今日は鎌倉の材木座海岸であるイベントに顔を出してきました。

イベントに行く前に、鎌倉観光を。しかし、大仏はでかい。

鎌倉は良いところですね。古いモダンな建物が残っていたりして。観光地だけの存在というのではなくて。

イベントは海の家でやるフリーパーティでして、今年の初海でした。夕日の海はきれいでした。
絶え間無く移り行く空は美しいですね。本当のアンビエントアートというか。

ということで8月の下旬に、さざなみ、東京デビューです。
クリエイターとしての闘いの夏が来ます。 3年ですか。さんねんかねさ味噌ってあったよな。そういうことか。

週末、東京方面にでかけるので、初めて不在者投票に行く。

たぶん、人は少ないんだろうなと思っていたのだが、エレベーターに乗り合わせた7、8人は一人降りたぐらいであとはみんな、市役所の8階に降りたのには驚いた。
会場にも、結構人がいて、関心は高いのだろうか。

投票自体は宣誓書を書く以外は通常の投票と変わらない。

日曜日、どうなるんでしょう?

本日は貫徹。

かなりくたばっている感じです。

頭の中でもんもんと考えていることを言葉で表現ってしんどいですな。といって姿を見せれる実装が早いわけではないが。

企画書…。

蕎麦焼酎の蕎麦湯割って、おいしいです。すごい濃いですが、蕎麦好きにはたまりません。

午後から後輩が、我が家に来て、作業。エンドレスです。

しかし、本当に暑い。日本全国、暑いと言うことらしいのだが、果たして自分、異境の地でもつのだろうか。干からびてしまうかも。

先日、肩書きについて知人と話す。自分の名刺には、肩書きが入っていない。この間までは、「映像作家」って入っていたんだけど、なんだか違うなぁと思い、じゃぁ何?と考えてもこれというのものがないので、入れないことにした。といって、それに違和感を感じない。「アラカワケンスケ」はアラカワケンスケです。それが一番なのだと思う。自分で肩書きを付けてしまったら、そこに何か限界点が出てきしまうような気がしてしまう。もちろん、その肩書きからアプローチするという風に捉えれば、無限なのだが。良くも悪くも、言葉というのは何かを束縛し、自由を奪う。

そんな強気なことを言っているが書類を書くときは、結構困る。肩書きを何にしようかなって。

久々に、岩手公園って良いところだなと思いました。青空の下、草餅をほおばる。

Livedoorの近鉄買収希望騒動なのだが、自分には日本の通信・放送産業の変革の一端を見るような気がしている。そして、その周りに取り巻くエンターテイメント産業が変われるかも問われているような気がする。

巨人オーナの渡辺氏は、Livedoorの買収希望について、自分が知らない人は入れない、お金があれば良いんじゃない伝統が必要なんだと言い放ったが、結局、それが現在のプロ野球界の状況を作っている原因なのではないだろうか。まるで、ステータス的に経営しているのではないだろうか?じつは、この合併騒動、買収希望騒動、1リーグ制の移行か?と言われている時期に、後発のJリーグはお手本となることを行っている。J2のチームで経営状況が悪いチームがあり、Jリーグ関連会社が完全に買収できる形(100%減資)にしなければ、Jリーグから除名するという厳しいが筋を通った裁定を出し、それが履行されるか注目されていた。腐ったミカンではないが、きちんと経営ができていない企業はこの市場から退場頂く。つまり、護船団方式はとりませんよ。宣言であり、実行である。野球界はどうなのだろうか?

Livedoorは、WEB制作会社からスタートしたIT新興企業で、言えば通信業界でも新しい形態の企業である。一方の巨人の親会社、読売新聞は、テレビ局を有する旧態のメディアの親分である。放送と通信の融合などと叫ばれているが、基本的に性質の違う2者は相容れない関係が長い間続いている。これは、技術サイドでも伺えるが、特にもビジネスの世界では顕著である。つまり、通信、強いて言えばインターネット的なビジネスモデルが一般化されると、現在の放送業界のビジネスモデルは破綻してしまうのである。例えば、少ないサンプリングによる視聴率などは良い例である。そのためにも、旧態メディアは徹底的に戦う必要があるのである。自分たちを守るために。

もう一つ言えることは、メディア会社に取り巻くエンターテイメント産業がどういう風に旗を振るかというのも重要である。現在、プロ野球球団にとって、テレビ放映権の収入はかなりのものである。しかし、メディアの再編が起きてきたときにどうなっていくのか?そこが気になるような気がする。

ただの生意気なIT社長が、気まぐれで買収騒動を起こしたと思わないでこの一件を見てみると、結構泥臭い話しなのである。もちろん、ポイントは、向こうの皆様が茶番劇を繰り広げている間に、自分たちはどういう行動を取るかである。そう、次の一手がないやつには、次の未来はない。

自分の頭の中で、むにゃむにゃと考えていることを紙にまとめる作業は大変ですね、やはり。こうなってくると、実際に動いたもの見せた方が早い!とか思いつつ、いやいや、ちゃんとコンセプトを言葉にしなければとか考えながら、頭の中ではまずモデル図が動き始めました。

see, sense, send, show…and share.

わらばんタイトルバックの打ち上げを慣行!またこういう形で仕事をできればなと思うことひとしお。

明日から最新の仕事になるテレビ番組のタイトルバック(オープニング映像)が流れ始める。
昨年来からお世話になっているお笑い番組「わらばん」(IBC岩手放送)のタイトルバック(オープニング映像)を今回もディレクションすることになったのだ。

今回の仕事のスタッフは、局側のディレクタを除けば全員20代前半の若手クリエイタ。ローカルの番組制作では珍しいスタイルだと思う。もともと、番組のキャラクタを書いていた竹村育貴にキャラクタのポージングを変えてもらうために参加してもらい、音楽はクリカフェで知り合いになった元BUGXERの宝生久弥が参加している。今回、自分にある程度の裁量を持たせてもらえたので、前から企んでいたことを実現させて頂いたのだ。

それは、若手クリエイタ、アーティストで構成してお仕事をすること。

これまで、グリコアワー、クリカフェでいろいろな人たちとつながりを持つことができ、いろいろ楽しかったのだが、そこから一歩前進して、そのつながりを活かして、世の中に流通する作品を作っていかなければと思ってきていた。
育貴の参加は、キャラクタの生みの親だから決定項と言えば決定項であったが、音楽のヒサヤ君は僕から是非と言うことで声をかけさせてもらった。

この間、シネマストリートプロジェクトのラジオに出たときにも話したのだが、岩手の場合、インディーズ、アマチュアの人間がプロの世界に入っていく道というのが、しっかり用意されているわけではない。個人的には、インディーズとプロの間に、交流と意味で隔たりを感じている。人材の交流がないというか。それは、とてもまずいことなのだ。やる気のある人間、潜在的な能力を持つ人間がその世界に入っていく率が引くと言うことは、その業界のレベル向上を図ることは難しい。どのジャンルにおいても、ピラミッド型によって人材は構成される。つまり、底辺が狭ければてっぺんの面積だって狭い。

自分はラッキーにも、大学を出てすぐにローカルではあるが、ディレクションを担当させてもらう映像の仕事に出会うことができている。そういう流れの中で、いろんな同志に参加してもらって、そういう環境を変えていく必要があると思っている。これは、特定の誰かを批判しているとかではない。盛岡・岩手のコンテンツ産業を憂えて言っていることだけである。岩手県選管のポスタにいちゃもんをつけた自民党の議員たちじゃないが、自分が文句を言われていると思ったならば、それを変えていって欲しい。

ちょっとした17秒の映像だけども、そういう想いも込められている。

映画構造論とかを綴ろうとは思わないけど、映画の根幹に関わるところには、さまざまなアプローチが実は潜んでいるのだなと、最近、そんなことを考えているんです。

映画は、ラブレターであり、遺書である。実は、そんなことをいつも考えています。おそらく、人からいろんなものを奪って、残るものって、死と愛かなと思う。つまり、必ず訪れる死と、そして誰かを愛しく思うこと。死というのは極限の状態であり、愛という理由無き感情。

そういうものをコアにして、実は世界ができているんじゃないかなって思う。そういう構造を、実は映画というのも承けている。

最近、作家の人と話していると、そういうコアの部分を書ける人というのは、なんとも自分とは違う神経系統を持っている方なんだなと思うときがある。自分は、次回作では演出に徹しようと思っているので、客観的にそういう人のことを見たりしているのだが、感心されることが多い。

死とか愛はどこにでも転がっているもの。隣の誰かが死んで、それを見つめている自分は、その死にいく人を愛していなくても、まぶしい笑顔のあの子のことを愛しく思っているわけで。こんな事を書いていると、ナーバスになっているとか、ネガティブになっているのかと思われるかもしれないが、そうじゃなくて、非常にポジティブな感じで、日常におけるドラマを考えているんです。

ここまで述べた事柄を伝える映像って、どういうものなのか。実は、それが難解なのです。そこには、あまりにも自由があって、何かに縛られているのです。

生パスタはうまい!

ちょっとづつではあるが、前進していると何となく安心する。

チャリに乗りながら、久々に妄想した。かなりの妄想。どうしようか、それやろうか、やるまいか。そう、求められていることではあるのだが、どうなのだろうか。

言えなかった言葉、言わなかった言葉。そこには、大きな隔たりがある。