今日は、様子を見にNHKのサイトに行ったついでに、
デジスタのページを見た。
キャスタ紹介を見たら、出演者の日出さんは、
結構すごい人だった。

前から、アナウンサ出身じゃないのに、
なんでこの人解説委員なのかなと思っていたら、
プロフィールを見て納得。

日本の放送局で、いちばんおかしくて
新しい動向をとらえているのが、実はNHKだったりする。
少なくとも、アートとかクリエティブの現場を
取り上げるのがうまいのは、NHKである。
サブカルを目指す人は、
民放を見るよりは、NHKを見る方が良いかも。

朝と深夜に見られるパラボラアンテナは、
ある意味サブカルですよね。
たまらん!という感じで。

うきょきょ。
今日は、ほぼ休日。
ほんで、明日はゆったりと起きようなんて考えてたら、
明日は1限から集中講義があることを忘れていた。
やばい。早く帰って寝ないと。
いろいろ仕事を片付けようと思ったのに、
逆に忙しくなりそう。
でも、経営情報学という講義名で
意志決定に関する内容なのでおもしろそう。
アーティストにも必要だし、
将来会社を興すときにも必要だし、
日常的なプロジェクト運営にも必要でしょう。

今日、夕方のニュースを見ていたら、
めんこいテレビでこの間のコンペの大賞作品が流れていた。
ということは、予告通り自分の作品も流れるのかな。
でも、あれをどう流すのかな。大変そう。
もし、僕の作品を見た人がいたら、ご連絡をください。

昨日、用があって後輩に会ったら、
カバンから三脚の頭が出ていた。
これ、女子高生のカバンか?と聞いたら、
いつも、カメラと三脚を持ち歩くようにしているとのこと、
頭が下がる思いでした。

荒れに荒れております。

新しい検索エンジンを見つけると、
自分の名前を入れたくなる、変な癖。
今日、新しい検索エンジンに行って、
それをやってみたら、何と、
荒川健介という役者がいるらしい。
マジ?
でも、まだ売れていないらしい。

センター試験のみなさん、お疲れさまでした。
また、明日から学校かぁ。

今年は、本当に寒い。
雪が全然とけないですから。
いやー、映画の撮影が楽しみ。
雪のシーンが…

PowerBookにMacOS X PublicBateを入れた。
このOSは、恐らくすごいと思う。
後は、ユーザインタフェースの細かい改良と
Carbon対応のソフトが増えれば文句無しですね。

WEBデザイナーの立場から言うと、
一つのマシンの中で、DreamweaverとApache(on UNIX)を動かせると言うのが
魅力的。
なぜかというと、CGIなどの動作を見ながらデザインできるわけですよ。
これは、すごいことになると思う。
今のところだと、自宅にダミーサーバを立てなくちゃいけないので、
大変なのよね。

加えて、きちんと書かれたソフトなら落ちにくい。
よって、運用性が高いVJソフトも作れちゃう。
実は、Classic環境でMacのプログラミングを覚えようかと思ったけど、
やめて、Carbon環境から始める予定。
そうなると、新しい表現ができるVJソフトがお見みえするかも。

Macの世界では、新製品が出て、いろいろ騒がしい。

今回の新製品の発表の中で、
僕ら映像を作る人間が目を引いたのが、
SuperDriveという代物。
こいつは、なにができるかというとDVDを自分で作れちゃうのだ。
もちろん、ほんちゃんを作れるのではなく、CD-Rみたいな
DVD-Rを用いて作れるのだが、
自分の映画を配るという行為が手軽になる。
さすがに、毎日サンプルのVHSテープを持ち歩けないが、
DVDだったら持ち歩ける。
もちろん、DV編集の作品だったら、画質も落ちないし。

と言っても、要は内容勝負。
そこに何が入っているかなのですが。

もう、1月も中旬に…ショック!
という感じであります。

あっという間に1週間が過ぎました。
あっという間に…

明日から岩大劇団かっぱの公演が、
プラザおでってで始まる。
僕は、日曜日に見に行く予定。
知合いの団員からチケットをもらったんだけど、
まだ連絡がとれずに。
もう一度、連絡してみよう。

僕は今日の成人式には、出席しなかった。親の反対もなかった。
その理由は、なんでまた全校集会に行かなくちゃいけないの。
それが単なる理由だ。

今、「学級崩壊」という言葉を良く耳にする。
身近なところでも、臨時採用の講師をやった友人が、
勤務先の学校での苦労を漏らしていた。

でも、そんな言葉とか状況を聞いても、
最近はあまり驚かない。
僕が中学生だった頃は、その学級崩壊の先駆けというか、
まだ、エネルギーを外に出して、先生たちと向き合うタイプの
問題クラスの生徒だったからだ。
むろん、僕もそのクラスを構成していた一人だと思うが。

中学の頃から、自分が通う中学の教育方針の限界を感じていた。
それは、今となって考えてみれば、
自分が通う中学だけのことではなくて、
日本の教育システムの限界だったのだが、
中学の、つまりその渦中にいる生徒も、
危機感を感じていたのだ。
全校集会、がんじがらめの文化祭、全校合唱という
旧型のシンボルの下に生徒は統制できなくなっていった。
それが、僕が中学生だった頃の中学校だったと思う。
各個人の価値の多様化、各家庭の仕付けのレベル低下、
教師の指導能力の格差。
これらの現状に、この間まで機能していたシンボルたちは、
太刀打ちできなくなりつつあった。

先日、仲の良かった中学の同級生だけで集まったとき、
一人が自分に学年生徒会を一緒にやっていた頃の話をしてきた。
僕は、ただ先生たちの指示を受け手動くだけの
自治システムに見切りをつけて、辞任を申し入れたことがあった。
それは、涙の抗議だった。必死にくい止める教員に僕は、
自分の意志をぶつけた。
そんな記憶が蘇る寸前のところで、「その話はやめよう」と言った。

成人式というシンボル。
まるで、全校集会の再現。
そこに、何の意味があって、
そこに僕ら、自治体の長たち、自分を「大人」と呼び人々は、
何を求めているのだろうか。
毎年、酷評される成人式のニュースを見ながら、
僕は空虚をそこに持つようになっていった。
考えてみれば、成人式ぐらいではないだろうか。
自治体が人を集めて、お祝いする人の節目というのは。

そろそろ、別なシンボルを探してもいいと思う。
むしろ、そのようなシンボルは必要なのだろうか。

答えは、既に出ている。
大学は、成人式の翌日から始まる。それも、一限目から。
むろん、成人式の出席者に公欠は与えられない。