何をつくりたいかのか、と具体例を求められて、はてと窮する。
掘り下げていくというよりは、断片を紡いでいく。すると、つながる、つながる、つながる。コンテキストなグラフは、何かを語る。
そう考えると、人間が生きるということは膨大な知と経験のネットワークをつくることなのか。
何をつくりたいかのか、と具体例を求められて、はてと窮する。
掘り下げていくというよりは、断片を紡いでいく。すると、つながる、つながる、つながる。コンテキストなグラフは、何かを語る。
そう考えると、人間が生きるということは膨大な知と経験のネットワークをつくることなのか。
「もの」による構成のインスタレーションに惹かれるのは、インターフェースとしての物質が建築空間にどのように存在すべきかのヒントを与えてくれているからではないだろうか、そういうことを細かく分析していくことが大事なのかもしれない。
何をつくりたいのか、と聞かれて、とは言われてもなぁ、まだ、何が世にあるのかも、探し切れていないので、まだそれが無い…もしくは、これから浮かぶのか?と一抹の不安を感じる。
まだ、世に無いものをつくりましょうと言われても、そういう発想力は無いというのが、正直なところだったりする。しかしながら、視点を変えると、つまり問いの立て方を変えると見えてくるものもある。それは、世に無いと言うよりは、未だに自分が見たことがないもの、あれば良いと思いつつも、出会ったことが無いものは何か?という問いである。世の縁(ふち)はあるのか、ないのか。それは、不確かではあるが、自分の縁、自分が出会ったことがあるかどうかは、確かである。それが限界とも言えるが、その境界の存在は確かである。
とすると、それは、あれだろうか。と思い始める。
久しぶりに中野に行く。前は、駅まで飲んだので、中野の街の中に入ったのは初めて。狭い路地に立ち並ぶ飲み街を歩くのは楽しい。惹かれる感じだ。
東京のディープな感じだなぁとお登りの感じでいたら。駅の構内に、チャグチャグ馬コのポスターが。
高尾山の一つ手前の狭間という駅まで行く。山が近くに見えて緑がきれいな街ではあるが、「街」というよりは、新興住宅街なところだ。恐らく、山か森を切り崩し、20数年前に分譲し、各々の家が建ち並んだのだろう。坂の多い住宅街の道がそれを物語る。新興住宅地だから、商店街というものもないのだろう。足を運んだイベントの会場となった、4車線の大きな道の両側に、いわゆるロードサイド型のチェーン店が並ぶ。だいたい、どの街にもそろっているチェーン店がならび、商品を手に入れるにはことを欠かさない感じだ。良くも悪くも見慣れた光景だ。中心地にはお祭りがあるのに、ここには無いと、数年前から地域に魅力をつくろうと始めたイベントらしいのだが、確かに味が無い、素っ気が無いロードサイドな街だ。
ちょうど、気になっている「接ぎ木」の話しを思い出した。台木も切ってしまうか、もしくは、何かも切り落とし、そこに木を挿すか。少なくとも、ここには「接ぎ木」の概念が無い。そう思えてくる。安直ではあるが、平成狸合戦で、終盤、狸たちが愕然とするブルードーザーの所業がここでも繰り広げられたのだろうか。まっさらになったところには、何も「接ぐ」ものが無い。
ロードサイドには、何も接ぐものが無い。だから、街としての魅力が無いのだろうか。旧街道の方が味が合って、魅力的なのは、そういうことなのだろうか。
地と繋がっている建物が「建築」である。ロードサイドのお店立ちは「建物」だと話したことがあるが。「接ぎ木」というのは、そういうことなのだろう。接がれていない上物であるから、それは「建物」であって、「建築」ではないということではないだろうか。
「接ぎ木」とは、本当に、抽象性と具体性をあげる素晴らしいメタファーだ。
情報(デジタル)サイネージは、何者であるかと考えたときに、一つにそれは、情報インターフェースであるということだ。そこに存在する物理的空間に滲み出てくる「情報空間」の現れのようなものではないか。
既に、2025年において、「情報空間」という言葉は、どことなくエキゾチックな装いと牧歌的な匂いがする言葉になりはじめているが、我々は、物理的空間とサイバー情報空間の同時に彷徨う個体だ。その我々が、各空間の関係性を把握する方法の一つが情報インタフェースとしてのデジタルサイネージではないだろうか。
ただ、ディスプレイと表現されず、「サイネージ」という看板という言葉が使われているところに、「広告」性もしくは取り分け「情報」性を強いて求められるという性が生まれている。ただのキャンバスではいられない。
何か、この「看板」というのに関連して、思い出される言葉が「看板建築」。何も知らないと、その和洋折衷的なモダン建築のような顔つきをしている建物であるが、実は中身は木造建築であるという、つまりファサードがVR的な役割を持っていて、その建築の前に立つ人の脳内には、近代的なコンクリート建築が建っているのだが、実際には近代的なコンクリート建築は表層だけ、つまりインタフェースだけでしか存在していない。それは、舞台の書き割りの様な存在である。
概念として、そこに「層」が存在しており、それはやはり「膜」なのである。それは「壁」ではなく、浸透性のある「膜」であることが、この概念としての表面層である情報インタフェースを表現している。つまり、それをただ絵を掛ける壁だけとして捉えるには、もったいないということだ。
素敵な自分への誕生日プレゼントとなりました。
シベリア鉄道乗り換え 東北を目指します
ハロー今君に素張らしい世界が見えますか
銀河鉄道の夜
僕はもう空の向こう飛び立ってしまいたい
あなたを…あなたを…あなたを想いながら
日本の経済を牽引する大企業の闇(と言わなくても「違和感」)の話しを二個聞く。これらの企業の業績で、なんだか日本が一喜一憂しているのだとしたら、これは終わっているなぁと思ってしまった。
1週間に一度は、図書館でゆっくり過ごすということを余裕を持ちましょう。
「膜」について、これは、企画云々を別にして、大事なことがらなので、まとめた方が良い。
age++;
currentState = State.Arafif;