夏の事故

夏休み、まぁ、入る前はあれをやって、これをやってと期待を持っていたが、見事に、すべてが裏切られていく。

一冊、本を読み終える。期待はしていなかったが、期待程度の内容だったので、ひどく落ち込むことは無いが、なぜ、そういう内容だったのかと思ってしまう。いや、内容は悪くは無い、構成とストーリーテイリングが悪い。

「入門」と付く本は、確かに、初心者向けに書かれた本ではあるので、平易な表現で専門的なところをかみ砕いて記述することは大事ではあるが、とはいえ、それと下手な親近感を持ち出すのは別なことである。つまり、著者の思い入れやエピソードなどは、あまり入れて欲しくない。それならば、「教科書」面をしないで頂きたい。話しが拡散してしまい申し訳ないというようなのは、紙面でやらなくていい話で、編集者として頂きたい。

「入門」であるからこそ、知識の体系化が重要である。今、ここで、関係が無いような話をしているようだが、これは後々につながっていくエピソードであり、これを今は踏まえて欲しいと言えるぐらいのことを説得できる構成にすべきである。それができないのであれば、「教科書」面をせずに、随筆とすれば良いのである。往々にして、大学教員の書く本に多い。何だろうか、論文執筆の反動なのだろうか。兎に角、あなたの思い入れは要らない。何なら、脚注にでも書いて頂きたい。

夏がやってくると、あまり良い気持ちにはなれない。夏というのは、清々しい青空と共に、同時に終戦というのを抱える季節ではある。夏の入道雲は、果てなき希望を持たせるが、十字架でもある。あの空から、いろんな物が降ってきて、その空の下で様々なことが起きた。

テレビで映画を観ると言うことは、事故的に作品を観ることもある。今のようにオンデマンドで、自分が観たい映画を観るのとは違って、毎週観ている映画の時間帯に流れる作品をたまたま観てしまう、ということがあるのだ。はたまた、深夜に間違って、「2001年宇宙の旅」を観てしまって、洗礼を受けるような。そういう意味では、日本全国の子どもたちが事故だと思っても、観るべきだと思うのが「火垂るの墓」だ。あの映画は、ジブリという、アニメという甘いかぶり物をした、残酷な戦争を語る映画だ。観る者に、かなりの心理的なストレスを与える。だが、どれが戦争だ。あの戦争の酷さを語るに、重要な映画だ。恐らく、この映画を観たーい!と言って、「火垂るの墓」を手に取る人はいないだろう。だからこそ、テレビで、たまたま観てしまった…体験をさせてでも観せた方が良い。トラウマになった方が良い。

しかしながら、「火垂るの墓」が最後に地上波で放送されたのは2018年。3年放送されていない。今年も、放送されていない。脳を麻痺させるようなバラエティを流し続ける方が、事無かれで良いかもしれないが、年に一度、我々は、あれは何だったのかと立ち止まることが必要では無いだろうか。臭い物に蓋をしてはならない。

ならば、家で観ようと思うのだが、大体却下される。冒険活劇を観るのもいいが、ああいう映画を観て、心に痛みを植え付けた方が良い。

数年放送されていないというのも、何だか、戦争の足音が聞こえてきている現れはないだろうかと気になってしょうが無い。

東京ハック

先日、山の中に、キャンプに行ってきた。早朝から鳥の声で目を覚まし、日中も暑くもなく、涼しい風が心地良い。時折、通り雨が雷鳴とともにやってくるが、空に轟く雷鳴をフルレンジで、空気の震えさえも感じられる。

山からの帰り、オリンピックの規制で少々空く首都高を走る。都心に近づくにつれ、段々と複雑化していく道路とビル群の中をくぐり抜けていく。自然溢れるところから帰ってくると、あぁ、東京は兎に角もコンクリートジャングルで…とネガティブな気分になるものだが、ビル群の合間合間に見える、東京らしい緑のエリアもあり、コンクリート建造物と緑がモザイクになっている東京も、俯瞰的に眺めると、興味深い。

東京の中で住んでいると、「俯瞰的」という視点が無くなってくる。第三者的に見ることが無くなってくる。そうなってくると、東京についての視点も、その内部からの視点に偏っていき、東京を「眺める」と言うことが無くなってくる。特に、このコロナ禍、東京という腐海とも、シェルターとも言えぬ空間に閉じ籠もってしまい、その視点がどんどん失っていく。

東京を抜け出すことで、久しぶりに東京を遠くから望むことができる。活字として表現するならば、東京をトウキョウとして捉え直す視点を取り戻したような気がする。

地元に住んでいた頃、東京は憧れの地であり、敵地であったわけだが、上京し立ての頃、東京の成り立ちを地学的に、歴史的に学び東京を知ると、その奥深さと不思議さに惹かれた。それは、東京を「お上り」の視点で見ていたから、外からの視点で見ることができたからだろう。しかしながら、いつの日か、自分がその中に構成物、もしくは、自分との接点を東京に多く持ち始めると、それらに縛られ、空高いところから俯瞰的に眺めようと思っても、自分と都市の間に、粘性の持った糸がまとわりつき、高く遠いとこに視点を移そうとしても、その力で引き戻されてしまい俯瞰しているような気がしても、ちょっとジャンプしているだけで、まった高いところは見ることができておらず、都市の内部に意識が縛られ続けているだけという状態に陥っていたのだ。

首都高を走る車の車窓を眺めながら、頭をよぎった言葉が「東京をハックする」だった。そう言えば、昔は、そんなことをよく考えていたなと思った。良い意味で、東京は自分の街では無い。他人の街だ。自分が住む街では無い。しかしながら、いつしか東京が住む街のように混同してきたのだ。ハックする、いたずらするには、他人の街であるという視点が必要だ。そう、自分は「お上り」で、東京という街は、仮住まいであることを忘れてはいけない。

そう考えると、東京を茶化すというか、面白がることは、いろいろあるなと思った次第で。もちろん、それは創作物の上での話しであるが。

だめだよ、東京人だなんて、思っちゃ。

数行

いろいろございまして、久しぶりに研究ワークを。とは言え、4時間ぐらいMacに向かっていたが、最終的にコミットしたのは、数行だけ。納得の1行なのだが、物事を整理して、改良していくというのは、そういうことなのだと、改めて思う。

緒方壽人さんの「コンヴィヴィアル・テクノロジー」を興味深く読んでいる。イヴァン・イリイチが提唱した概念「コンヴィヴィアリティ」を軸に、もしくは命題として、テクノロジーと人間、人間と自然の関係性について論じている書籍だ。コンヴィヴィアリティの思想のもと、テクノロジーと人間の関係性に論じるまでに、多岐に渡るアプローチで丁寧に案内してくれる良書だと感じる。リファレンスされている書籍も、既読のものから、新しく知るものも多く、これらも目を通してみたいと思うものばかりだ。自分が最近考えていることに近いところもあるし、違う考え方もあるが、とてもまとめられた良い書籍だと思う。

午後に、Twitterで偶然見かけた人工生命研究会のWSにオンラインで参加する。なぜか、自分のフィルターに事前に入り込んでなかったのは悔やまれるが、午後からのセッションをすべて聞くことができた。ドミニク・チェンさんのコーディネートは上手いなぁと思いつつ、やはり池上高志さんのお話はおもしろい。

案内

自分が、小学校だったのは、もう30年以上も前のことだ。その頃と比べると、子どもたちの学習環境や進学の考え方も、大分変わってきている。自分が、「塾」に通ったのは、通算でも1年ぐらい。それでも、自分は四大卒の学士を得られているのだから、幸せなのかもしれない。

なぜ、そんなことを言うかというと、自分が住んでいる土地の地域性なのか、小学校中学年から進学塾に通うのはデフォルトで、学歴が無ければ生きていけないという恐怖観念のようなものを地域コミュニティから嗅ぎつけて来ている家族から感じる。自分が、恐怖観念の様と感じるのは、無頓着過ぎるのかもしれないが、そういうのを感じてしまう。あれだけ、日本の世間が眉間に皺を寄せ馬鹿にしていた韓国の学歴社会の様なものが日本に確実に定着しつつある。小学校の勉強も、受験のためのもになっている。

あなたは、塾に行って良い無いのだから、やることはやって、何か真剣になるものをみつけなさいと言われ、算数やら国語のテストの点数を言われている娘を横目で見ながら、何だかなぁと思う私である。娘自身も、学校の勉強の必要性にピンときていないところもあるようだ。

そんな娘と二人で、電車に乗るタイミングが合って、ちょっと娘に、自分の考え方を押しつけない程度に「案内」をした。

自分は、特に頭が言いの方では無いし、何か大きな知識を持っているわけではない。でも、変な話し、オッサンになってからの方が勉強をしているような気がする。年々、知的好奇心は高くなっているし、日々、学びたいことは増えていく一方だ。なぜ、学ぶのか。オッサンになってから学ぶのは、誰かに迫られて学ぶわけではない。何か、学ぶことによって得たいものがあるからだ。

それは、美しいもの、カッコイイものをつくりたいからだ。そのために、身に付けなければならない知識が膨大にあり、その美しさを定義するための思想を深めるには、学ばなければ無いことが多い。すべては、その制作、創作につながっている。強いて言えば、それが自分にとって生きることだ。

だから、錆び付いて得意では無いけど数式を理解しようとしたり、専門的に習ったことの無い哲学の本も読もうと心掛ける。英単語も、調べる。

小学校、学校で習う算数、数学、それに漢字練習やら、音読。本当に、これは、意味のあることなのだろうか。義務教育だから、学ばなければならない。学校で学ぶことだから、必要なんだ。としか、大人は答えられない。それじゃぁ、子どもは納得しないのでは無いか?と思う。今、自分が学んでいることが、何につながっているんだ??その疑問しか残らない。下手すると、勉強なんて無駄だ、読書なんてお高くとまっているヤツがすることが、などと吹き込む大人すらいる。

幸いなことに、娘は、最近、Scratchなどのプログラミングにはまっている。娘に、好きなプログラミングで何かをつくることに、とことんはまってみれば、と人並みの「案内」をしてみた。そして、少しだけ、プログラミングの仕組みを教える。自分が打った弾がどう飛んでいくか、キャラクタがジャンプするときに放物線、サンタさんがくれたMIDIコン(サンプラー)の音は、すべて波でできていると説明する。そして、その波も算数なんだ。キャラクターが、移動するときに、X座標を10個ずつ足すのも「足し算」じゃない。だから、算数を学ぶと、もっとすごいプログラミングができる。それに、プログラムについて何か知りたいとき、やり方が書いてある本を読むときに、漢字を覚えていれば楽だ。おもしろい物語を読むとき(娘は冒険ものの本が好きらしい)も、漢字がわかった方がわかりやすい。おまけに、自分がすごいと考えついたことやつくったことを人に伝えるときに、文を書けた方が、みんなに伝わりやすいと。

あなたが好きなことと、小学校で勉強していることはつながっている。大好きなプログラミングや工作、読書のために、勉強をちょっとがんばってみるのはどうかな?と提案という案内をしてみた。娘は、まぁ、それをわかってくれたかは謎だが、少々神妙に話を聞いていた。

なぜ、「案内」なのか。それは、自分自身がそうやって学ぶと言うことにモチベーションを持ち、そして、今それが生きる糧になっているからだ。そういう生き方、そして世界を知る方法があるというおとを娘に、少しわかって欲しいと思った。

どこの中高一貫校に行って、有名私立大学に入って、外資だとか、国内の一流企業に新卒で入ることが、人生の序盤の目標なのだろうか。何か、自分が得たいと思うことの結果として、その大学に入ろうとするならば良いのだが、それがHOWになるべきなのだろうか。

何だか、不思議なのだが、算数の計算がそんなに得意ではない娘が、プログラミングだと、キャラクターのスプライトを座標計算させ、得意げに動かしているのを見ていると、算数はドリルの中に収まるものではないなと思うのだ。同じこと、もしくは高度をしていることのなのに、その人の能力を引き出しているか、そこには大分違いがあるような気がする。「サブ」だとしても、私は、娘の能力を引き出す方に興味を持つ。

打席

自分の仕事に対する評価がいまいちであることに、しばらくのところ、悩まされているのだが、とにかくも打数に立って、三振でも凡打でも打つしか無いと決める。お陰で、出塁できそうだ。

結局のところ、内に閉じ籠もること無く、言葉がアレではあるが、おしゃべりであれ、と言うことなのかもしれない。

不調

さすがに、深夜に及ぶ業務MTG.は、体に不調をもたらす。今日は、体が思うように動かない。

変な話し、ガンというのは、こういうのが続くと罹るのではないだろうか。細胞がストレスを感じている感覚がある。

探求の記録

リモートミーティングの画面に映る自分の顔を見て気付いたのだが、おでこがツートンカラーになっている。日焼けなのかもしれない。朝、走るときに、キャップを被っているはずなのだが、そのおでこ下が焼けているのだろう。何だか、変な仮面を被っているようで、やはり変である。

世界のワンダーを伝える、見せることをしたいと改めて思った5月だったわけだが、ここに来て、そのワンダーを伝えるとは、どういうことなのか、実際に確かめようとしている。

伝えるということは、そのことを知っていることが求められる。すべてを知らなくても、ある程度知っている必要がある。知っていると言うことは、気付いただけでは足りない。そのことを理解する、もしくは理解に努め、自分なりの解釈を持つということが求められる。

世界のワンダーには、いくつかの種類がある。知識的なこと、現象的なこと、様々だ。例えば、現象的なこと、我々は、その現象があることすら知らないこともある。それを知ったとき、我々はワンダーを感じる。加えて、その現象の仕組みを知ったとき、さらにワンダーを感じる。そのワンダーは、最初のワンダーよりも大きく、深いものである。私が、ほらぁと人に見せたいワンダーは、恐らく二番目にやってくるワンダーなのだろう。そして、そのワンダーに巡り会うまでの探求の過程と、そのワンダーから得られた自分の解釈なのかもしれない。

世界のワンダーを探る行為のアーカイブと、そこで得られたワンダーの共有、そして、そのワンダーに対する自分の解釈が、コミュニケーションとなる。そう、そこに伝えるということの意味がある。

まだ、作品規模について悩んでいるが、いずれにしろ、世界の現象をサンプリングし、シミュレートし、その現象の要素を見せるという、この作品は、その制作自体が、自分のワンダー探しと理解の過程をアーカイブしたものだと言える。

表層的な美しさを求めることは然りであるが、着想が表現としての美しさだったとしても、その水面下にある探求の過程が、実は求められている。世界を見るための解像度を上げるということが、自分の探求の精神であり、同時に、作品への態度だと言える。解像度を上げるということは、単に視度が良くなるということでは無い。むやみに画素数を上げても、本質的な解像度は上がらない。そのものに対する意味を多く持つことで、つまり認識を深めることで、我々は世界を見るための解像度を上げることができる。

ジェネレイティブアートは、その美しさの裏側に、無数に走るコードがある。そのコードは、その美しさを生み出すだけのものではない。そのコードは、その美しさを語る上で、必要な世界を認識する過程を記したものである。その一部を黒い箱に閉じこめて再現させた思考の成果物とも言える。しかしながら、それは水面下の、あまり人には見せたくない恥部だと扱われてきた。果たして、本来そうであるべきなのか。

オープンソースカルチャーの中において、成果物であるのはコンパイルされたアプリケーションだけではない。そのアプリケーションをコンパイルするために必要なコードも、大切な成果物であり、そのコードの「美しさ」も、時には問われ、その「美しさ」がそのアプリケーションの機能性やセキュリティを保証するものにもなる。コードは、裏にしまわれる創作から生まれる副生成物では無い。

コードとは、自分が世界のワンダーを探求した思考や過程を記録したものと言える。ただし、これは静的な「記録」ではない。そのコードが、その探求を記録し、同時に、探求から生まれた解釈を動かすのだ。それが、単なる「記録」との大きな違いである。

話しが拡散してきたが、世界の一部をサンプリングし、そこに見出されるワンダー、それに対する探求と思考と解釈についてコードを用いて表現し、人々に伝える。どうやら、それが作品ということのようだ。

思考の拠り所

UIにおける「自然」と「拠り所」は何かということを考えたが、思考のくさびの拠り所は何かということを考えたい。

Context Cardの目指すところは、知の可視化である。自分が触れた知、そして、自分の脳の中で起きた、その知と知の化学反応から生まれたものを俯瞰的に見るためのインターフェースだ。本やカードは可視化された知のネットワークのノードとなるが、そのノードたちがのつながりは、どうつくられているか、もしくは表現されるか、というところに、このUIのヴィジュアルとしての面白さがある。さらには、これがこのシステムの構造の要とも言える。

ノードのつながりの可視化はもしくは認識化は、いくつかのレイヤーに分けて捉えられる。まず、一番低いレイヤーは、自分の頭の中で、リンクされた言葉やイメージだ。そのリンクは、正規化されておらず、未整理された混沌とした中に存在している。次のレイヤーで、そのリンクが、どこからどこへのリンクであり、そしてそれは、どんなつながりを持った関連性なのかを言語化し、認識されたネットワークになっていく。我々は、そのネットワークの形成のすべてを脳の中で完結することは難しく、読書カードやノートを書いたり、本に付箋を貼ったり線を入れたりして行っていく。つまり、情報を得た物理メディア(本)から脳内の非物質的情報に変換された後、その非物質的情報をマッピングするために、再び物理メディアに情報の碇を下ろし、リンクさせる行為をしている。脳内の情報ネットワークの形成とその強化を、物理メディアの手を借りながら行っている。物理メディアには、本来の情報はもちろんのことであるが、その本の一節から得られた知、もしくは生まれた知、情報のつながりは、その本自体にあるものではなく、読み手の脳内にある。貼られた付箋は、その読み手の脳内の情報を呼び起こす手助けるとなるくさびなのだ。その付箋は、自分の脳内の情報マッピングを呼び起こす(リンクの)起点となっている。同時に、我々は、付箋を貼るという行為を通して、知の整理をしているとも言える。それは、読書カードをつくったり、線を引くことも同じと言える。

Context Cardで、付箋をUIのメタファの一つとして使っているが、それはメタファであると同時に、知の整理をする行為自体とも言える。自分の脳内の知の整理をするために、我々は付箋を貼る。一旦、この知の整理の行為を抽象化し、再び、実際のUIに落とし込むという作業をしてみたとしたら、どんな操作になるのだろうか。

抽象化し、その行為の要素を考えると、一つ言えることは、付箋を貼ったり線を引くのは、元の情報に何かをAddしている行為である。では何をAddしているのか。抽象化して考えると、その一節についての重要度という情報、もしくは自分の脳内の情報マッピングへナビゲートしてくれるリンクをAddしていると言える。

その行為を繰り返していくことで、脳内の情報マッピングは強化された深い物になっていく。そして、そのマッピングされた情報ネットワークを元に、我々は多かれ少なかれ思索をし、次の知の生産へつなげていく。思考が行為によって増幅されていくとも言える。増幅、それとも強化だろうか。思考全般に、このことが言えるかどうかはともかくとして、少なくとも、情報収集とそれによって生まれる思考については言えることかもしれない。

Context Cardは、知の可視化ではなくて、思考の支援ツール、もしくは、それ自体が思考の可視化ツールなのかもしれない。

後退それとも進化なのか

このUIは、「自然」だ。

と、表現されるときがある。では、「自然」とはどういうことなのか。自然の対極は、おそらく「機械的」であろう。UIが機能に走り、ユーザーがこれまで知っている所作にそぐわない操作、人間の身体性を無視した操作になってしまっていたとき、UIは「機械的」と評価される。そこから、我々は寄り「自然」な所作で操作できるUIに立ち「戻ろう」とする

では、我々は、どこまで立ち戻れば良いのだろうか。より「自然」なUIは、評価される物であるとして、あえて機能的であることを抑えて、より「自然」に立ち戻るということは、後退なのか、それとも最新の機能を自然に使いこなせるための進化なのか。加えていえば、機能的なUIは、それは進化なのか、後退なのか。

UIデザインのスタイルに、「スキュアモーフィックデザイン」というのがある。写実的に、現実世界の文具や道具を質感まで似せたUIをつくり、あたかも本物の文具や道具を使っている感覚でUI(機械)を操作できるというものだ。初期のiPhoneが得意としたものだ。しかしながら、今は、時代が移り、機能的を伝えるのにシンプルな、とてもフラットなマテリアルデザインというようなものが主流である。スキュアモーフィックデザイン自体がレトロフューチャーな匂いを漂わせてる。iPhone登場時、ユーザにとって新しすぎる機能を、感覚的にユーザーの身近な物に置き換え、親しみさせた上で使わせるという一定の役割は果たしたのかもしれない。斬新な機能も、ユーザーの実体験の延長に置くことで、斬新な機能という特異性を失わせ、親しみやすいUIが親しみやすい機能をもたらすのかもしれない。

ぎこちないUIを改良するために、UIデザイナ、エンジニアたちはより「自然」を求める。しかしながら、「自然」とはどこまでが自然なのか。どこまで、立ち戻り、自然さを取り戻さなければならないのか。

「機械的」と言えば、ボタンを押すという行為は、機械を制御する基本的な操作ではあるが、その操作数が増えると「機械的」で人間的では無く使いにくいと評価される。そのため、トム・クルーズやアイアンマンが、タクトを振るようにジェスチャーで空中に浮遊するスクリーンを操作する姿に、人々は何と自然な簡単な操作だ!と目を輝かせた。しかしながら、次の日には、あんなに腕を上げて操作していたら、肩が凝ると言い出す。取り分け、あんなにスクリーンの中身が丸見えだったら恥ずかしいと言い出す始末かもしれない。一見「自然」に見える操作も、ある良い意味「機能的」ではなく、機械を操作する人間にとって「自然」ではないこともある。

タッチスクリーンに指で文字を書くことは、やはり違和感がある。面倒であっても、タブレットにペンを付けて、我々は、それを無くす恐怖を抱えながらも、タッチペンでタブレットに手書きする。確か、タブレットが登場したとき、紙とペンとの決別だ!叫んだはずなのに。結局、我々は、人類が何千年も親しんできたペンというツールの姿を少々形を変えて、立ち戻ったわけだ。

「機能」を使いこなすために、我々は原始時代から、ある意味、UIを開発してきた。それは、単なる機能の進化の延長線上にすべてが語られるわけではない。人間が機能を使いこなすために、どこかで立ち止まり、自分たちの身の丈に合った使い方に落とし込む必要性があるのだろう。

果たして「自然」なUIとは何か。我々の探求は続く。一見それが後退のように見えても、英断による進化なのかもしれない。

世界を表現する数式

大分前に、アメリカのドラマで「Numbers」というドラマをよく観ていたことがあった。兄がFBIの捜査官で、弟が天才数学者の兄弟が、難事件を数学の力で解決して行くというストーリーだ。一見として複雑怪奇な事件のトリックや事件の背景を、弟が数式で表現して整理し、事件の謎を解いていく。いくつもの数式が真理へと導く最後の山場は圧巻である。

数式は、まるで暗号のようで、何が書いているかわからない象形文字のようである。少なくとも、数学に長けていない人間にとっては。一つ、わかっている数式の効能としては、それを見るものに眠りを誘う、安眠効果があるということだ。

最近、表現手法として、分布や遺伝的アルゴリズムを参照したく、その手の本を読み始めた。ご多分に漏れず、数式が出てくる。久々に、Σが入っている数式に触れる。高校時代は、この記号は「試験」のための記号だった。これを解けば、点数が取れる。そういうものだった。しかしながら、今では、自分が見てみたい、体験してみたい事象(作品の動作)につながる記号だ。

自分が見てみたい、体験してみたい事象、つまり作品は、世界の断片を切り出し、そのワンダーを探ることだ。世界の動作の断片を切り取ることであるから、マクロ的に世界を表現する。もしくは、そのように世界を捉えられるかという実験である。どちらにしても、世界の断片を表現するための模索であり、それはどのレベル、レイヤーにおいても、世界の構造を何等かの文字、記号に置き換えて、動作させる、具体化である。断片を切り取るという抽象化から、その記号たちを用いて表現し、それを具体化された動作に落とし込んでいくという行為である。

数式は、眠りを誘う物ではなく、世界を表現するためのいくつかの方法だ。E=mc²は、すくなくとも世界の成り立ちの一つを表現している。

しかし、自分たちが数学を習うとき、数学は国語で学ぶ言葉と同じように、世界を表す「言語」であるということなど、教わらなかった。これは、計算であると習う。人間の認知の産物だと教わることはない。

世の中、大人になってsin, cosなんて、使わないでしょ。という会話がよくあるが、自分の場合は、(デザインエンジニアとして)日常茶飯事で使っているし、あなたが使っているiPhoneは、この計算を夥しい数を日々こなしている。それは、世の中の現象を再現し、我々に自然な計算機としての出力を与えるためだ。(使いやすい操作画面の構築と求められる計算結果のために)

数式は、世界を表現する言葉であるということを改めて考えさせられると同時に、この数式を習うときに、この数式はなぜ生まれたのか。それは世界を表現するためのコミュニケーションなのだということを、如何に子どもたちに教えれるか。この難しさを、数式が誘う甘い眠りの中で思う。