あまりにも、自由なお話のオンパレードにあきれる。

文化の三連休、初日を除いて、ほぼオリジナルプロダクトの開発に時間を充てる。お陰様で、node.jsの制御系から、WindowsFormの描画系との連携の見通しが立つ。

ここまで来ると、ひとまずは、あとはコンテンツですね…ということになる。ぱっと、新しいコンテンツなどはすぐには浮かばないので、これまでのネタを再実装しよう。

ラズパイ100台ぐらい並べて、自律系ネットワーク作品などをやってみたい。

日本を何とかしなければならない、と思うのも、つらくなってきた今日この頃。

ここまでひどい政府も無いだろうと思うのだが、意外にも支持率が上がっているらしい。とはいえ、日本のマスコミの調査だから、どこまで鵜のみすればいいのだろうかと思ってしまうが、日本の大きな流れがそう流れているとするならば、その全体に自分が帰する必要はどこまであるのかと思う。自分以外の大勢の人たちが、今の現状、そして行き着く先に同意しているのならば、それはそれでしょうがない。それに自分が逆らって、多くのエネルギーをそこにつぎ込むほど、自分には、あまり余るエネルギーと時間は無い。

自分の個としての目指すところがあるときに、周りを巻き込んでこの国をどうしかしなければならないという責務の様なものは、短い人生の中で必要なのだろうか。我が国を!というような目指すものがあるのであれば、別なのかもしれないが、それが、自分の目指すところではない。

だとすれば、自分の個として、目指したいものを実現できる場所に、自分を置いた方が自分の人生にとっては有益ではないだろうか。

もしかしたら、去った後に、母国というのもの有難みを感じるのかもしれないが、故郷は思うのものであって、そこにしがみつくものではないというのが、今思うところ。それは、盛岡、岩手を出て思うところと同じである。

自分の中で、勝手ながら、国家感、つまり国への帰属意識は年々低くなっている。親二人が死んだり、子供たちが義務教育を終えてしまったら、この国にこだわる必要は本当になくなってくる。

と、ビックマウスなことを言っているが、英語がなぁ…。

バイバイ、メディアアート

細かいことを書き出すと、それはそれで長い話になるになるので、できるだけ、端的に話すと、自分が10代のころに衝撃を受けた、メディアアートはすでに死んでいて、別な姿に変わり「メディアアート」として存在している。そして、自分が恋に焦がれたメディアアートは、すでに様々な別な呼称によって生き延びているということだ。

だから、メディアアートから、何も言わずに別れを告げよう。

とはいえ、自分の変態エキスを濃厚に注入する目下のプロダクト(アートワーク)は、どういったカテゴリで呼べばいいのだろうか。しかしながら、そもそも、カテゴライズというのは後から付いてくるものであって、その生まれる時点でつけるのは、プロモーション的な、説明的なものでしかないわけだから、とても恣意的な、私欲的なものと言える。

なんだか、古臭いような、自分の中でかなり発酵したものを、改めて、この時になって、表に出すのはとても気恥ずかしいが、結局のところ、この十数年、そんなおもしろいものに遭遇していないわけで、これは自分がやるしかないのだと思う、今日この頃。

世界のワンダーに出会える場所へ。

性的と知性。相反するような存在に思えるが、性的欲求と知的欲求、そして性的興奮と知的興奮は、表裏一体ではないかと、今日思うこの頃。

自分の溜まりにたまった変態エキスを思いっきり注入するプロダクト(アートワーク)をつくろうと思う。もう、今しかない。ここまで、人生が詰んできたので、ここで裸一貫でやるしかない。

平成最後の何とか、というものには、まったく興味が無かったのだが、30代最後の…というのは、何とも敏感になってくる。

そう言いながらも、8月は過ぎてゆき、いわゆる30代最後の夏は終わっていく。特に、やり残したことはありますか?と尋ねられても、特にあるわけでもなく、そう言えば、娘たちと、こういうことをしようと思っていたが、結局できず仕舞だったなと、大人な父親風の考えに落ち着く。

しかしながら、いつでも思っているは、夏には何かが潜んでいると。

SFCの脇田先生が、「 自分なりに納得して生きたぞと思いながら死ぬために 」アートを始めたというインタビューを読んで、確かにと思う。

別にですね、アートをしたいというわけではないのです。自分は、アーティストでは無いので。ただ、今、自分死んだら、間違いなく怨霊になって成仏できないのは明らかなので。

人というのは、わからないもので、数秒後に死ぬかもしれない非常に不確かなものなわけですが、納得できるように生きるということは、一つのベクトルとして、姿勢として大切だなと改めて思わさせられたのです。

きっと、何をやったとしても、死ぬ瞬間は、多かれ少なかれ後悔して死ぬと思うのです。しかし、その後悔の度合いは、生き方で変わるのだなと。

それは、御存命の、生きている最中もそうであり、納得できない生き方を続けていたら、それはそれで、生き様ではないし、子供に見せる背中でもないのではないかと思うのです。

まぁ、そういうことをぼやぼやと考えながら、今朝も納得して納豆を食べているのですが。

マクロな不幸せの辻褄をミクロな幸せで補おうとしている、もしくは誤魔化している。

麻薬性の高いもので、一瞬を忘れようとするのは。この一瞬が心の支えだ…と思うのは、そういうものだろうか。

どちらにしても、ミクロな幸せでは、マクロな不幸せは、結局のところ取り繕うことはできない。

失われた数年は、重たいな。我に、改めてかえる。

週末は、お茶を濁しながら、家にて、開発の筋トレを。

久しぶりに、懐かしいライブラリが目に付く。TUIOというタッチパネルためのライブラリだ。歴史はまぁまぁ古く、2005年から2006年ごろから、赤外線を使ったタッチパネルに使われ、指タッチを画像解析で認識し、OSCなどで返すという優れものだった。今では、大型のタッチパネルがAPI付きで販売されているので、あまり聞かないが、当時は、こういったライブラリを使用して、来るマルチタッチ&タッチパネル時代をに向けて…と、いろんなスタディが盛り上がった。残念ながら、世の中的には、マルチタッチはさほど普及せず、大型化もあまり効果的ではない。タッチパネルは、iPadやタブレットサイズという感はある。

そのTUIOなどが盛り上がっているころ自分も、御多分に漏れず、タッチパネルで見せる新しい情報インタフェースに今日もを持ち傾倒していたが、今は、すっかりご無沙汰な感がある。興味はあるが、そういったお話をもらうことが無いというのが正しい。情報インタフェースとしての大型タッチパネルを考えると、触って花火が出ましたー!お花が咲きましたよー!というのは、何だか違うなと思ってしまう。情報をいかにフィジカルに感じ取らせるか、読み取らせるかという文脈の中では、そういったことは弱い。

そう考えると、自分は、なぜその道に、ぐいぐいと進まなかったのだろうか、興味を持ち続けなかったのだろうか、というのが、今日の疑問だった。そこに、自分がプリミティブな興味関心を持ち続けられなかったというのが、最たる理由なのだろうが。

いろいろ回りに回って、結局のところ、学生時代にAfterEffects、Photoshop、Flashでやったいたようなことを、グレードアップさせてリブートさせていてるような今日この頃である。でももまぁ、ものになりそうではないかと、個人的には思いつつ。

最終的には、しぶとく続けた者が成し遂げるのではないか、と最近思うことが多いのだが、自分もしぶとくねちっこく続けてみようと思う。

しぶとくの話は、またあとで。

← Previous PageNext Page →