自分が見たい姿は見えているのだが、それを形作るための課題/やるべきことは山積していて、それを乗り越えられるか、不安になる。同時に、似た様なものがやはり出てきて、焦ってしまう。しかし、そういうときの望みは、他のモノたちが、自分が欲しいと思っているものと、違うことだ。だから、自分がやるべき価値がそこにあると思う。自分が本当に欲しいもの。たぶん、それが世の中に必要と思われるもの、世の中に提示したいものだと。

自分は、とりわけイノベーション型の人間ではない。既存のものを、磨き上げて、良きモノをつくるタイプだと思っている。目新しいものを目指して、翻弄されてはいけない。

とうとう非常事態宣言が解除された。これは終息を意味せず、「非常」が解かれただけで、with COVID-19は続いているのだが、すこし心が楽になる。非常の緊張の連続は、心は受け付けてくれない。少しずつ、動きやすくなることが良いのだと思う。

とはいえ、ここ3日ほど、東京の新規感染者数が10人以上に転じている。また、波が来ないか、予断は許されない。

結局の所、この2ヶ月で個人的に何か起こせたかというと、何も起こさなかったわけだが、冷静に考えると、小さな変化を確認し、次のアクションにつなげた方が良いのだろう。何かに追われて、行動を起こしていたら、それはそれで空回りになるのかもしれない。昨日、スーパーで平然と売られているマスクを見ながら思う。

都市の機能としての終焉などについて、考える。

Bluetoothに負ける。

ブックカバーチャレンジのバトンを渡されたので、1日一冊、本を選んでいる。お陰で書棚を改めて見回して、自分に影響を与えた本たちの居所を再確認している。

自分の書棚は、カテゴリーというか、関連している本で固めて、一応整理している。時たま、飛んでいることもあるが、基本的にはそう並べている。あの本はどこに行ったとのぞき込んでいると、あっ、すまん、読んでいなかったという本たちにも出会う。申し訳ない。本の棚卸しというのも、たまには良い。

それにしても、普段読んでいる本はデザイン関連やそういった類いの本ばかりで、いかに、自分がデザインバカかと思わされる。

と言って、デザイン研究家となるほど、多読も出ないし、こうなったらデザイン愛好家とも名乗ろうか。デザイン免許とか、持っていないので。

最近、何をしているかと言えば、実は、ヴィジュアルプログラミングより、WEB系のコーディングについて、リハビリしている。久々に、jQueryを触ったり、bootstrapを触ったり、改めてNuxt.jsを触ったりなど。この3年ほどで、かなり開発環境は変化しているなという印象を受けつつ、残っている技術や開発環境もあるなぁと思いつつ。

先日の、山中俊治先生が出ていたSWITCHの続きを夜に見る。番組の後半、氏が敬愛するゴルゴ13のさいとうたかを氏に、デザインについて語る内容。その中で、義足の件(くだり)で「マスカスタマイゼーション」について触れていた。聞いたことが無い言葉ではないが、改めて聞くと、これは「やわらかい」デザインだなと思った。

マスプロダクトは、低コストな大量生産を果たすために、その形状などを平均値、もしくは期待値に最適化され固定化される。しかし、それはあくまでも、平均値であり、それぞれの人に完全に合うということはほぼ無い。そのため、何かしら、使う人の方が、もしくは使う人が体をそのプロダクトに合わせて、使うことになる。

一方、マスカスタマイゼーションは、構造等、ある程度までは、統一フォーマットで生産され、残り部分は、各ユーザにカスタマイズされて提供され、使う人に会ったものとして届けられ、極力ユーザー側が合わせることが無いようにするものだ。

基本機能や基本構造はハードに固まっていたとしても、例えば、ユーザーと接する境面(つまりインタフェース)はやわらかく、使う人に合わせて形状が変わるようなイメージである。

本来の意味では無いが、ソフトウェアというものは、ハードに対しての存在であり、「ソフト」なやわらかい存在でなければならないのでは?

3年前に、「やわらかい建築」という言葉を使っていた、これは、今振り返ると、ソフトなハードウェアである。物とは、その存在のために、骨格を持たなければならないわけであるが、その骨格と触れ合う人の間には、ソフトな層があるべきなのである。それが、インターフェースである。

ハードなインターフェースは、押し付けである。こう使え、それが美しいと。それが、最適解の時もあるかもしれないが、そうではないときもある。

変な話である。ソフトウェアやUIというのは、本来、物理的な形状をほぼ持っていないわけでから、使う人、シチュエーションに合わせてどんな形にも変われるはずだ。だが、実際のところソフトウェアのユーザーインターフェースは、だいぶ固定化されている。ソフトなのに、ハード。

このあたりは、近いうちに再度、向き合おう。

お陰様で40歳を迎える。

この40歳という数字について、二つのことが言える。一つは、日本の成人となる20歳から、再び20を数えての40歳は第2の成人とも言える。二つ目に、日本人男性の平均寿命は、81.25歳なので、平均的な寿命だとしたら、人生の折り返し地点にいると言える。強いて言えば、残り40年。人生100年時代と言われるが、残り半世紀は生きられないと考えた方が良いだろうし、健康寿命を考えたら残り40年というのは間違いとは言えない。

よく、今の自分を若い頃の自分が見たらどう思うのだろうかと振り返る話があるが、自分の場合はどうだろうか。残念ながら、やはり自分の場合も、今の自分が、若い頃、描いていた自分だとは言い切れない。むしろ、何だか、自分として、やりきれていない自分の感じがする。

では、若い頃、どんな自分を描いていたのだろうか。よく人は、もっと大人になっていると思っていた。自分が思っていた大人とは違う、と。確かになぁ、自分が思い描いていた大人とは違う。とは言え、そういうことは、何歳の時も思ったような気がするわけで、自分が思う大人になれないというのは、影との追いかけっこようなもので、いつまでも追いつけない。

だから、追いつけないものに、追いつかなくても良いのでは無いかと、実は最近思い始めてきた。「永遠の5歳児」という言葉があるが、むしろ5歳児のままでいる自分を認め、むしろ5歳児であり続ける方が大切なのでは無いかと。逆に、変に背伸びして歪んだ5歳児になっていないかと自分を確認する。

世界のワンダーをかみしめ、何かに一心不乱に打ち込んで、ほらぁー、すごいでしょと周りに見せびらかすような、そういうプリミティブな姿勢を持つ人間であり続ける方が、相当大事なのでは無いかと思えてきたのだ。

8歳になる娘がいる。既に、娘は「5歳の私」を越して大きくなっている。まだまだ、勝てる部分もあるが、大分、娘に越されたなぁと思うことが多いのだ。いや、冗談では無く、本当に。

そもそも、ならなければならない大人というフレームについて、考えなければならない。社会通念としての大人は、本当にどこまで本当なのだろうか。社会の便宜上、最大公約数として生まれた枠としての大人でははないだろうか。では、その社会とは、人類文明において、絶対的な社会なのか。それは、どこかの地域における社会として多く存在する社会の一つでしかなく、時間軸の上でも一瞬に存在する社会の形なのかもしれない。大人という枠は、とある社会を維持するために強迫観念のように生まれたものではないだろうか。

もう、社会が生み出したような亡霊との追いかけっこはやめよう。

今更のように、そういうことを言う。青臭いことを言う。だが、「当たり前」と思っていたことが、実はどうでもいいことでつくられた「当たり前」だと言うことを知る度に、そもそも、通念とは何かと考えさせられる。通念としての大人に疑問を感じるのだ。

いやいや、お前さ、40になるんだから、「大人」になれよ、と言われるかもしれないが、いや、大人にならない、というのが40になっての自分の答えだ。第2の成人式を迎えての私の宣言だ。

残り40年。実にシビアな自分との戦いが控えている。もう、40年しか無い時間の中で、やり遂げたいことが数多くある。40歳は不惑の年と言うが、残り時間が限られている中で、迷いが無くなると言うよりは、迷っている暇が無い。大人であるための維持活動よりも、5歳児としての道を行きたい。

自分がやり遂げたいと思っていることが、どうでもいい通念の世界には無いことを悟れば、その通念の支配下に自分は置いてはいけない。

40歳の5歳児宣言。

GW最終日であるが、だらだらと過ごしたわけではないが、何か成果物があるわけでもなく、強いて言えば、娘たちとつくった謎の工作が残ったという所だろうか。

遅まきながら、ハラリへのインタビューを見る。自分も考えていたこと、そして、さらに思慮深く掘り下げて語られた内容に感心する。我々は、もうあの世界には戻れないのだということを理解し、そして、もう既に始まっている新しい世界をつくる主体になっていかなければならない。

緊急事態宣言が解除されても、それは全くのゴールではなくて、いばらのスタートだ。これまでの価値観は通用せず、「新しい秩序」をつくりながら生きていかなければならない。「新しい秩序」とは何だろうか。そして、我々は捨てなければならないものがいくつもある。残念なことに。

希望的観測は命取りだ。恐らく、数年、十数年、できないこと、許されないことが必ず生まれる。ついこの間まで、我々が普通にしてきたことが許されなくなる時代に入っているのだ。

我々人類は、これまでにも、感染症の大流行を経験してきたり、様々な困難に立ち向かってきた。その都度に、祖先たちも、自分たちの生活や文化を変えてきたはずだ。時代背景は異なるにしても、一体彼らはどうやってそれと立ち向かい、凌いできたのだろうか。

昔はこんなことがあったなぁ。また、したいなあと。大勢の人たちが集まり、人々の汗が迸り興奮の熱に包まれたあの日をを、人々は思い返し、それをバーチャルな表現に置き換えて、脳内置換で楽しむのだろうか。

我々の共有する記憶の中に、桃源郷イメージ、極楽浄土的なイメージがある。あれは、もしかしたら、空想の作り話ではなく、それまで、過去の祖先が経験していたことが許されなくなり、その体験を意識の中に封じ込め、遺伝子の中に刷り込んだ「体験の自由」なのかもしれない。我々も、その「体験の自由」をいつも頭の中に封じ込めながら、新しい世界を生きていくのだろうか。そして、それを知ることなく育つ子どもたちに、言い伝えていくのだろうか。今、新しい寓話が生まれる瞬間なのだろうか。

太平洋戦争においての日本の死者数は約230万人らしい。

過ぎたが、5/3は憲法記念日だ。昭和22年に、今の憲法が施行された。

ハッとしたツイッターの投稿。それは、5/3はファシズムから日本を取り戻した日だという内容だった。確かに。我々は、約230万人の犠牲の上に、この憲法を勝ち得たのだ。

洛陽の首相が未だに改憲を唱えているが、この渦中で、そんなことをしている暇は無い。むしろ、この憲法を遵守しながら、我々はこの渦中をくぐり抜けていかなければならない。

憲法とは、我々市民の権利を定義したものであり、セーフネットである。これが民主国家としての最後の砦であり、拠り所である。その憲法が遵守されて運用されているか、ここが問題である。遵守されていないものを変えるのはいかがなものか。

法は、英語でcodeである。ソフトウェアを記述するcodeと同じ単語であるというのは実に興味深い。

ソフトウェア開発には、テストという工程がある。テストは、そのプログラムが設計、意図された動きをしているかを検証する工程だ。結果が期待される数字を用意し、その数字が導き出される入力値をプログラム入れた場合に、求められる答えがきちんと出るかを確認する。例としては、二つの数字を足すプログラムがあったとして、答えが3となり、入力値を1と2とするテストパターンを用意する。その場合に、プログラムが3ときちんと答えれば良いのだが、4や5となったら、それはプログラムに間違っている。プログラムを書くとき、改良するとき、このテストを何パターンも用意し、きちんと動作するかを確認していき、正確に動作するプログラムを開発していく。正常に動作すれば、OK。異常があればNG。エンジニアは、100%OKを目指す。

憲法も、随時、このテストを行い成功率を上げていく努力を国家として、市民として果たしてく必要があるのではないだろうか。果たして、日本国憲法の成功率は何パーセントなのだろうか。

成功率のスコアが高い数字を出せるようになったら、改憲を考えても良いのかもしれない。まずは、この憲法を最低限、責任もって運用することである。

新聞に掲載された「ドラえもん」からのメッセージ。

きみがおうちにいてくれたから。
ちゃんと手を洗ってくれたから。
家族を想ってくれてから。
ともだちと支え合ってくれてから。
やさしい気持ちでいてくれたから。
病気の人を助けてくれてから。
みんなのために働いてくれたから。
未来をあきらめないでいてくれたから。

だいじょうぶ。未来は元気だよ。

https://dora-world.com/contents/1411

泣いてしまった。

いや、自分の想像力の至らなさを改めて気付かされる良いメッセージだ。

時を同じくして、娘とドラえもんの映画を見る。ドラえもんたちは、タイムマシンに乗って、自在に時空を越えていくが、いつもドラえもんは、過去にタイムスリップした自分たちの無責任な行動が未来に影響を与えるため慎重ではなければならないと、のび太たちに注意する。例えば、未来の道具を大昔の人間に使わせてしまったら、進化やイノベーションを起こらなくなり、未来の発展した文明そのものが危ぶまれると。

我々は、時間の点を生きているわけではない。無限に伸びる線上を生きている。我々は過去の先にあり、我々の先に未来がある。

「ドラえもん」には、おもしろいことに、のび太の玄孫のセワシも出てくる。ドラえもんがのび太のところにやってくるきっかけはセワシだ。セワシは現れては、のび太に、しっかりしてよ、先祖様とぼやく。のび太が勉強をがんばってくれないと、僕らは困ると。のび太は、5代先の子孫からリアルに語りかけられている。確か、ネイティブアメリカンは、3〜5代先のことを考えて決断すると言うが、のび太は、小学生にして、それを強いられている(笑)

都市伝説の様に語られている、ドラえもんの最終回がある(実際には、最終回は原作者がきちんと書いている)。どんな内容かは、「ネタバレ」になるので遠慮するが、のび太の行動が、のび太が生涯友人とする彼の誕生に関わる話につながる。あののび太が、やり遂げる!

今、我々は、これまでの人類が経験したことのない状況下に置かれている。この状況は、この先不透明で、形は変わるかもれないが、困難な状況はしばらくの間、続く。そして、この今の状況に耐えよう、闘おうと我々人類は奮闘している。そう、COVID-19に打ち勝つために。残念ながら、そのために、COVID-19以外の的を生み出している。

我々は、何のために奮闘しているのだろうか。我々の行動が何を助け、何を変えようとしているのか。

ドラえもんは、端的に教えてくれている。

それはそれは、我々の未来だ。

我々がどんな行動を取るかで、のび太のところに「ドラえもん」がやってきてくれるか、変わるのだ。(ドラえもんは22世紀のロボットだ)我々の行動は確かに、今も変えるが、今の先も変えている。そのイマジネーションが今、強く求められているのかもしれない。

「だいじょうぶだよ。未来は元気だよ。」
と我々のセワシに言わせよう。

このコロナ渦によって、精神を病む人が増え、コロナ自体ではなく、自殺による死者が増えるのではないかという話がある。これまでの社会生活を控えさせられ、家に閉じ籠もらさせられ、自分の社会的な存在価値を見失い始めるからだという。

一方で、これまで社会的強者から、圧力を強いられ悩んできた人たちが、「無駄な」社会行動を取らなくても生きられるようになり、生きやすくなったという話も聞く。リモートワークが進む職場で、管理職が寂しいと嘆き、一般社員がストレスが減ったと言うらしい。

これまで、社会的強者が、この社会変化の中で優位性を失い、これまで社会の片隅に追いやられていた小者・弱者が、変化中、もしくは変化後の社会の中で優位性を持つ。一方の強者は、環境の変化により衰弱化していき、弱者が新しいフィールドを生き生きとしていく。この逆転は、まるで、恐竜時代の終焉を迎えた地球の生態系のようだ。大型動物であった恐竜が倒れ、小動物だった哺乳類が台頭していく。

生物には多様性が求められる。ある瞬間は不必要だと思われるようなものも、別な瞬間にはメジャーになる可能性がある。その繰り返しが、地球の多くの種を守ってきたし、人類も様々な遺伝子・体質を担保することで、地球の気候変動に対応して生き延びてきた。そう考えると、この渦の中において、我々の多様性が求められているのかもしれない。

先日まで、引きこもりは、だらしない、社会のお荷物だという風に見られてきたが、引きこもりは、stay homeの先駆者であり、体現者だ。数日も家に留まることこともできず、stayできない人々もいる中、彼らは長年stayしている。それが、社会全体にとってどうであるかはさておき、stayできる能力は、今、求められている一番の能力とも言える。それが、種の生存につながるのだから。

強い社会的活動によってマウント的に生きてきた人にとっては、生きにくい時代が来たのかもしれない。その逆も然りであるというのは、滑稽なお話だ。

久々に買い出しにと、日中の外に出る。できるだけ、混雑している時間帯を外したつもりだが、意外な人出に面食らう。カフェでノーマスクで談笑するグループもいたりして、緊急事態宣言下の街中とは思えない光景だ。何となく、ここ数日東京の感染者数が100人を切っていたので、何だか、初夏を思わせる天気も相まって、緊張の糸がほぐれつつあるような気もする。GW明けがどうなるのだろうか。

今更ながら、マイクロサービスが気になってしょうが無い。規模の大きいサービスではなくて、小さめの単機能に近いWEBサービスだ。昔、グリコのおまけ的なアプリと呼んでいたのだが、雑貨的なサービス・アプリだ。

そういうのをやる場合、どんな肩書きになるのだろうかと考える。プロダクトマネージャーというと、「マネージャー」な意味合いが強い。とはいえ、マネージャーをデザイナーに置き換えて、「 プロダクトデザイナー」というのも意味合いが違う。一般的なプロダクトと棲み分けを図って、「デジタルプロダクトデザイナー」というのもこれまた仰々しい。

ハッと思ったのだが、果たして自分はプロダクトをつくりたいのか、という疑問だ。プロダクトより、サービス、もしくは体験なのではないか、と考えると、はたまた、難しくなる。何ちゃらデザイナーと付けるのは、何時も難しい。

それは、さておき、まずは修行だ。

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