表層するイメージの陰に潜むイメージ。あまり目立たちはしないが、それが表層するものを支えて、輪郭を見させているのかもしれない。

Every Thing Bad The Girlは、すごいな。今聞いても、色褪せない。

最近、妙に小学校の頃どうだったかなぁと思うことが多い。原点回帰なのか、五月病なのか。と言って、五月病になる要因はないが。ふふっ。

最近、不動産屋が気になる。なぜか、立ち止まっている。不動産屋って書いたけど、本当に、不動産なのか?

GWの東京へ。さすがに人が多い。

初めて、世田谷線に乗る。東京でも2両編成なんだぁとちょっと思う。形もかわいいし。

何かが変化しているのをしっかりとらえるというのは、難しいなと最近、改めて感じています。例えば、いつも通っている道沿いの商店がつぶれて取り壊しなったのをある朝気付く。それまでは、その商店がつぶれそうだと言うことも気にかけていなかったのだけども、その時初めて、その商店がそんなに大変だったんだなと気付く。間違いなく、そこには変化があったはず。でも、それに気付かずに、もう取り戻しようがないときになってから気付いてしまう。

これは、非常に形のある例の話なのですが、人の感情もそうですね。と、ちょっとおセンチなことを書いてみたのですが、もしかして、変化を僕らは少なからず気付いているのに、気付いてないふりでいることが多いのではないかとも思ったり。そのときには、すでにもう戻れない状況になっている。そういうことが多いのかなと。

物事は移り変わるから美しい。そう考えればそうなのですが。もしかしたら、人はそれを許せなくて、もので表現することを覚えたのかしら。

フィルムが焼けたり、露出がオーバになっているフィルムを映写すると、赤と白が何とも言えない感じで出てくるんですが、それってこみ上げてくる感情に近いなと思ったり。

東京のスタッフに見せてもらった、別プロジェクトのポスタのモデルが宮崎あおいでした。どこのモデルだろ、そこらへんの素人ではないなぁと思っていたのですが、でも、なんだか、いつもの宮崎あおいじゃないなぁと思った。そのプロジェクトに我が岩手県の増田知事がいたく感心しているらしい。でも、そんな話、地元じゃ聞かないよって突っ込んでしまった。

GOLDEN WEEKならぬ、GOLDEN WORKINGが始まる。

ここ最近、考え事をしていると胃を中心とした臓器たちが、ウグーと言い出す。胃の調子も確かに悪い。ということで、コーヒーから日本茶に切り替え。ウグー。

年金問題。結局のところ、払う気があったか無かったかはさておいて、結局のところ、システムが悪いわけですよね?そういうことですよね?切り替える方法が悪いとか、通知がちゃんと届かないとか…。システムの欠点がようやくここまで見えてきたという、下手すると国会の委員会の審議よりも実地調査的にわかった良かったのでは?と思ってしまう。問題は、後はそれを如何に修正し、ヴァージョンアップさせるかである。

しかし、民主党はだらしがない。ここは、岡田幹事長にがんばっていただいて、代表辞任までもっていったら、参院選勝てると思うけどな。

イラク人質事件の自己責任論ですが、どうも、落ち着いて見ていると、結局のところ日本はまだまだ出る杭を打つという社会なんだなと思ってきました。本当の自己責任ってなんでしょうね、と思ってしまう。まぁ、自己責任論の旗振りだった人たちが年金払っていないとか、そういう自己責任ってなんだろうとかって。日本社会における自己責任って、本来は何だったんだろうか?昔はどうだったのかなって考えてしまう。

アラカワは、毎月、ひぃひぃ言いながら払っています。

諸先輩方に、人生の教えを頂く。なるほどなぁ。

って、どうしましょうか?

訳ありで、こんな時期にスケジュール帳を買う。この際だから、CLIEとかと思ったんだけど、さくっとは行かず、やはり紙の手帳にしておくことに。

目がピックピク。

人にそこまで切望されたり、期待されると、人のために人生の決断をしようかなと揺れたりしちゃいます。でも、そこまでは、まだ力はないので自分にも、みんなにもお預けです。

自分が良いなと思う空気と日差しがわかっていれば、大丈夫だと思います。それが、センスであり、演出だなと。体のどこかに残っている感覚とまだ会ったことのない感覚の出会う場。それが、自分の現場だと思う。

職場の花見だったのですが、かなり寒かったです。そんな中でも、桜吹雪を見られて良かったなぁと。しかし、雨交じりだったということもあるのですが、もうちと風情がある感じで花見ができないかなぁ。それは、理想か。紙コップで熱燗…悪くはないけど、良くはない。

自分のこと、デザイナーって思ったことがないんですが、そういう仕事を最近させてもらっているとデザイナーってなんだろうって思います。高校の頃に、確か、美術の時間でキャンプ地だったか、森林公園をデザインしようと言うのがあって、僕ら生徒はポカーンとしたことがありました。というのも、僕らがイメージしていたデザインというのは、絵を描くというか、ポスターカラーを使ってきれいな色を配色して仕上げるというものをイメージしていたのですが、空間を考えたり、それこそ利用する人たちがどんな風に使うかとか、そういうことまで考えるというのは、デザインだとは思っていなかったんですね。その場合、僕らがイメージしていたデザインというのは、キャンプ場のロゴマークとか。実は、そういうデザインは、グラフィックデザインと呼ばれるもので、デザインとは、もっと大きいことを考えることなんだというのを知ったのは、高校を出てからですね。

演出家や脚本家もそうだと思うのですが、デザイナも思想家ではなくては行けないと思います。どんな世の中にしたいのか、どんな風に暮らしていきたいか。そういう考えの基にデザインってあると思うんです。おい、お前、そんなことを偉そうに言うなって言われるかもしれませんが、よく見かけるデザイナさんって、グラフィックデザイナとか、エデュトリアルデザイナとかであって、「デザイナ」じゃないなって思っちゃうことが多いんです。小さいことに変にこだわりすぎていて、それが世の中にどういう風に存在すべきなのかというところまで考えられていない。それって、違うと思うんですよね。

デザイナって、ミュージシャンぐらい、僕の中では遠い存在のはずなので、そういう高尚な領域に足を入れ、首を突っ込むのならば、そういうことを提案できるクリエイタとして仕事をしたいなって思うんです。だから、常にコンセプトや初期衝動を振り返られるような余裕を持って仕事に当たりたいなと思っています。これが、また難しいことなのですが。

自分って、何かにすぐ影響されるたちなので、本日は仕事の合間にいろいろ思いを馳せていました。

そのつまり、無形なものをつくると言うことはどういうことなのだろうと考えたり。これまでは、結局は有形なものをつくってきたわけですが、これが無形なものとなるとどうなるのだろうと。
自分は何者なのか、また考え込まなくちゃいけないようです。

どちらにしても、1週間、様子を見ましょう。

昨日だったか、昼飯がちょっとしたブレストになっちゃいまして、いろいろ話していたんですが、おもろい企画が本当に世の中転がっています。それを発掘するというのが、非常におもしろいなと。もちろん、そういう企画を実現化する術が求められているんですけどね。

最近、ソーシャルネットワークが一部ではやっているのですが、ワームの流布による関係性の可視化っておもしろいなと実は考えています。最近のワームは、メールソフトのアドレス帳、ブラウザのキャッシュに含まれるメールアドレスに対して、ワーム付きのメールを送信するという動作を行います。つまり、感染した端末(パソコン)がこれまでにアクセスした情報に関連するメールアドレスに対して、あまり嬉しくないプレゼントを行うのです。つまり、感染した端末と送りつけられた端末では、なんらかの関連性をこれまでに持ったことがあると言うことなのです。(ここでは端末と表現していますが、むしろ持ち主と表現した方が良いかもしれません)別に、自分は関係を持ったことがないけど、知らないところで実はつながっていたりするんですね。さらに、送信する端末は、他の人のメールアドレスを語る(つまり、偽る)ためことがさらに複雑化。一体、誰が感染したの?言い換えると、誰が私とつながっているのと言うのが、どんどん不明瞭になっていくわけです。

これをもし可視化すると、一体どんなものが表示されるのだろう。

クラスでインフルエンザがはやったりすると、やはり仲の良いやつ同士とか、席が近いやつから侵略されていくのですが、それに近いことかもしれないんですよね。まぁ、仲の良い、近いというのが、インターネットの世界では変質しているのですが。仲の悪いやつ同士では、風邪も交換しづらいですから。SARSの感染者が出ている中で、こんなことを言うのも不謹慎ですが、ウィルス/ワームによる、世界は友達だ!つながりを垣間見てみたいものです。

久々に、同じ地元で同志と呼べるような人に出会えたような気がした。いやー、とても楽しかった。

人間というのは、人と話しているときに、
あっ、自分ってそういうこと考えていたんだと気づくことがあるのですが、
自分の口からそんな言葉が出てきたかと思った瞬間がありまして。
それについて、ちょいと考えちゃったりしています。

衝動的に、小作品を仕込んでいます。

最近、思うのが学校の教科で、国語と数学って大事だなと。結局、何かをまとめたり、伝えるには文章を書かなければならなかったりする、複雑に入り組んだ事象をとらえていくには、証明の様な順序立てて考えることが必要だなと。国語は、できて当然として、数学的に何かを簡潔に捉えて、順序だてて説明していく、または解いていくという、物事を整理して理論的に考えると言う術はかなり大事なと思うんです。自分が関わっている仕事がそうなのだからか分からないけども、ものごとをどう捉えてわかりやすく伝えるか。結構、これが難しい。その作業のベースになるのが、実は国語と数学(算数)だなぁと。

でも、今の学校教育って、そういう目的や目標が隠蔽されていて、何のために習っているのかと言うのが少なくとも生徒の方は実感がないなと。この年になって、そうか、そのために勉強していたんだと気付いちゃうんです。

仕事で最新のAcidを触る。すげー。5.1chでミックスできるのには、驚き。

5月より大幅に生活スタイルがまた変わる。自己管理をちゃんとしなければと改めて思う。さらには、6月からは全くのフリーに。

イラク人質事件に関しては、どんどん思うところが変わっていくのですが、ちょっと引いてみてみると、例えば、渋谷にがきんちょが遊びに行くとする。日頃から学校では、ああいう繁華街には子供だけでは行かないようにと注意していたとする。が、子供は遊びに行って、誘拐に巻き込まれる。そういう場合の捜査費用って、被害者の親が負担すべきなの?って考えてしまう。まぁ、ちょっとたとえが悪いかもしれないが、国内の危険地帯で発生した事件などでは、今回のようには非難されないだろうなと考えたり。まずは、彼らは被害者なんだなと冷静に国全体で捉え直すことが必要だと、帰国の様子を見ながら思う。

今週末は映画館に通わなければというぐらい封切りラッシュ。最近、非国民なぐらい映画館に行っていないから、行かなければ。