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ものづくり

ケンカ中の部屋に来る友人ほど、同情するものはない。


このところ、仕事のことに関しては頑固になりつつある。芯が据わってきたのか、それとも頑なになったのか。あまり良い表現ではないが、自分以外のことで絶望することが多いのだと思う。望むが絶たれる瞬間が多いほど、自分の判断を強く求めるようになってしまう。

と、書くがおそらく、数ヵ月後には、これを書いていることすら戯れに思えてくるのだろうか。


「物」と「もの」とでは、違う。そう、高校のときの倫理の先生から教わったときに、感銘を受けたことがある。自分は最近、自然と、自分の肩書きを名乗るときに「ものづくり」ですと、言うことが多い。これには、二つ理由があるように思っている。

ひとつに、自分の職能が、デザイナ、エンジニア、プログラマという領域に捉えきられないものであって、どれをとっても、自分を表現するのに不足があるからだ。立場的に、クリエイティブディレクタという表現をしていただくこともあるが、それもすべてを表していないのかもしれない。でも、自分は「もの」をつくっていることは、ゆるぎないことである。

二つ目に、その「もの」が物質的なものであるか、インターネット上に存在するヴァーチャルなものか、曖昧であるからだ。あるときは、筐体物をつくっているし、あるときはインターネット上に存在するサービス、例えばWEBをつくっている。「物」なのか「もの」なのか、そのとき、そのときで変わっていく。ならば、すべてを包含して、ものをつくるということを掲げて、そこからの分岐として「物」や「もの」があるということになるとすれば、自分は「ものづくり」などと思う。これには、「ものづくり」の先輩たちに対する尊敬の念もある。

「ものづくり」と言われたら、シンプルに「ものをつくっている」人ですね、と思ってもらえるのではないかという期待感があるのかもしれない。同時に、その先を読んでいる人ならば、これからの時代の「もの」というのを捉えている人というように思ってももらえるかもしれない、そんな期待もある。

ものをつくるということは、ものを考えるところから始まり、ものに触れるところから始まる。そう、叡智の接点であり、自然への接点である。


昨日だったから、自分が最終的に行き着きたいところはどこかと考えていたら、それは単に、北の地に、世界屈指のデザイン教育機関をつくることだった。もちろん、自分の工房も持ちたいが、基本は自分の次の、次の世代を育てる場を作りたいということだった。これは、高校時代からぶれていないことなので、何か特に事情がなければ、遂行したい。と、思った次第。

日本という国をミクロに見つめれば、東北は冷遇されてきた。それを変えるのは、「ものづくり」、今風に言えばデザインの力ではないだろうか。自分は、そう思っている。


企画準備を進めていた案件が流れたり、延期になりそうだ。他にもやることは多いので、息継ぎができるかなと思うのだが、それはそれで、ちょっと残念。

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