もしかしたら、物を所有するということの重要性は、本当に下がっているのかもしれない。

娘が、お片付けが悪いとか、もらったものを大事にしない、物を大事にしないとと叱られているのを聞きながら、果たして、彼女は本当にモノを大事にしていないのか?と疑問に思った。

「物」理的なものへの執着は無いかもしれないが、「モノ」には執着があるのかもしれない。物理的な物を所有することへの意識が低くても、機能性を満たす「モノ」には執着があるのではないか。「物」と「モノ」は共存すべきものであったが、そこには乖離が生まれていて、「モノ」の方に重きが置かれ始めているのではないかと。

例えば、写真。デジカメ、スマフォが登場するまで、写真は、フィルム、印画紙(プリント)がある上で、そこに視覚メディアとしての「情報」が存在して、共存していた。しかしながら、スマフォやPCという、印画紙を代替するような再生機が登場することによって、撮影の時点で、物理メディアと情報は乖離するものになった。細かく言えば、デジカメ時代において、気に入った写真を印刷するという行為は、情報として、つまりデータとして生成された「モノ」は、後から「物」を付け加えて、人為的に「後乗せ」で共存させるものになった。

断捨離のこんまりが、プレゼントは捨てても良い。なぜなら、プレゼントは渡された時点で、思いを伝えるという役割を果たしている。と話していたのを思い出した。人からもらったものを中々処分できずにたまっていく相談者に対して、罪悪感を持たせずに断捨離させる良いアドバイスである。

「物」はすでに、メディア(媒体)化しているのかもしれない。思いを乗せる、機能を実現するものになっているのではないか。

そういう時代、感覚の中に生まれ育つ子供たちは、物の所有感がどんどん薄れているのかもしれない。このことは、廃棄物による環境破壊への対策も考慮に入れて、我々人類が考えるべきことなのではないかと。

物を大事に末永く所有する方向性と機能を手に入れると割り切ってシェアする、サブスク的に物を持つという二方向に、我々はシフトしていくのではないかと。

長女を外苑前の自転車教室に連れて行く。自転車の乗り方など、「教室」などに連れて行かなくても、親が教えれば良いじゃ無いかという話になるのだが、実際、親が教えようとすると、なぜできない!?と熱が入り、怒鳴り、叱り、子どもは転んで痛くて泣いているのか、ただ怒られて悲しいのか、もう分からずに…。ということになるらしく、それならば、自転車教室に預けて覚えた方が、子どもも下手に叱られることも無く、素直に覚えられるのだという。

結論から言うと、2時間ぐらいで、長女は自転車に乗れるようになってしまった。本当に、驚いた。本人には悪いが、今日は、まず乗れないだろうから、来週も来るかなぁと構えていたのだが。

ここで、教わる、教えるということの学びを得たような気がする。

河川敷で、泣きじゃくる子どもを自転車に乗せて、親が自転車の後ろを支えながら、走り、バランスを取らせ漕がせる。段々、バランスを取れるようになったら、転んでも、なんとか自転車に乗り続けさせて、ある瞬間バランスが取れて、1人で乗れるようになる。そして、ぱぁーと後光が差す。というのが、日本式スパルタ自転車習得法だ。

外苑前の自転車教室では、まず、ペダルを外した自転車にまたがり、足で地面を蹴りながら進むところから始める。ここで、体でバランス感覚を身につける。転びそうになったら、直ぐに足が付けるので、子どもは恐くはない。できるだけ、スピードを付けて前に進めるようにし、目線も下に落とさず、上(前)に向けるようにする。ここで、バランス感覚を身に付けると、ようやくペダルを付けて、漕ぐ練習になる。最初、漕ぐときは、自分が加えた足の加重による重心の変化に対応できないのだが、一度、感覚として覚えたバランスの取り方が生きてくるのだろうか、自分でバランスを取れるようになるようだ。

この間、子どもたちは、初老の講師たち(聞く限りでは、自転車メーカーをリタイヤした方々)に罵声を浴びさせられることも無く、必要なときにアドバイスをもらうだけで、自律的に学んでいく。特に、悪ふざけをする子どももおらず、子どもたちは、ひたすら自転車と、そして自分に向かい合う。

ここで考えさせられたのは、ゴールに向かうための過程をきちんと細かいタスクに分けられるかということだ。自転車教室では、最初に、バランスを見つけると言うことで、補助輪などを使わずに、ペダルがない自転車で身に付けさせる。そして、バランスを崩したときに、ギリギリのところで足を付けるという行為を身に付けさせ、体幹的に体でのバランス調整能力を身に付けさせる。次に、ペダリングによる重心移動の調整を習得させるという段階を経ているのだ。

そして、重要なのは、自律性の中で学習させると言うことである。これは、教える側の目標達成の仕方を考える必要がある。教える側が、子どもに、何かを覚えさせると言うことに執着し過ぎて、もしくは、そこに自己達成を求め達成されないことの焦りを感じたり、できない他人への理解が無いと、それがもどかしさにつながり、感情的になってしまうのではないだろうか。おそらく、感情的な教育、特に怒りの感情による教育は、ことさら子どもに対して良い効果は無いことが多いはず。教えると言うことの最大のゴールは、教えを受ける側が目標達成することにある。教える側の目標達成ではない。教えを受ける側の目標達成に向けての最善のルートは何か、そのことを最大限に考えると、どう取り組むべきか見えてくるのではないだろうか。

子どもが自律的に模索しながら学ぶ中で、壁にぶつかったときに、適宜に教えていく。それも、過剰では無く。その繰り返しが、良い学びの循環を生むのではないだろうか。

と、書くのは易しである。実際のは、そうも行かず、日々、子を荒げてしまうのだが。

あぁ、そうか、だから「教室」があるんですね。

臥薪嘗胆。

今は、それに尽きる。

漢文と言えば、記憶に残る学校の先生に、古文・漢文の先生がいる。人の記憶というのもは、不思議なものだ。意外なものが残る。対して、好きな先生でも無かったのだが。

意外なことが記憶に残っているのに、おかしくもだいぶきちんと記憶に残っていないことがよくある。これは、人間の忘却の素晴らしさがもたらす悪戯というより、その当時、テンパっている、もしくは意識の余裕が無く、記憶のチャンクに、その事柄が入っていかなかったのではないかと思う。

最近、とある出来事を思い出して、失敗とは思わないが、後悔に価する一件だなと悔やまれることがあった。だが、なぜ、自分がその行動を取ったのか、未だに介せない。相当、何かに追われていたのだろう。若気の至りと言っていいことなのか、それ以上のことなのか、または些細なことなのか。

圧倒的に、アプトプットが足りない。文句を垂れる前に、アウトプットだ!出力だ!と自分に叱咤する。

次女の幼稚園の運動会に行く。子どもたちが自由し放題で、先生たちは統制を取ろうと大変なんだろうけど、何となく隊列はまとまっているが、直線では無く、線をノイズでマルチプライしたようなごにゃごにゃ感が微笑ましい。

というのも、その2週間前、長女の小学校の運動会に行ったのだが、久々に見た整列!気を付け!前習え!という号令の元に、一直線に並ぶ子どもたちを見て、違和感というか、嫌悪感を感じた。あぁ、こういう教育をしているから日本はダメになったんだなと、罪無き無邪気な子どもたちの姿を見て思う。これじゃ、まるで軍隊、いや、どこかの某国と一緒じゃ無いかと思ってしまった。

台に載った指揮者の言うことを暗黙に聞き、ただひたすら従えば、評価される。こういうことを身体的に染む込ませる。これは、何なんだろうか。世の中で叫ばれている、「イノベーションを起こす!」とかけ離れたよう光景だ。

幼稚園児たちは、確かに、だらだらに見るようだが、目的に(例えば、協議をするとか、お遊戯をするとか)向かって、下手でも自律的に動こうとしていて、先生たちも、強制的にと言うよりは促すようにして、全体の形を維持しようとする。高圧的では無く。

幼稚園から小学校に上がるまでに、こういった変化が起きて、何か、失われているのでは無いかと思ってしまう。39歳の自分が、未だに、あの白い大きな箱で起きていたことに違和感を感じて生きているのは、ここにあるのかもしれない。

まぁ、モンスターピアレントなどと言われないように、こっそり考えたいと思います。

建築系のイベントにて、NYのHigh Lineの話を聞く。全然知らなくてとても勉強になった。おそらく、一度、NYに行ったとき、おそらく出来上がっていたと思われるので、行ってこなかったことを後から後悔する。

情報アーキテクトという職名がある。つまり、情報の構造体を建築に見立てて、情報設計などをする人のことを、情報建築家的に呼ぶという、まさしくその職能について指し示しつつ、建築家への羨望を形にしたような職名である。情報設計が、建築設計に近いもしくは、相似的に語ることができるというのは、クリストファー・アレグザンダーの「パターン・ランゲージ」が大きいと思うが、その後の建築と情報の分野の歩み寄りを示唆する黎明なのかもしれない。

現代において、人々は「情報」という衣服を身に纏い世界を闊歩している。自分は、そんなイメージでいる。デジタルツインやミラーワールド的な表現概念もあるが、ミラーと言うことは実像と鏡像が常に対になって相互作用し合う。しかしながら、実世界と情報社会が対になるということは、どちらかに主体があると考えられるべきである。無論、近い将来なのか、遠い将来なのか、その主体が入れ替わるシチュエーションが増えてくる可能性はある。どちらかが主体であると言うことは、その片方が、主体に付いてくる、もしくは追随してくる、影響を受け、象が移り変わっていく。

同じくして、建築も、情報という衣服、皮膚を持ち始めている。建築というと、高尚なモノに見えてくるが、私たちが、普段歩く街の景色の中に、そういった物理的な建物の風景だけではない、情報の風景というモノが溶け込み始めていると言うことだ。

そういったステージになったときに、その建築と情報のランドスケープのデザインを誰がしていくかということになってくる。建築側の人たちが、このことを強く意識していて、提言や問題提起を行っているが、情報、デザインの人たちがこのことを意識して発言しているのをあまり聞かない。AR, VR and MR(つまりxR)で、こんなおもしろいことができます!とは言うが、それがどう社会に実装されていくのかというのを大きな文脈から聞くことがない。

建築というモノを情報が包含していく時代。そこに求められるクリエイティビティーとは、何か。ここにチャンスがあるのかもしれない。

今日は、朝から体調が悪く、集中できない。

絶とうと思い、だいたい1/3ぐらいまでに。

何か、いくつかのことを考えていたが、思い出せない。

「悲劇的なデザイン」という本に目を通し始める。デザインは何かポジティブな方向に変えていくというイメージがあるが、デザインは人を傷つけ、時には人を殺すこともあるというショッキングな話である。

確かに、「製造責任」というものが、プロダクトにはある。それによって、起こされた事故、問題について一定の責任を取らなくてはいけないということである。同時に、その負の問題に、継続して意識を持てるかというところである。デザイナーの態度として、このプロダクトは、どんな社会的影響を及ぼすのか、パーソナルな影響を及ぼすのかを常に想像しなければならないことである。それは、その製品が生み出すであろう幸せなことがらと表裏一体モノだと言っても良い。

不安要素を払拭することばかりでは、イノベーションは起こせないというが、プロダクトの開発には、「不安症」も必要だ。それが物理的な機能なのか、ソフト的な機能なのか、思想的なことなのか、それは様々なことにおいてかもしれない。

中華系の通販サイトから、無事に電子ペーパーが届く。開封して、梱包された製品を持ったら、思いの外、軽かったので、まさか!空か!!と思ったのだが、電子ペーパー自体が本当に軽くて、薄い。これは期待できる。

台風一過。不思議なことに、前回の15号の翌日と比べて、自宅の周りは、吹き飛ばされた落ち葉やゴミは少ない。周りの被害は、大分、大きいようだが。

ここ数日、クリエイティブなコーディングのために、環境整備を続けている。アウトプットが見えてこないのが辛いところだが、こういうツールや機能を揃えておくと、後々楽になるということが肌感覚でわかっているので、これは経験がもたらす何かしらなのだろう。

徐々に整いつつあるので、進捗も進むだろう。

自分はどうも、タイトル(肩書き)に弱い。そう呼ばれると、それらしく振る舞おうと自分をインフォームする。それが自分を拡張させるのだと、思っていたのだが、そうでも無い。

自分の社会的な、相対的な評価よりも、自分が何をつくりたいのか、世に送り出したいのか、それが主軸であり、その手段としてタイトルがあるのだ。と、今更ですか?と思い直す。(なおす、というよりは、ただす)

それにしても、世は複雑怪奇である。

やはり、そういうものか。(ネットの)新聞記事を読みながら、自分の考えは別に突拍子なことでは無かったとほっとする。

求められるのは、コミュニケーション能力だとか、コネだと言われても、自分、意外と引っ込み思案なので、何とも言えない。子どももいるから、飲み会もガンガン行けないしなぁと思いながら、そんなことをしているならば、つくってアウトプットでしょと思いつつ。

大量の本が届く。本棚を整理していないので、まさしく「積ん読状態」。整理しなければ。しかしながら、積ん読というのは、まだ手を付けられていない本の背表紙のタイトルを自分に意識させ、思考をつなぎ止める行為であるので、容易に、奥に本を仕舞い込むこともできない。

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