフェースを持つオブジェクト」。それがセンスウェア(senseware)だ。

sensoriumが生まれたのが1996年だとすると、27年経った今、我々は何か日常的なセンスウェアを手に入れているだろうか。どちらかというと、表層的かスピーディーな情報把握を優先させれるメディア、表現が溢れた世界の中にいる。地球の裏側を知るのではなく、地球の裏側に思いを馳せるというようなインターネット初期の考え方は、もはや牧歌的な話になったのだろうか。

竹村先生がよく言う、ヒトを馬鹿にしないインターフェスというのは、単純にヒトが使えるのではなく、ヒトの持っているポテンシャルを導きだし、脳できちんと描きながら操る、もしくは考えを巡らせるためのモノということだ。センスウェアが持つ、一つの側面がそこにもある。思いを馳せる、考えを巡らせるということだ。

感じ取らせるという、自己主張が強くない派手では無い存在だから、「佇むインターフェース」という言葉を引き寄せたのだろう。今こそ、再び「センスウェア」というものを考え直して、我々の生活の中にどうインストールさせ、ヒトと(広義での)情報システムの良い関係を見出せるかを求めてみたい。

紙宮

手漉き和紙のインスタレーションの写真に惹かれ、組む東京で催されていた「紙宮」展で、実物を体験。

前から、手漉き和紙によるインスタレーションには興味を持っていて、コンペ提案に盛り込んできた。和紙の無垢でありながら、手漉きによって、繊維がつくり出す原始的なランダム性に惹かれる。そして、あの透き通るような、光を吸い込み、光を包み込むような存在は、あの素材でしか出せない、独特の世界だ。あまりにも繊細でか弱い様に見えるが、実際には、しっかりとした丈夫な素材であるところにも、何だか惹かれる。


それにしても、何か感動してフルアクセルで頭を動かしながら帰ると、何かしらいつもよろしくないようだ。

ひょこりさん

ここは、堪えどころだ。タヌキに徹しましょう。


先日、とあるサイトを紹介したところ、そのサイトのスクロールバーがきれいだという感想を聞く。気付いていなかったのだが、そのサイトのスクロールバーのサムの部分(マウスでつかむ部分)がキレイなグラデーションで塗られていて、今までの素っ気ないグレーのサムとは違い、演出の一つとなっていた。

スクロールバーでこんな演出ができるなんて知らなかったが、そもそも、最近、スクロールバーを見かけることが少ないという。確かに、近頃のスクロールバーは、普段は姿を見せず、ドラッグしてページを動かしたり、マウスのホイールを回したり、画面端のスクロールバーの位置にマウスカーソルを持っていくと、ふわっとその姿を現す。君は、本当に姿を隠していて、呼ばれたときだけ顔を出せば良い存在だったろうか。彼の姿を消したり出したりしながら思う。

スクロールとは、巻物という意味を持つ。なるほど、巻物をクルクルと巻き取りながら見るメタファーで、画面に収まらないページの表示可能な位置を移動させるというものだ。巻物は実際に紙を巻物の軸に巻き付けて、少ないスペースでも読むことができ、大容量の紙の情報にコンパクトにアクセスできるという画期的な記録メディア構造である。

厚い本を見ると、人によっては目眩がしたり、伸ばそうとしていた手が引っ込んでしまう。なぜならば、その厚さはその物量感だけではなく、情報の多く含まれていることを体現している。つまり、文字数が多く、その本を読み上げるのに、厚ければ厚いほど時間が掛かることを、一瞬にして、その厚さが教えてくれる。果敢にも、その暑い本に挑んだ読者は、段々と減っていく片側の本の厚さに、自分が挑んだページ数と、そして残すページ数を計り知り、読書の達成感を感じながら、さらに読み数進めていくことだろう。

巻物も同じく、太い巻物には、おそらく膨大な情報が収まっているはずである。巻物は、読み進めるには軸に紙を順に巻いて見る位置を変えていく必要があり、アジアの縦書きの言語圏であれば、文章の冒頭が書かれた右側の軸は最初、何も巻かれて折らず、左側の軸には残りの紙が巻かれた太い状態だ。読み進めていくと、次第に右側の軸に紙が段々と巻かれ太くなり、左の軸が痩せ細っていく。やがて、右と左の太さが同じくなる。読者は、その同じくなった左右の軸を見て、今、自分はようやく巻物の半分まで読み進めたことを知る。最後、左側の軸に巻かれた紙は尽き、巻物のすべてを読み切ったことを読者に伝える。

スクロールバーも、語源の巻物と同じく、今ユーザーがどこの位置を呼んでいるかを知らせてくれる。スクロールバーのサムの位置が、ページの中での今の位置を知らせてくる。今のスクロールバーのサムは、高さが固定では無く(横スクロールバーの場合は幅)、今表示されている位置をページの高さから相対的に算出される。そのため、とても長いページで表示されている領域が、全体のなかで狭い場合、スクロールバーのサムの高さも小さいものになる。今、自分が見ている情報は、全体の中のどれぐらいのボリュームで、どの位置を見ているのかを瞬時にユーザに伝える機能をスクロールバーは持っているのだ。もちろん、スクロールバーは縦スクロールの場合、上下にボタンを持ち、それぞれが上方向、下方向へのスクロールさせる。

興味深い話しとして、WindowsとMacでは、マウスのホイールのスクロール方向が違う。両OSを切り替えて使用するユーザーによっては混乱を来す違いだったりする。Windowsでは、上方向(奥へ)にホイールを回すと、上方向にページがスクロールする。一方、Macは、ホイールを上方向に動かすと、ページが下の方にスクロールする。なぜ、Macは逆なのか。考えると、実際の巻物をもし縦方向に置き、下に方向に紙を送る場合、軸を奥の方向に回して紙を巻き取ることになる。Macのホイールのスクロール方向は、メタファーとなった巻物を忠実に再現したものなのだ。ちなみに、Macの設定画面では、Mac方式とWindows方式を選べるようになっていて、Mac方式は「ナチュラル(自然)」と名付けられている。

スクロールバーの機能を整理すると、スクロールバーは、ページ送りという操作機能を持ち、同時に画面の表示仕切れていないページの中の、今ユーザーが見ている位置、そしてその情報量の多さについて表示するという、操作系と状態表示系の二つの機能を兼ね備えた多機能なGUIパーツと言える。

しかしながら、いつからしかスクロールバーの上下(もしくは左右)のページ送りボタンは無くなり、その幅も狭くなり、最後には、スクロールバーは必要なときだけしか表示されなくなる。その存在を隠すことが粋と思わせるようなGUIのデザインが、今や主流である。

ホイール付マウス、もしくはスクロールできるトラックパッドが一般的な現在おいては、ページ送りボタンや、つかんでページの位置を変えるサムは、必然性が薄い機能・パーツなのかもしれない。しかしながら、ユーザに対して、全体の情報量と、その情報の中の現在地点を伝える機能は、果たして不必要なのだろうか。それは、洗練なのか。ふと、ひょっこりさんのように顔を見せたり引っ込んだりさせるスクロールバーを見ながら、思ってしまった。

ボタン

GUIのパーツだけで、その歴史、機能、思想を語れると思っている。

GUIを最小限のパーツで構成するとすれば、何が残るのだろうか。実は、GUIは、テキスト表示とボタンで実は事足りるかもしれない。GUIのインタラクティブ機能は、基本はボタンであるし、情報表示の基本はテキストである。これらがどのような位置に配置されているかで、その機能だったり、操作の意味合い(例えば、優先度)は表現できる。

GUIもしくはUIは、マシンと人、またはシステムと人の橋渡しとして存在し、ボタンは、何等かの機能を呼び起こす、もしくは止めるという非常に原始的なかつ単純な機能性を持つ。GUIは、機械計器を模範もしくは模倣とするならば、ボタンは、機械制御の非常に原始的なプリミティブなものである。そのボタンが、何の機能を持つかを伝えるために、銘板でラベルが刷られ、ボタンの周辺に配置されていた。それが、GUIの姿の元である。

メカニカルなボタンは、それ自体が機械構造に直結していて機械を制御する。電子制御のボタンは、そこから何等かのトランジスタ、ICを経て、モーターなどの可動機を制御する。機械制御においては、ボタンはほぼ一つの機能が割り振られていることが多い。例えば、Aの機構・機械を稼働させる、止める、といったものだ。それが、機械がシステム化してくると、機械が構成するシステムの「一連の機能」を制御するボタンとなり、ユーザのメンタルモデルの中では、機械を動かすというイメージではあるが、様々な機械(機能)が組み合わさったシステムを制御するボタンとなっているのだ。操作者がボタンを一つ押すだけで、目の前の機械たちがシステム(群)として動き出すのだ。

それが引き継がれて、今のGUIのボタンは、様々な機能が一気に稼働する。それは、ユーザの目の前の機械だけでは無く、地球の反対側のサーバーも巻き込んだ地球大のシステムを制御する。例えば、あなたがSpotifyで再生ボタンを押したとしよう。確かに、あなたの手もの中にあるスマフォから音は流れてくるが、その音は、地球の反対側のサーバに保存されているデータが、海底トンネルに這わされた光ファイバーによる通信網とインターネットを介して、手元に届くわけだ。もう、自分の手の中の機械、もしくは目の前の機械を動かすというボタンから、地球を飲み込むような巨大なシステムの機能を我々は、手の中で操作しているのだ。

機械的なボタンに話を戻そう。最近は、街なかで見なくなってしまったが、メカニカルなボタンは、押すときのポチッと言う感触が、我々にボタンを押した、というフィードバックを与えてくれる。今でも、そのボタンの押した感触にこだわる人たちが、ボタンの機構による感触の違いにこだわり、ボタンの集合体とも言えるキーボードを含めて、打鍵感を追求している。ボタンの価値が、その機構による感触、打鍵感という物理的なものとしてもあるのだ。

しかしながら、ボタンはいつの日からか、その物理的な価値を奪われた。GUI上でのマウスでの操作、フラットな平面のタッチパネルの登場によって、我々はボタンらしきものをボタンと見なし、そして「機能」だけを残し、そのものをボタンとして操作することで、機械・システムを制御している。だが、押すという行為によって機能をもたらすボタンらしきものは、押すという行為を失うとボタンとしては成立しなかった。そのため、GUIはボタンを押すと言うことを擬似的に表現するために、視覚的に押せるように立体的な表現を加え、マウスや指でタッチすると、ボタンがへこむような視覚的な表現を持つことで、ボタンとしての体を保つことに、もしくは持つことに成功した。時には、ボタンが押されるときの音も付けられ、より操作者がボタンを押したという間隔を脳内で高める工夫がされた。GUIのボタンの擬態化の最高潮は、初期のiOSから取り入れられたスキューモーフィズムで結する。スキューモーフィズムデザインは、あたかも現実の世界にあるものをモチーフとして、画面内に持ち込み、現実世界の機能とシステムの機能が同等、もしくは近いことをユーザーに暗黙知として学習させ、システム・機能の理解の学習コストを下げることを狙ったものだ。お陰で、これまでパソコンなどに触れていなかったユーザーたちの理解のハードルを下げることに成功し、GUIを搭載したPC、そして、人類にとって不可欠な機械となったスマフォの普及に貢献した。

人類は、このGUIデザインを通して、マウスの操作、タッチパネルの操作というGUIの基本を学び、同時に、擬態化したGUIのボタンをクリックする、タッチすることで、大きなシステムを動かせる、もしくは自分が大きなシステムを動かしていると意識しなくても、自分が求める機能をシステムを通して実現できることを知らないうちに学習した。そう我々は、押すと言うことをしなくても、ボタンを操作できることを覚えてしまったのだ。「押す」ことが機能を動かすということをわざわざ表現されなくても、理解できるようになったのだ。

そして、人類はマテリアルデザインというものをつくり出し、出会う。その一つ前に、フラットデザインというものがあった。フラットデザイン、マテリアルデザインには、擬似的に立体感を出すシャドウなどは持たない。すっきりとした平面のグラフィックが並ぶ。つまり、画面というフラットなものに、擬似的に立体をつくりだしていたのをやめ、そこに表示された平面のオブジェクトに触るだけで、機能を操作できるということを実現したのだ。ここで初めて、GUIのボタンは、機械的な機構に引きずられ擬態化することなく、機能を体現する本来の姿を持つこととなる。その無駄の無いシンプルなビジュアルを多くの人が好んでいるように見受けられる。

無論、その変化にすべての人が追いついていけるか、もしくは、平面化したボタンの見た目が我々にボタンを押すというメンタルモデルが合致するのかというのは議論があるだろうし、誤動作を招くという意見もある。だが、この変遷は、インターフェースが持つ、機械・システムと人間の関係性の変化というのを見事に現している。もし、人類がその素っ気ない見た目(ビジュアル)について行けないとしたならば、一見無駄に思えてきた、その装飾的な立体感は、ビット化したシステムの制御にも、アトム的な機械的な操作感が必要では無いかという問いを投げかけている。

失われない価値

とある区立の科学館に展示を見に行く。

恐らく、建てられたのは2000年前後ではないかと思われる、あちらこちらに年期が感じられる建物と展示品が並ぶ。ブラウン管のCRTディスプレイも健在だったりして、この裏では、Win98が動いてるのだろうかと、いたずらに期待させてくれる。当時は、予算を掛け子どもたちに夢を見させるため、大人たちが自慢げに揃えた最新の設備だったのだろうが、今では、子どもたちが手元に持つSwitchやスマフォの方が未来かもしれない。一方で、懐かしの昭和の家電と言って、古いテレビやビデオデッキが大事にケースに入れられて展示されていたが、下手すると、通常の展示品も、この中の展示品の中に収蔵可能では無いかと思ってしまう。懐かしの中に、飲み込まれていくかのように。

そんな中、色褪せない展示があった。それは、昆虫の標本だ。下手な展示棚に入れられることも無く、木製の至ってふつうの標本箱に入れられた彩り豊かな昆虫標本たちは、その輝きを失わずに、生命の美しさをうたう。標本の第一人者だった前の館長の肝いりの標本コレクションらしい。

失われない価値とは、何かと、懐かしの雰囲気が漂う商店街を歩きながら、思う。

今さらながら

ここの来て、改めて思えば、自分が興味が強くあるのは情報デザインなのだと思う。ここのサービスデザイン、UIデザイン、UXデザイン、ヴィジュアルデザインではなく、それらを束ねる、もしくは実現するための施策としてのデザインに興味がある。今さらながら、自分の興味分野を整理すると、そうなるのだろう。

では、情報デザインとは、どう定義したらいいだろうか。いろいろのあるのだろうが、自分なりに考えると、それは、漠然と、混沌と存在するdataを何等かの意図を持ち、かたち付けてinformationにすること。その行為をわかりやすく伝えるのが、上で上げた個々のデザイン手法ではないかと。どうしても、その形をつくる行為が魅力的なため、個々のデザインによる制作が好きだと思ってしまうのだが、そこは本来、自分が惚れ込んでいるものではなく、その時折の姿である。

そもそも、なぜ情報デザインの話しに立ち戻ったかというと、最近、自分がリブートしている「やわらかい建築」に関係してくる。この「やわらかい建築」というのは、それ自体を自分が主体的にするということではなくて、これからの建築や都市の成り立ちが、そうなってくるだろうという展望の中で、情報インターフェースはどのように変化して、我々に世界を見せてくれるのか、感じさせてくれるのかという点に興味があるからだ。「埋もれる」先となる建築、空間について、想定を持たなければ、情報インターフェースを構築できないわけだから、そこにも興味があるのは然るべきである。だから、一時期とち狂って、建築が…という話しをするのだが、それは、身の程知らずが語る話しに過ぎない。

しかしながら、建築的な思考、発想というのは、情報デザインの上で非常に有益であり、学ばなければならないものである。同時に、不勉強が過ぎて、そう思っているだけかもしれないが、建築のように情報デザインを論じられていないのも、その外に目をやらなければならない理由の一つであると思う。

空間の意味づけ

建築というのは、乱暴に言うと空間を壁で覆えば、それは建築なのだという。これは大変乱暴な言い方であり、他にも丁寧な定義はあるのだが、一つ当を得た表現ではある。壁を設けることで、そこには、意味が存在し始める。壁を設ける行為自体は、意味づけと言える。

 何もない空間に、このように線を引くことで、そこには、意味が現れるし、差が生まれる。シンプルな言い方で言えば、外と内が生まれる。

 無はさておき、何も施されていない空間は、意味を持たない。しかしながら、そこに、単に線を引くだけで、物理的にも、意味的にも、意味づけられた空間が生まれる。その空間内に、どんな気体やら元素が分けられたとしても。

 では、その形はどのようにつくられるのだろうか。どんな美しいかたちにも、不格好なかたちも、それが生まれた、もしくはそれを保つ理由がある。それは、内と外から常に与え続けられる圧である。その形状が生まれた際に加えられた力も圧であるし、そのかたちを保つのも、そして、そのかたちが歪んでいくのも圧の均衡か生むものだ。大きく膨らんだ風船が、丸々とそのかたちを保つのは、その内と外の圧の違いをバランス良く保つためのかたちであるからだ。内と外から何かしらの力を与えても、その均衡を保つために、風船は元のかたちに戻ろうとする。張りである。その均衡が、自ずと丸となるようにとする。

 だが、丸と見える風船も観察すると、正円ではなく、楕円である。さらに観察すると、頭の方よりも、下の方がすぼんでいる。それは、風船の中に空気を閉じこめるために風船の先っぽを結んでいるからである。空気を結んで閉じこめるという状態が、そのかたちをつくりだしている。その状態がなければ、風船は膨らんで丸々としたかたちを持てない。結ばれるというのは必然であり、そのかたちになるのも必然と言える。

 空間に意味づけるというのは、単純に線を引き、かたちをつくることである。しかしながら、それは単純な行為ではない。様々な次元での圧の均衡の元に、そのかたちが生み出され、保たれることを我々は、意味づけるという行為の中で意識しなければならない。

ベクトル

特定の属する集合体において、自分の評価、もしくは活動への評価が低いのはよくわかったが、それに対して、その集合体の特定のベクトルもしくは集合ベクトルに沿って、存在しようとは思わない。

我がベクトルを持ち続けることの重要性

同時多発

同時多発という言葉は、あのテロで忌み嫌いたくなる言葉になったが、本来は、すごいことなのだ。

国立西洋美術館に、ピカソを見に行く。同時代の作品として、マティス、クレー、ジャコメッティの作品も、展示されていた。彼らが、同時代に生き、お互いに刺激し合っていたというのは、とても興味深い。

ピカソに見に行ったはずなのに、個人的には、クレーの「色彩の建築」に魅了されてきたわけだが。