押し引きが大事なと思ったことがありまして、押し引き、駆け引き、大事です。

久々に、MacOSX 10.2の画面を見たら、違和感あり。Panther慣れです。

フライヤ捲きで県立美術館へ。よくわからないのですが、ああいう建物に午後から行くと、なんだか気持ちが良いです。あぁ、余裕があるなぁと言うか。精神的に楽になると言うか、落ち着くというか。休日は、美術館、図書館でまったりと。そういう生活したいなぁ。

win a sheep freeのシングルをゲット。そして、なぜかくるりの武道館に行くことに。いえーい。

雛祭りも終わってしまいましたね。早いもんだ。

最近、自分の価値観って、古いのか、固いのか、と思うことがありまして、どうなのかなぁと思ってます。
でも、自分がやっていることって、価値観勝負だと思うんですね。それは譲れないということは、やっぱりありますし、それは守らなければと思うのです。守るというよりは、大事にしようということなのですが。

価値観というのは、二層構造。生きていく上で形成されるもの、親の教育によって形成される根底的なもの。教育って、恐ろしいな。

最近は良くて週休1日なのだが、今週は週休半日のようである。

としか、言いようがないな。

なんか、調子に乗ってインキュベーションルームのサイトを見てみる。見てみると、意外と施設によって格差があるようで。なんで、そんなのを調べているかというと、ホント、最近事務所というか仕事場が欲しいんです。どっかで、空きスペースを安値で貸してくれないかな。作業場と打ち合わせスペースがあって、できれば夜遅くまで作業ができて、レギュラーコーヒーを入れることができる炊事場があれば尚更うれしい。求む!ちなみに、サーバ、WEB管理は承けても良いですよ。

盛岡はぶり返したように最近寒い。そして、2月が終わる。もう、2004年、2ヶ月も過ぎてしまったか。早すぎる!

昨年の暮れからあたっていた仕事が一段落した。内閣府のサイト「日本改革前線マップ」である。経済特別区(いわゆる特区)やNPO団体の活動の様子をわかりやすく伝えていこうというプロジェクトで、第一弾のコンテンツができあがった感じ。自分は、Flash制作にフリーランスのクリエイタとして参加した。

首相官邸で行われた経済諮問会議でプレゼンが行われ、小泉首相以下、各閣僚からの反応も良く、異例の拍手が出たそうだ。普段は、閣議で拍手などと言うのはないのだという。プロジェクトの代表のプレゼンも良かったのだろうが、ものが良かったと言うことなのかなと。ちょっと、報われた。マスコミ各社も注目を始めているそうで、今後注目されそうなサイトである。

オウム裁判。教祖の地裁での判決がでたということで、一つの区切りを迎えるわけだが、何も解明されていないというのが本当のところじゃないかなと。まだ、社会は渦中にあって、冷静に分析出ていないのではないかと思おう。闇に葬られそうな真実をまとめあげられることを望みたい。しかし、あれだけの罪状に問われ、極刑を予想されているのに、笑みを浮かべたり、あくびをしたり、麻原とはなんとも、あきれた男である。しかし、思うに高齢と心身疲弊を理由に中止になった安部エイズ裁判。よっぽど、麻原の方が精神に異常を来しているのではないかと思うのだが、安部エイズ裁判はなぜ中止か?と疑問に感じてしまう。

そういう大裁判の裏側で、現在検討されている日本の陪審員制度で思想・宗教など理由をにし辞退も可能になったとのこと。
思想とは何なのか、宗教とは何なのか。

まぁ、一つ残念だなと言えることは、好きだった時代劇シリーズが間違いなくもう無いなって思うこと。渡辺謙と若村麻由美が出ていたヤツね。渡辺謙、すご過ぎだ。

隠れて応援していた山本美憂が負けてしまった。残念。

K1 MAXを見ながら仕事。ヘビー級のK1にはない魅力がある。どちらかと言うと、ボクシングの試合を見ている感じに近い。でも、一撃KOの迫力がある。これは、ヘビー級よりもある感じ。最近、ヘビー級の試合は、硬直しているところが多くて、おもしろくないときもあるからMAXも良いなと思ってしまう。

最近の頭の中は、インスタレーションやWEB作品のことで頭がいっぱい。一方でVJのこととか。映画の方までは頭が回っていない感じ。と言っても、今年はそちら方向に自分を動かそうと思っているので、至極当然だが。某サイトを見ていたら、三月締めでおもしろそうな企画が。これは、出すしかない。

自分がスタッフで参加しているサイトが、今週末経済諮問会議で小泉首相をはじめとするメンバーにプレゼンされる。ということで、今週はその案件とVJソフトのデザインでフル回転の様相である。

一方で、番組連動型のWEB企画をプランニング中で、こちらも頭をぐるんぐるん。

たまに、人にも言われたり、自分でもそうおもう瞬間があるが、決してWEBで何かをしたいと言うわけではないのである。自分には、映像もWEBもあるからね。と言って、その片方で何かをという気にはなれない。様々なメディアの集合体で何かをしたいと言うのが自分のやりたいことだと思っている。その混沌から何を浮き彫り出させるか。それが、自分の仕事だ思っている。

3月のイベントのテーマが「Timeline」なわけで、個人的にも「とき」について思いを巡らせています。

他人が、それまでを何をやっていたか、というより今という時点まで、どんな行動をとってたどり着いたかって、細かいところまでは知りたいと思いませんよね。朝起きて、顔洗って、ご飯食べて、どっかに立ち寄ってから会社に来たとか、会社の後は誰かと挨拶を交わして、駅までは歩いて、その後飲み屋に行ってとか云々とかって。はっきり言ってうざい。いや、そう言う細かいことはどうでも良いことなのかもしれません。ストーカーじゃないんだから。

が、その人が、突然死んだりすると、死の直前までの行動というのが、何か重要なものになってくる気がするんです。重みがますというか。突然無くなった友人のお父さんが、その友人が死ぬまでの一日を調べて、こうだったらしいんですよと、語るんですね。恐らく、友人が死ぬまでの行動を知って、そうして死んだのかというのを知ると言うことで、臨終の瞬間に立ち会うまで行かないけど、一緒にいることができたというような感覚を覚えることで、救いを得ることができるのかなと思ったりするのです。

つまり、「とき」とは、時報によって常に打たれている客観的なものではなくて、とても主観的なものなのではないかと思うのです。ときとは、意味合いを個々が付け加えていくものではないかと。

「とき」とは過去になった瞬間に固有のものとなる。共有が許させるの一瞬だけである。

だから、歴史解釈って、本当にまちまちなんですね。そして、一瞬を求めるためにみんなライヴというのを求める。もしかしたら、そこでしか、複数人の人が本当は何かを共有できないのかもしれません。いや、何かと言うより、肉体的な体験を共有できるのは瞬間なのかもしれません。精神的な思考ですとか、知識というのは、時空を越えられると思うのですが、生理的衝動、肉体的な活動、抑えられない感情など。だから、スポーツものの録画中継って、なんだか、嫌なんですよね。もう、それは終わっていることで、ただ僕らはその結果を知らされていないだけという意識がどこかにあるから、興奮という共有ができづらい。

銀行がつぶれるとデマメールを送った女が特定されて捕まった。意外と捕まるもんだなぁと思った。こういうのって、送信者を特定できずに終了ということが多いんだけども、携帯電話で送ったのが、致命的だったのかも。

今、動くフライヤって、どんなのだろう?と考えてる。動くというのは変化し続けるという意であり、フライヤというのは持ち運びしやすい広告媒体ということである。広告媒体というより、受け手に与えられるインタフェースが身近で、複数のメディアからなるシステムみたいなのをイメージしている。そういうコンプレックスから深いイメージを受け手に伝える仕掛けを作ってみたいなと。

で、非常にわかりにくい表現になるので、動くフライヤというのが良いかなと。

にわかに3月のイベントの準備が進む。
まだ、基本インフォが固まっていないので詳細は書けないのですが、
3月下旬にクラブでイベントします。さざなみで。
近日中に、WEBサイトもじわじわとオープンさせる予定。メンバのMLでは、まるで広告代理店のような会話が展開中。

噂に聞いて、盛岡の演劇サイトでの掲示板のやりとりを読む。どうでも良いじゃんというのが、正直なところなんだけど。
ネットでの活動というのは難しいもので、何かはずれてしまうと、本当にはずれされてしまうという。
わからんなぁ。

総務省が善玉ハッカーの規定をするらしい。いかにも、お役所的なやり方ですよね。ハッカーとかウィザードというのはコミュニティが認めるものであって、規定するものではないと思う。
これは、ガキ大将を学校の先生が認定するようなアホな話だと思うんだよね。ちょっと、たとえが悪いが。

そう言えば、ピボットの録画テープが、
盛岡の映像系で回っているらしい。
みんな、観てくれているのね。うれしい限り。
と言って、その後の感想はあんまり聞かないけどさ。
先日まで、頭の中はショートフィルムモードだったんだけど、ここ最近は、再び脱タイムラインな映像に頭がシフト。といって、ショートフィルムネタも考えたり。
思うに、力まないで考えた方が、ショートでおもしろいネタを考えられるようです。

県立美術館に舟越桂展を見に行く。彫刻とかを意識したこと無いんだけど、舟越桂の作品には独特の雰囲気というか、空気があると思う。映画的な。そう、物語性があるというか。

氏の作品が、時系列に近い形で展示されていて、作家の作風の変遷を感じられるし、氏が何を特に求めているのかが作品の流れでわかるような気がする。

気になったのが、氏の題名の付け方である。いわゆる、ポートレートものだと、「○○の女」というようなネーミングなのだが、そういうのじゃなくて、作品自体には存在していないんだけど、同じ元から生まれている言葉を使った題名が多い。説明的な題名ではないと言うことですね。ですが、観る人というのは題名もやはり意識するので、そこでお互いが響き合うというか、無論、作品の方が存在が大きいわけなのだけど、題名も少なからず表現としての一翼を担っていると思うのです。そういう題名がつけられているのに、刺激されました。

刺激されたと言えば、常設展で展示されていた南部鉄器です。南部鉄器って、伝統工芸品というイメージが強くて、美術品というイメージはなかったんだけど、もう美術品です。知らなかったぁと恥じてしまいました。あの黒の鈍い質感。素晴らしいです。