オーケストレーションと小手先

生成AIでUIをデザインしてくれるFigma Makeを試しに使っている。まだ、β版ではあるが、簡単なプロンプトで、それなりの複数の画面からUIを返してくれる。そういうUIの構成もあるのね、という提案もしてくれる。UIデザインまで手を出せないがフロントエンドエンジニアが、AppleやGoogleが提供しているUIコンポーネントを並べるだけのUIデザイナーにお願いしなくても、サービスのイメージがあれば画面デザインを作りあげていく日も、近いような気がする。

実装も、生成AIがやってくれる様になってきて、アシスタントレベルのデザイナ、エンジニアがやれることをAIが担うことが可能になってくると、新卒や経験が浅い人材は必要なのか否かという人材問題が出てくる。それぐらいのレベルの人材は、結局のところ生成AIには勝てないので、中級以上のスタッフのサポートにはならなくなってくる。とは言え、誰もが最初は、オペレーター的な職能であるわけで、そこから育って、オペレーターを脱し、各々の専門職として成り立っていくわけではあるが、やはりその場をAIが奪っていく。となると、大学などでの人材育成が変わっていかなければならない、もしくは、新人に求められるものが代わってくるのではないかということになる。これは、中級以上のスタッフやベテランにも言えることになってくるかもしれない。

一つに、それぞれのAIを組み合わせて、仕事を進めていけるオーケストレーション能力が求められてくる。組み合わせて、AIと人間との共創を生み出せる能力だ。これは、単にAIサービスについての豊富な知識を持っているとか、プロンプトのコツを知っているとか、それレベルの話しでは無いと思いたいが、兎に角もAIを従えるぐらいの能力が求められてくる。

もう一つが、デザインを小手先で扱わずに、思想的に、文化的に捉えて、製品やサービスを生み出していける能力だ。

果たして、こういうことを改めて気付き、様々なことを進めていけるか、気になることが多い。

人類を前進させるデザイン

https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/2506/03/news019.html

ジョニー・アイブの対談の記事がおもしろい。

彼がMacをつくるAppleにジョインするきっかけやAppleでの仕事ぶり、シリコンバレーで仕事する中で思うことが語られている。

 当時はAppleだけでなくシリコンバレー全体に「人類に奉仕するためにここにいる」という強い目的意識や価値観を感じたという。これに対して、現在のシリコンバレー企業の多くは「お金と権力」が目的になっているように見えるとアイブ氏は懸念を示す。

Appleの製品のパッケージは素晴らしいことで有名だ。ミニマルで過剰包装が無く、かつ製品や付属品が取り出しやすい。アイブは、休日も返上して絡み合うコードをいかにパッケージの中に、顧客が取り出しやすいように試行錯誤する。それは、なぜか。それは、買い手(顧客)とのつながりをつくるためだと。

「精神的つながりというのは、誰かがその箱を開けて、ケーブルを取り出すときに『こんなところでまで、私のことを気にかけてくれていた』と感じたときに生じるもの」

人類を前進させるデザイン。

 アイブ氏は「単に機能を満たせばそれで良いという考え方には気が滅入る」と言う。「それだけでは人類を前進させたことになりません」とし、彼にとって本来は息子たちと過ごすべき日曜日に、見知らぬ誰かが経験するであろうことに思いをはせながら、ケーブルの留め具を工夫する――その行為を通して、その人と繋がりを持てることに心を躍らせていたという

スティーブ・ジョブズは、生前こういったことについて、こう語ったとアイブは紹介する。

「作り手も買い手も互いを知らず、握手すらしないかもしれない。でも、そんな相手に対して愛と配慮をもってものを作る行為は、人類に対して感謝を表す行為だ」

Appleの製品は、このような思想の元、生まれていたのか。とても、感慨深い。

個人自由主義のもと、シリコンバレー、そしてそこから派生するデジタルプロダクトは、資本主義、消費礼賛の匂いが強くする。そこを確実に成り立たせるためのデザインの流れに違和感を感じるのだが、アイブの語るデザインの姿には、とても共鳴する。

これは、センチメンタルなポエムなお話では無い。人類を前進させるデザインという高い視座を持って、我々はものづくりにあたらなければならないのではないだろうか。

共通項

ツェッテルカステンの本を一気読みしている。驚くことに、梅棹忠夫の京大式カードと共通するところが多い。恐らく、知を蓄積する手法というのは、何か収斂されるところがあるのだろう。ストレッチとか筋トレも、結局のところ、こんな方法があります!というのもあるが、結局のところANDを取られたものがベターだったりするように、情報蓄積・知的生産も、共通項が自ずと生まれてくるようだ。

この本が他のツェッテルカステンの解説と異なるのが、ただただメモを取ることを否定しているところだ。他の解説は、ある意味釣り記事らしい文調で、メモを取ればOKとなっているが、この本では、まず自分の言葉でメモを取ること、つまり思考して咀嚼し言語化することを訓練しなさいと言い切っている。この仕組みを使えば、論文や本が多産できると紹介しているが、一方でその仕組みは使いこなさなければならないこと、決して自動処理で何かが生まれることではないことをとどのつまりで明言している。

ツェッテルカステンは、PCが普及したり、EvernoteやNotionが出る前に生まれたモノではあるから、現代用にチューニングする必要があるが、京大式カードと同じく、そのエッセンスやメソッドは現代のデジタルツールで機能するものだ。

不思議なもので、こういう話しには俄然、自分は盛り上がる。

背中

親父の背中を見るではないが、父親が土日、家にいるときは、ほとんと机に向かっていた、新聞のスクラップをしていた記憶しか無い。家で、だらだらぐーたらしている記憶が無いのだ。だから、自分の中では、休日は、勉強したり、研究したり、制作したりするのは普通だと思っている。何が失敗したかって、それが普通だと思えないことに気付かなかったことなんだろうな。

予算

低予算で作品をつくり慣れている人たちが、多めの予算を掴まされると、なぜ、駄作をつくってしまうのか。低予算の手癖が染みついていて、それでお金を使ってしまうと、使い道を誤るのか…。

めがね

免許更新があるので、視力が落ちたような気がするので、駆け込みで眼鏡屋に行く。いざ、視力検査をすると、あんまり変わっていないですね、とこと。そうなんですか??と。強いて言えば、左目と右目のバランスが悪いので、これを補正しましょうか…、と。今までの同じく、ジャスパー・モリソンデザインのフレームで。

なんで見えにくいのか、老眼でも無いようですし…。

ハイパーコネクティビティ

畑に行く。道中、「竹林公園」というのがあるので、寄ってみる。前から、竹が多いなと思っていたので、何があるのだろうと好奇心がそそられる。案内板が示す、細い道を上がっていくのだが、公園に続く道とは思えない未舗装の住宅の脇を歩く道で、不審者に思われないかと思いながら歩き進める。しばらくして、公園らしき開けた場所に着く。ほっとする。

竹林公園と言うだけあって、向こう側の景色が見えないぐらいの竹林が広がっている。「たけのこをとらないでください」というカンバンに愛嬌がある。いや、盗掘ではないが、切実な問題なのだろうか。

畑の方は、先週行ったメンバーが草取りをしたのだろうけども、元気よく雑草が伸びている状況。最初の1時間は、草取りに勤しむ。お陰で、太ももが、次の日の朝、筋肉痛だ。無心に、草を取るという行為が何の生産を産むかわからないが、無心になって、作業をするというのも良い物だと、改めて、ここに来た意義を感じる。十数年ぶりに、野生のトカゲを見たり。

リュックに入れたブックカバーが付けられた意中の本を取り出したら、なんと忙しさにかまけて忘れていた本だった。イタリアのデザイン研究者が書いた、デザインにできないことという本だ。

デザインの定義は人それぞれではあるが、この本では、他分野をつなげるハイパーコネクティビティを持つものとしてデザインを定義している。

デザインはその中心の不確定さゆえに、他の専門分野や文化的領域の狭間で意味を持ち、また、それらを結びつけるものでもある。

続けて、バウハウスの初代校長のヴァルター・グロピウスの言葉を引用している。

デザインを芸術と技術の「新しき融合」と呼んだ。芸術と技術はいまもなお個別の領域ではあるものの、デザインはこのふたつの異なる領域の間から出現し、双方にとっての斬新な解釈を生み出している。   

芸術と技術の出自が、デザインという若輩によってつなげられるようなものであるかは、別議論として、二つの領域をコネクトするという考え方は、興味深い。これまで、アートや多要素との「違い」を説かれてきたのに、それらをつなげる触媒としての存在として見るというのは、新しい視点ではないだろうか。

デザインの持つ意味、意義を考える上で、良い道しるべを得たと思う。

Zettelkasten

Zettelkasten(ツェッテルカステン)という手法を調べている。梅棹忠夫の「知的生産法」で紹介されている京大型カードが近い考え方である。とは言え、ドイツ語の名前で覚えにくい。「ツェッテル」は、カードや紙を意味し、「カステン」は箱や入れ物という意味だそうだ。そう分けると、覚えられるのだろうか。

Obisidianとの組み合わせが良いなど、いろいろ記事を読んでいるが、あともう一歩足りない…。たぶん、ここが自分が求めるところなのだろう。