とうとう、Happy Hacking Keyboardを買ってしまった。買おう、買おうと思って、買っていなかったのだが、iBookとのキー配列が違うとか、キーボードの感覚が合わなかったりしていたので、購入に踏み切った。USB接続、US配列、黒を購入。Macの標準のキーボードはかなりスペースをとるのだが、このキーボードは省スペース化にも貢献。キータッチも良いので、なかなか気に入ってる。盛岡では、津志田の方のパソコンファクトリーで置いている。

マイケル・ムーアの「Fahrenheit 9/11」の予告編を見た。なんだか、おもしろそうな映画である。ブッシュが再選できなくなるかもと言う、その中身。気になる。

今朝の新聞広告で、小泉バッシングな本の広告を講談社が出していた。いわゆるワイドショー政治と言われている小泉政治。メディアの使い方がうまいと言われ来た。小泉政治の問題点を付くならば、それを逆手にとってメディアを活かしたやり方じゃないと迫れないのかもしれない。もう少し、日本のジャーナリストにもがんばって欲しいと思う。橋田さんを英雄扱いするマスコミですが、誰だよ、サマーワからしっぽ巻いて逃げて、橋田チームと不肖・宮島氏だけに自衛隊の取材をさせていたのは。官製報道と言われても、しょうがない。

おでって事務室に用事があり、その足で、2Fの展示室で催されていた岩手県広告写真協会写真展を見てくる。なんだかなぁ。宮澤賢治と石川啄木の作品を題材にし、これまでの様な表層的に捉えるのではなく、それを消化してそれぞれの作品に落とし込んでいると言うらしいのだが、なんだかなぁという印象をかなり受けた。その中で、「消化」をして、そのカメラマンの視点で構成されていたのが、一関の阿部さんという方の作品。啄木の「一握の砂」を題材にしているのだが、様々な職業の人たちの手だけを撮り、それにプロフィールを添えて組まれた作品である。かなりの人たちの手があって、そのプロフィールを読みながら楽しめた。

写真に持って欲しいのも。

それは、語るべきこと、そしてまなざし。

昨日、インターネット教育は考えなければならないと申したのですが、仕事で誰かに外注を出さなくちゃいけなくなりワークフローなどを考えているのですが、メール、FTP、メッセンジャーが基本的にできない方に頼む場合は、かなりこちら側も考えなくちゃいけないと思ってしまい、少なくともそれぐらいのITスキルは必須だなと思ってしまいました。結局、そういうのをできないと、余計な物理的な制約を生んでしまうんですよね。すべてをオンラインでこなすことが良いかというとそれは別なのですが、コストを考えると余計なものは無くしたいと思うわけですから。そういうところでかかる分をもっと発展的な事項に回したいので。

自分の持っている才能、感性を世に出していくための「術」。いろんな形の術があるわけですが、これがないと、うまく自分を持って行けないんじゃないかなと思ったりしています。それは、自分自身を含めてのことなのですが。

運命的に感じる仕事。それを持っている人は強いなと思いました。同時に、それにひたむきに進む人は素敵です。

久しぶりに、楽しい会話をしながら飯を食べる。いやいや、いつもしかめっ面をしているわけではないのですが、楽しかったなぁと。

自分が、盛岡でインディーズ映像作家として駆け出しの頃にお世話になった方とメールのやりとりをする。その当時の自分を思い出しながら、今はそのころ自分が思い描いていた自分とはずれているけども、なんともおもしろいやつになっているなと思った。その一方で、自分がやりたいことを再認識して、そのための布石を打たなければと、いろいろある毎日だが自分にはっぱをかける。

本日、軽やかになりました。

佐世保の事件。いろいろ事実関係が明るみになってきましたね。今回の事件で思ったのが、学校におけるインターネット教育の在り方、そして表現の矛先の変化です。

今回の一件で、学校におけるインターネット教育がだいぶ変わっていくのではないかと思います。これまで、インターネットを活用するスキルがないとまずいということで、そこまでかもしれないですけど、盲目的にインターネットを教えていたところもあるのかなと感じるところもあります。つまり、インターネットはコミュニケーションツールなのだよ、それは現実社会と密接に関係あるものなのだと言うことを抽象的なところを教えないで、ただWEBを見るとか、メールを読み書きするということだけを教えてきたのではないかと言うことです。廊下で先生やお客様にあったら、会釈をする「こんにちわ」と挨拶をする。そういう挨拶をはじめとする対人コミュニケーションの中に、インターネットでの通信があると言うことを教えずに、切り離して教えてきてしまったのではないかと思うんです。でも、これは、自分が受けている印象であって、実際の教育現場ではもっと先進的な取り組みがされているのかもしれませんので、現実を捉えていない発言かもしれないです。

もう一つが、表現の矛先の変化。ここ最近の少年犯罪でショックだった事件に、彼氏と一家を惨殺しようとした少女の事件がありました。その後の裁判の過程をあまりニュースで見かけないのですが、あの事件も衝撃的でした。あの事件の特徴は、少女が自分のWEBサイトを持っていて、そこで自分を表現しつつ、最終的には犯行声明らしきものを発表するに至ったと言うことでしょう。今回も、犯人の女の子は、自分のWEBサイトで詩や文章を公開していたみたいです。

WEBサイトなどという公でいて、かつ閉塞的な表現の場が無かった頃、少年少女たちはどんな方法を持って自分を表現してきたのだろうかと考えると、まぁ、とても外向的な形としては絵、詩、作文、音楽、または暴力などで表現されてきたのでしょう。内向的な場合は、日記なのでしょうか。暴力の場合でも、公の場である学校、公園などで出てくる場合もあるし、家庭内で出るというケースもありますし。聞いて驚いたのが、意外と学校ではあまり目立たなく読書少年少女で頭の良い子が家に帰ると母親に対して暴力をふるっているというケースもあるらしいのです。

で、何を言いたいかと言いますと、現在の未成年者がWEBサイト上で行っているネガティブなまたは、敢えてネガティブを演じている表現というのが、ポストインターネットが登場するまでは、一体どういう風に社会に現れていたのかと言うことを捉えないと、実は今起きているWEBサイトでの表現というのを理解できないのではないかと思うんです。ただ単純に、インターネットは顔が見えないから、なんでもやれてしまうという短絡的なことと捉えないで、表現の矛先、または表現の露出の仕方の変化というのを捉えないといけないと思うんです。何がどう移っていたのかという視点ですね。

と、同時にその表現に対しての他者からの反応の変化が、どのように表現者に対して変化をもたらすかということも考えていく必要があると思うんです。前に、加藤の乱というのがありましたよね。あれは、加藤氏がインターネットでのあるコミュニティからの反応を世論、政局の流れと同じであると見誤って取った行動だとも言われているのですが、特定の人たち、またはコミュニティからの反応が、表現者の自信を確固たるものにして、表現活動を増幅させる、展開させると言うことがあると思うんです。これは、悪いことではなくて、ファンからの反応がアーティストの励みになっていると言うことと基本的には変わらないことです。
ただ、あまり良い方向に向かっていない精神の表れの表現活動を発展させる可能性もあるわけです。
己の表現に対する反応を得やすくなった環境が、自分を客観的に捉える能力を持っていない未成年者にどんな作用を与えるのか、これもまた一考する必要がある問題だと思うんです。

インターネットは表現の自由化をもたらしてとも言われていますが。表現したいと思う魂はいつも拘束されているもの。自由というのは幻想でしかない、または蜃気楼みたいなものではないかと思います。

スケジュールの策定などに当たって、夜は来週でラジオ番組の打ち合わせを。いったい、どんなことになるやら。番組でかける曲を考えてきてくれといわれて、思案。

強行採決。いかがなものでしょう。いつも思うのだが、学級会、小学校の児童会、中学、高校の生徒会というのは、いわゆる政治の仕組みを教える教育の一つなのだが、とてもああいう光景を教材としてはお見せはできないよなぁと思う。あんなことしたら、間違いなく生徒指導室か職員室行きだ。なぜ、そんなに急ぐ。そう思ってしまいますね。

輸入盤の販売禁止が問題になっていたが、邦楽の逆輸入禁止にとどまった模様。洋楽の直輸入盤はこれまで通りOKみたい。良かった、良かった。

今日は、仕事でもプライベートでも精神的にきついことをクリアし、なんとか明日を迎えられそう。

クリエイターとアーティストの違い。その分け方は、いろいろとあるんですが、例えば端的にクライアントがいるか、いないかという分け方もできますし。でも、これは大きいと思うんです。自己の欲望を100%満たすためにつくるのか、それとも誰かのためにつくるのか。といっても、この表現にも助長性があるので誤解を招きそうですけど。個人的には、最近、思うのが初期衝動を具現化できるか否かというのも、またこの線引きを考えるときに入ってくるようその一つかなと思っています。

友人と長めのチャット。いろいろ思案。お互いにプロジェクト話をする。しかし、謎なのが岩手にいる友人ほどメッセンジャーを使っていないヤツが多い。まぁ、使うほどの距離にいないというのもあるのですが。仕事関係だと、メッセで打ち合わせと言うことがよくあるのです。メールだと双方向性がないですし。個人的にやりたいのが、iChatでのやりとり。映像付きのヤツね。

おしゃれヌードは、果たしておしゃれなのかは決定事項ではないなぁと思った。

現像に出した写真を受け取りに行ってくる。だめだぁ、感が落ちている。また、カメラ小僧に戻らなければ。手抜きでYASICAでちょろちょろとっていたんだけど、露出が難し場面では、一眼レフだなぁと思ってきまして、ちっこいやつをぶら下げようかなぁ。

おでってでやっている広告写真協会の企画展を見る。全体的に微妙だなぁと思いつつ、さらっとだけ見たので後日、ちゃんと見に行こう。「語る」写真が良いなって思いますね。デザイナにいじられていない写真だけの勝負のときって、何かを匂わせるとか語るとか言うのが大事ですよね。でもなぁ、プロは最低限のラインをクリアすることが職業的に一つの目安なのだろうから、いわゆる「きれいに」写っていれば問題なんだろうけども、空気が映し込まれているかが問題なのだと思う。この先、写真を選ぶ仕事が入ってくる可能性が高いので、そういうことを念頭に置かないと。

関東は肌寒かったようだが、こちら盛岡は爽やかな天気。昼間は、iBookを持ってベランダに出て、仕事にあたる。

この間買った雑誌がお弁当特集。手作り弁当かぁ。高校を出てから久しく食べていない。弟は毎朝、母親が作った弁当を持って行っている。手作り弁当は、エコロジーでエコノミーらしい。一人暮らしを始めたら、まさか、弁当を作っている自分がいたりして…ないな、それはきっと。

本日は、IBCの最終出勤日。これで、月締めの収入がなくなると思うと、おぉ潔いなぁと思いつつ、さぁてどうすると改めて身が引き締まる思い。

ありがたいことに、新たに入ったスタッフとともに歓送迎会も開いて頂き、ありがたいに尽きる。こうして、温かく送り出してもらえることを嬉しく思う。どっかーんとやってきます。

その席で、来月から制作に移る超上司が(たぶん、まだ公には書けないので)、挨拶でminiDVを片手に取材し、Final Cut Proで編集して、若いやつに見せつけてやるとおっしゃって、熱いものを感じた。その方は、伝説のディレクタな人なのだが、今でもものづくりの人なのだと思って良いなぁって思った。俺が行動で示してやるというか、その意気込みに脱帽。さらに、これは勝てないなと思ったことがあった。Final Cut Proで編集するだなんてすごいなぁって思って、何でですか?とか話していたら、今のコンシューマ機材はプロ用のSDレベルの機材とそんなに変わらない。でも、自分には「構成力」があるとおっしゃった。構成力かぁ。それは、正直言って負けるなと思った。ご一緒にお仕事をして、その技を盗ませてもらたかったなぁと思いつつ、アラカワがんばれよの一言が身に染みる。

在盛のラストワークの納期などが決まる。予定では7月上旬には、みなさんのお目にかかると思う。そして、今回は一つ自分がやり遂げたかったことができそうである。結構事件なことである。これもお楽しみに。

「最高の『B to C』」。本来、B to C(Business to Consumer)であるべきものが、B to Bな関係に埋もれている。なんとなく、そんなことを思った。それで、世の中が回っている。それって、あんまり良いとは思わない。

ショービジネス。クラブで騒ぎながら思ったんだが、クラブパーティをきちんとビジネスとして企画できる人は、盛岡などの地方都市の場合、その都市には何人ぐらいいるのだろうか?ビジネスととしてと言うのは、主な仕事がDJではないが企画制作・マスコミ・イベント制作会社の事業としてその企画に関わっている人は何人いるのだろうか?ということである。もちろん、生業は別だがDJを熱くやっている人たちが企画している場合が多いと思うのだが、それが生業に直接つながっているわけではないと思うので、ここでは除外して考えてみる。

そんな頭でっかちな堅いことを考えるのかと思われるのかもしれないが、地方におけるショービジネスの甘さがあるのではないかと改めて問題提起してみる。
果たして、クラブパーティがショービズなのか?という問題もあるが、でも、やはりあれはDJが行うショーであると思うので、やはりショービズだと思う。

そのパーティが良かったので、こういったパーティを自分が30歳過ぎてから、きちんと企画できる力を持てるかなぁと考えつつ、恐らくその年の自分が企画するとなると、それは遊びじゃなくて仕事になるだろうから、それはペイできるものなのか?って考えた。

学生が「勉強」でノーギャラでそういったイベントに関わるのは良いことだと思うのだが、それをいつまでも続けるわけにはいかない。いや、そういうアマチュアだけがやっていると、市場的には広がっていかないし、市場が広がらないとつまりは、レベルも上がらない。コンテンツ制作関係の人間が、こういったクラブパーティを事業の一環として作っていけるかが、実は結構大事なのではないかと考えたりする。では、どういう会社が関われるかというと、テレビ・ラジオ局とか、出版社、広告代理店、制作会社、その他のデザイン事務所となってくると思われる。数年前まで、いろいろそういう動きも盛岡ではあったが、最近はあまり見かけない。あまり、おいしい仕事ではなかったのだろうか。

このことは、クラブパーティだけに言えることではなくて、インディーズ映画もそうだと思うし、他の地方におけるエンターテイメント、すべてに言えることなのだと思う。それが、趣味なのかそうではないのか、その線引きは難しいが、でもそれに体当たりするプロがいなければ、地方におけるエンターテイメント、コンテンツ産業というのは変わらないと思う。

何でこんなことを言うかというと、自分が非常にこういった問題に敏感というのがある。地方におけるコンテンツ制作能力ってやつです。

正直言って、僕の周りの一般的な職業に就いている友人達と話して、岩手のローカルコンテンツに対しての評価は低いです。満足していないんですね。これは、テレビもラジオ(でも、ラジオは意外とウケが良いかも)も、雑誌にも同じくです。ローカルは悲しくなるから見ないなんて言う人まで。それじゃぁ、まずいと思う。国策ならぬ、県策、市策にしてでも、この問題は変えていかないとまずいと思う。特にも、受け手の一般人と現場の制作者との乖離が著しい。まぁ、だいたいみんな予算のせいにするんだけどね。それって、自分は安い人間ですと認めているのか…。予算がなくたって、少なくともそこにその人がいるわけで、その人がどれぐらいのパフォーマンスをできるかが重要なわけだと思うのです。もし、それが認められれば、それなりの反応が世からあるのだろうし。

知ってます?岩手県民って、日本で一番お国自慢をしない人たちらしいです。こういうところに、実は、上で挙げた問題の一端が出ているような気がします。戸ノ岡のときにも言ったけども、自分の土地に誇りを持てないことは、悲しいことなのです。

blogの効能。最近、見るWEBサイトとか、技術的なことで検索して行き着くサイトはblogサイトが多い。そんなこんなで、見ているWEBの大半はblog。ちょっとだけ、トレンディです。

そんな中、気づいたことが。読書量が増えたと言うこと。blogって結局、文字、活字の集合体なわけで、ちょっとしたエッセイとか記事を読んでいるのと変わらないのかも。実際自分も、そういう流れで本当の本を買って読むような習慣が付いたのかも。活字離れとか言われる昨今ですが、情報発信と摂取の抱き合わせ教育でblogを教育機関で教えていくのも大切かもしれません。すでに、情報社会系、メディアリテラシ系では、blogを教育・研究で取り上げられているようです。

ちょっとしたもの自慢なエッセイ本を読む。ものへのこだわりって、良いなと思うんです。それも、男的なこだわりも良いんだけど、日常生活の中でのこだわりを出す女的なこだわりも、これまた美しいなと。

こだわりとは、とても時間を必要とすること。つまり、さくっとコンビニとか量販店で買えないとか、選びきれないものがある。そこに、きっと物への愛着などが生まれてくるきっかけがあるんでしょうね。と、同時に、その商品について語れる店主がいるというのも大切かも。

「語れる」というのは、様々な次元でそのものを理解していることだと思うんです。右脳的に、左脳的にいずれかの形でも理解していないと、語れないんですよね。と、同時にそれに添う表現も知らないといけない。

本当に語るって、本当に難しいなって思うけども、そこに惹かれて、こうしている自分がいるわけで。本当に語ることができているか、考えたいものです。