僕は今日の成人式には、出席しなかった。親の反対もなかった。
その理由は、なんでまた全校集会に行かなくちゃいけないの。
それが単なる理由だ。
今、「学級崩壊」という言葉を良く耳にする。
身近なところでも、臨時採用の講師をやった友人が、
勤務先の学校での苦労を漏らしていた。
でも、そんな言葉とか状況を聞いても、
最近はあまり驚かない。
僕が中学生だった頃は、その学級崩壊の先駆けというか、
まだ、エネルギーを外に出して、先生たちと向き合うタイプの
問題クラスの生徒だったからだ。
むろん、僕もそのクラスを構成していた一人だと思うが。
中学の頃から、自分が通う中学の教育方針の限界を感じていた。
それは、今となって考えてみれば、
自分が通う中学だけのことではなくて、
日本の教育システムの限界だったのだが、
中学の、つまりその渦中にいる生徒も、
危機感を感じていたのだ。
全校集会、がんじがらめの文化祭、全校合唱という
旧型のシンボルの下に生徒は統制できなくなっていった。
それが、僕が中学生だった頃の中学校だったと思う。
各個人の価値の多様化、各家庭の仕付けのレベル低下、
教師の指導能力の格差。
これらの現状に、この間まで機能していたシンボルたちは、
太刀打ちできなくなりつつあった。
先日、仲の良かった中学の同級生だけで集まったとき、
一人が自分に学年生徒会を一緒にやっていた頃の話をしてきた。
僕は、ただ先生たちの指示を受け手動くだけの
自治システムに見切りをつけて、辞任を申し入れたことがあった。
それは、涙の抗議だった。必死にくい止める教員に僕は、
自分の意志をぶつけた。
そんな記憶が蘇る寸前のところで、「その話はやめよう」と言った。
成人式というシンボル。
まるで、全校集会の再現。
そこに、何の意味があって、
そこに僕ら、自治体の長たち、自分を「大人」と呼び人々は、
何を求めているのだろうか。
毎年、酷評される成人式のニュースを見ながら、
僕は空虚をそこに持つようになっていった。
考えてみれば、成人式ぐらいではないだろうか。
自治体が人を集めて、お祝いする人の節目というのは。
そろそろ、別なシンボルを探してもいいと思う。
むしろ、そのようなシンボルは必要なのだろうか。
答えは、既に出ている。
大学は、成人式の翌日から始まる。それも、一限目から。
むろん、成人式の出席者に公欠は与えられない。