ふっじっさーん!

頭の中で、グルグルしている。

久慈から2件電話。方言に癒される。

新年早々から、仕事をゴリゴリやっている。

なんやかんやで、結局「新年」という言葉を使っている。

以上。

旧友と忘年会をする。

死期が近いわけでもないが、最近10代からの友人と会うようにしている。なんだかね、古くからの友人と会うと、ちょっと気が若くなるんですよ。そういうのが欲しくなるお年頃です。

「世界を見立てるいくつかの方法」

黙々会に行く。

黙々会とは、有志が一カ所に集まり、各個人がひたすら作業をし、最初に目標、最後に成果物をシェアするという会である。概ね、2〜3時間ほど、作業時間が設けられている。この間、参加者は、集中して、その日の、己に課した目標・課題に向き合う。自分の場合、SNS、Slackは切り、作業に没頭する。

と、書くと何とも、修行のように思えてくる。だが、この修行のような集中が、普段には得られない成果を与えてくれる。

他にも、こういうことを当てはめられれば、良いのだが、そうも行かないのが、この世界のなのだろうか。

「いくつかの姿」

認知する身体について、最近、考えている。魂、意識は、どこに宿るかなど。

高熱を出して寝込んでいるのだが、浅い眠りの中、数分置きに目が覚める。

毎回違う夢を見ては、寝落ち手、また違う夢を見る。

苦しいが、めくるめく夢の世界に虜になってしまう。危険だ。

これがもしやドラッグ体験?と思いつつ、危ない危ないと。

今日は、悪い意味での記念日が樹立。いかがなものか、自分と問いつつ。

なんとなく、同じようなスキルセットを持った人たちのクリエイティブに対しての盛り上がり方と、自分の立ち位置が違うなぁと思うことがたまにあり、何でだろうと、ザラッとした違和感を持っていた。

何かの書き込みで、「ハレの演出」みたいなのを見かけて、腑に落ちる。なるほど、自分が求めているのは、ハレの演出では無くて、「ケ」の演出だと。ここで言うハレとケとは、例のハレとケである。

「ハレ」の演出というと、何か大きなライブ映像やVJなどなど、非日常的な空間の演出である。「ケ」の…は、家の中だとか、日常の、日々の空間でのデザインのことだ。

そう考えると、ここ最近、世の中の建築とかいうのも、本当に「ハレ」のものである。渋谷に続々と出来上がる建造物は、そのほとんどがエンターテイメント性を強くし、それはまるでテーマパークとも言える。そのギラギラと林立する姿を望むと、なんとも食傷気味になってくるのだ。

自分が初志一貫としているのは、「ケ」におけるデザインだったりするのだろうかと、ふと思った。

と言っても、「ハレ」をつくるのも考えるのも、それはそれで好きだ。「ハレ」と「ケ」の間の揺り戻しというのも、それは、やはり生活と同じく、大切なので。

良いインプットが多い数日だった。

金曜日は、私淑の内田繁先生の三回忌に、先生を偲ぶトークイベントへ。久しぶりに、内田デザイン研究所の方にもご挨拶ができて良かった。改めて、内田先生のデザイン思想の深さと先見さに改めて学ぶ。これは、きちんと消化せねば。先生がご存命の時に、いろいろ聞くべきだったと後悔しきりであるが、あの当時の自分には、そんな質問をする頭も無かっただろうなと、ここ数年の自分の悩み事の答えの一端を見出したような気がする。精進せねば。

土曜日は、田所さんの作品とArs Electronicaの作品を見に、松戸へ。会場は、旧徳川家松戸戸定邸という幕末の建物。古い邸宅に展示されるメディアアート、現代アート、プロダクトは、新しい視点で見れておもしろい。

実は、自分も考えていた複数のRaspberyPiの自律性を問うた作品。田所さんに、先にやられてしまったと思いつつ、各端末が自律しながら演奏するサウンドは、心地よかった。

日曜日は、皆川明さんと田根剛さんのトークイベントへ。好きな2人の対談だったので、とても楽しみにしていた。当たらないだろうと思っていた抽選に当たってしまったので、これは聴きに行かなければと。

一貫して皆川さんが話していたのが、物から生まれる感情、想像(イメージ)を大切にすること。ミナのデザインは、作り手の感情を物に託し、それを着る人それぞれが、その感情を覚醒させていくことではないかと。

最近、考えていたデザインプロダクトのもう一つの膜(レイヤー)についてのとても、示唆に富んだお話だった。

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