人を育てるのは難しいのだな、ふと思うことが続く。まぁ、しょうが無いか、ここは目をつぶっておくかとするか、いや、ここは言っておいた方がいいかと口にするか、その塩梅は難しいのだなと。
二十四節気などを気にしてみる。
今日は、立春の黄鶯見睆の内らしい。鶯が鳴き始めるのだとか。ここ最近、スズメしか見ていないけどなぁ。
人を育てるのは難しいのだな、ふと思うことが続く。まぁ、しょうが無いか、ここは目をつぶっておくかとするか、いや、ここは言っておいた方がいいかと口にするか、その塩梅は難しいのだなと。
二十四節気などを気にしてみる。
今日は、立春の黄鶯見睆の内らしい。鶯が鳴き始めるのだとか。ここ最近、スズメしか見ていないけどなぁ。
今日は祝日。娘に、今日は何の日かと聞かれるが、何だったかなと思い出せない。答えは、「建国記念日」。あぁ、そうだったかと。建国とはいえ、神話の世界のお話だからなぁと憲法記念日とは違って、ありがたみもないやと思いつつ、水曜日が休みなのは、良いことだと思う。
来月の作品展示に向けて、ようやくホームセンターを物色する。やはり、ものを実際に見ると、イメージが湧くと同時に固まる。
あんこう鍋をつくる。あんこう鍋って、勝手に醤油仕立てだと思っていたが、レシピをしらべると味噌仕立てだった。それも、肝と味噌を合えて煎るとか、知らなかったことが多い。肝と味噌を煎っただけのものも、美味しい。これだけで、酒の肴になる。そうそう、白菜は入れず、大根らしい。これも、知らなかった。
ツェッテルカステンに再び挑んでいるが、結局のところ、わからないところが多い。いや、これについて解説している本、ブログによって、微妙に言っていることが違っている。残念ながら、ツェッテルカステンを作った人物は、その解説書を書いていないので、本当のところはわからず、みんな想像なのかもしれない。想像というか、自己流アレンジが入っているのだろう。ならば、自分もこれをヒントに、使いやすいようにした方が良いのだろう。もともと、情報カードとか、KJ法とかの良いところ取りで行こうと思っているので。
今日は、何だか寒い。まだ、昨日の雪の方が良かったと思えてくる。
もしかすると、この選挙は、歴史の大転換につながる選挙結果になったと、朝明けてのニュースを見ながら思う。風穴を開ける、現実と合わせる、というのと暴走を止めるための制御装置を意地でもこじ開けようとするのとは別だ。明くる日には、減税は難しい、改憲を進めるという。
初の女性総理大臣だかといって、女性側に立っている、弱者側に立っているとは限らない。これは、他の場所でも同じかもしれない。家父長制について、女性の誰もが反対しているわけでは無い。それは、男性も同じではあるが、家父長制によって恩恵をうけ、それを良しとする人もいるし、家父長制の中で奮闘してきて男に勝ってなんぼという生き方をしてきた人からすると、その勝利の土台となる家父長制の崩壊は許しがたいものである。何か勝つものが無ければならない。その勝つものとは何なのか。
防衛も同じだ。戦争に対応するということが、国家を守る防衛では無い。残念ながら、もっと大きなリスクがこの国を侵しつつある。目くらましを食らいながら、足場が緩んで行くに気付かない。そちらの方が、よっぽど恐い。
東京の雪が降るという予報が、大体信じていないのだが、今日は本当に降った。それも、北国で見るような大きめの雪が本気で降った。
雪が降り積もる日比谷、霞が関が、何だか盛岡に見えてくる。雪が降れば、そこは故郷の情景になるのだろうか。だいぶ、自分も安いもんだ。
気になっているキーワードを掘り返してみる。なるほど、である。
早めに札幌に行くことになった。何か、見るべきものがあるか、気になり始める。
人間の記憶は曖昧だ。秋葉原のMac専門店に移行と、場所はてっきり末広町方面だと記憶して、その算段で、他に寄る店を考えていたのだが、いざ、GoogleMapsで検索したところ、思わぬ経路が表示される。どういうことだ、店の場所をよく見ると、それは、神田寄りの万世橋の近く。アレ?そうか、そうだったけ?おかしいな、それも1Fになっている。前は、怪しげなエレベーターを登ったはず…。でも、そうかぁ、自分の記憶違いかと、人の記憶というのは怪しいと思う。
店に行ってみると、自分のイメージしていた店構えとはやはり違う。待てよ、実は、専門店は他にもあって、その店と、この店で勘違いしているのかとも思う。だが、Mac専門店は、ここだけの模様。まぁ、そういうものか。
MacMini用のSSDの1TBは品切れで再入荷は2週間毎のこと。時間がもったいないということで、奮発して在庫のある2TBにする。はて上手く換装はできるのか?
ClaudeCodeは、実装→レビューのポンポンをするようになってから精度は上がったような気がするが、そのピンポンに時間が掛かっているような気もする。
姉上の体調の話を聞く。本人は大丈夫と言うが、先日の胃腸炎でお腹が痛いのはまっぴらな自分としては、それはそれでつらいだろうと思い。
命のためとはいえ、自分のアイデンティティーとも言える臓器を取るというのは、どういうことなのか。これも、想像しがたいところがある。命を取るか、アイデンティティーを取るか、という選択というよりも、アイデンティティーを喪失しても、命は喪失しないわけで、それよりは、つなぎ止めた命と共に、アイデンティティーの再構築というのをどうすべきか。そこに、大きな悩み(問題)があるのだと思う。
そう考えると、身体特有の特徴から得られるアイデンティティーというには、身体性が希薄になる状況において、喪失するもの、存在しないものになるのだろうか。そうであるべきという性的特徴を元に、その身体特有の特徴があるとすれば、それはメンタルモデルであり、実際に、そうではないとしても、一般的な身体モデルとして、持たなくても、持っているような感覚を持つことになるのだろうか。そんなことをボヤボヤと考えていくと、自分の身体の存在性、必要性とはなんだとわからなくなってくる。
といっても、そのわからなくなるようなことを考えている脳を宿すのも、また自分の身体だ。その身体の存在を改め手にするにも、ときたま、やってくる激痛などは、有意義なのかもしれない。あぁ、自分の脳はぼんやりとそこにあるのではなく、確かに、この身体の一部として、存在していて、身体の存在を痛みを通して感じているのだと、改めて、思わさせらるのだ。だから、病気も悪いものでも無いという捉え方があるのかもしれない。
久しぶりに、ELPのメンバーに会う。いろいろと話を聞きながら、こういう話しは、なかなかわかってもらいにくい話しだという話になり、あぁ、そういうことかと、腑に落ちる。
おもしろかったのが、江戸時代前、そのあたりから、関東に流れる大豆は、盛岡が原産の大豆だったらしい、それが関東の味噌食文化につながるとか。確かに、盛岡は豆腐の消費量が全国1、2位の件である。そこがルーツなのか、と日本の隠れざる食文化の歴史に目が点になる。その他、奥深い日本の食文化と、時の権力者の関係がおもしろい。我々が「和食」と思っているのは、平安の公家の食べ物で、武士や庶民は、もっと肉食で雑穀を食べていた。これも一種の勝者の歴史なのだろうか。稲作の単一性など。
久方ぶりに、赤坂に行ってご飯を食べたのが、まぁ、なんだか、赤坂も落ち着かない街である。賑やかさは、他の街と同じくあるのだが、怪しげな感じがある。恐い怪しげの方。次に来るのは、何年後なのか。
インタラクティブ建築、やわらかい建築と来て、気配のデザイン。
コレステロール…。
“minä perhonen”の展示を見に、世田谷美術館に行く。久しぶりに、渋谷を超えて田園都市線に入り、用賀駅で降りる。駅前で、街頭演説する立候補者に遭遇する。自分の家族愛を訴えて、心情に響くようにしているのだが、それは空虚感がある。
入ると、minaの代表的なテキスタイルが一堂に会したインスタレーションが出迎えてくれる。好きとは言え、そこまで詳しくは無いので、こういうテキスタイルの図柄もあるのかと、改めてminaの魅力を感じることができる。
次の部屋に入ると、minaの代表的にテキスタイルがどのようにつくられたのかを、各テキスタイル毎に原案から実際のプロダクトまでを流れで見ることができる。もうこの時点で、キュンキュン。そして、会場の静かな熱気。平日の午後だというのに、ものすごい人出だ。minaを愛する人たちの多さに感心する。高度な機械制御による刺繍から生み出されるテキスタイルは、感嘆の声が漏れる逸品たちだ。
ちょうど、皆川さんが来場なさっていて、図案を描いたり、来場者の質問に答えていた。これは、ラッキーだった。
さて、この展示、前回の「つづく」でもそうだったが、ただ、テキスタイルの美しさを見せる展示では無い。「考える人」、「つくる人」、「つかう人」にきちんとフォーカスを当てた展示で、この会社(あえて)が持つ、真摯な態度が滲み出る展示だ。
「せめて100年続くブランド」。これが、皆川さんがminaを始めるときに、掲げた言葉らしい。会社は、3期、5期も続けけるのも大変。まして、50年もだ。社員たちが、自ら100年後のことを意識して従事することも、この言葉の影響が大きいらしい。そして、自分たちの製品は、自分たちのアイディアだけで生まれているのではなく、実際に刺繍、プリントなどテキスタイルを生み出す工場と一体となってつくっていることを強く意識して、彼らとの共存・共生を考えている。最後は、「つかう人」の存在を疎かにしない。この展示会で企画されたそうなのだが、愛用してきた自分の服を、オーダメイドでお直しできる。年齢や環境の変化で、着る機会が無くなった服をお直しして、新しい命を吹き込む。既製品である服が、自分だけの服、オートクチュールの様になる。ブランドとしては、新しい服を買ってもらったら、それはそれで良いのかもしれないが、それが100年続くことには、つながらない。
使い続けること、こんな当たり前なことが、今の世の中では、通じないときが多い。
確かに、minaの服は高い。でも、その服を買うことで、誰も不幸になっていないという安心は、代えがたいものがあるのかもしれない。誰かの涙に目を背けなければ生きていけない現代において、それは、美徳であると同時に、当たり前になって欲しいことだ。誰かがいじめられているのを関わらずに、自分を守らなければならない、という構図は、学校だけではない。この社会に蔓延しているのだろう。そんなことを思うのだが、じゃぁ、何ができるのか。
木とは、こういう佇まい持っていたのか。そう、様々なフォルムの木たちを見ながら、愛おしくなる。
プロダクトデザイナーの辰野しずかとカリモクの協働作品の展示を、西麻布にカリモクのスタジオに見に行く。麻布というと、田舎者からすると有名人が集まるおしゃれな高級なところで、とても、若輩者が近寄れないところというイメージだ。今でも、近寄りがたいところで、近寄ったことがほぼ無い。内田先生の事務所が西麻布エリアの南側にあるので、一時(いっとき)、足を運んでいたことがあったが、くわばらくわばらと、用を済ませると退散していた。
久々に、西麻布の北側の方に足を踏み込む。すると、再開発で高層化していく東京のエアースポットのようなエリアなのだと知る。平屋、高くて2階建ての民家が多く、その中に、時折、小さなデザイン系の事務所があるようなエリアだった。その中に、カリモクのギャラリーがある。
3月の研究発表に向けて、また木のことを考えているのだが、木、木材は奥深い。辰野さんは、その木たちの物語を掬い上げつつ、オブジェにしていた。よく、この木材は、堅いので、こういう使い方が適しているというような機能的なお話で木の特徴を活かしました…となるのだが、彼女の場合は少々異なる。虫、微生物がもたらした模様なのだとか、クマが樹皮を剥いだ後だとか。そういう話しを聞いてしまうと、木によってつくられたものは、いわゆる工業製品とは異なるものだと感じてくる。既に、そこには生命としては存在していないが、生命の痕跡として存在していて、有機的な世界との断絶を避けるための、リンクなのかもしれないと思う。
ギャラリーで、声をかけられる。何とも、奇遇な再開。
進められてギャラリーの屋上に出る。冬の昼下がりの暖かい日の光を感じながら、東京のすり鉢の中程から見る塔たちと、所狭しと経つ小屋たちをみながら、都市の多面性を感じる。