たまに、考え事をしていて、目頭が熱くなって、涙が止まらなくなることがある。周りの人にばれない様に、自分を落ち着かせるのだが、そういうときに思いついたことを大事にしようと思っている。

目頭が熱くなる様なものじゃなければ、残らないものなのだろうと思う。

むしろ、目頭が熱くなる様な、魂を揺さぶる様なもので無ければ、手を出さない様にしようと思うのだ。

世界を変えるデザインの本村さん(Granma)とPINOの松井さん(Flower Robotics)のお話を聞く。

松井さんは、やはりカリスマ性があるなぁと彼のプレゼンを聞きながら、社会化もデザインの要素であると言うことを再認識させられる。SONY創業者の盛田さんのインタビュー映像を織り交ぜながら、技術やデザインを広めていくビジネスも、イノベーションであると言うことに感化される。

“From Tokyo”、”MADE IN JAPAN”であるということの意味性。これも、考えさせられる。そういう意味では、”From Tokyo, Japan”であったり、”From Iwate”であるということを本当にこだわっていかなければならない。

最近、自作品群に対しての、Dogmeの掟的なことを考えている。自分たちの作品の強みは何か。

「作品」と「製品」という言い分け方も重要。「製品」はビジネスを強く意識している呼称なのだろう。同じモノを指し示していても。

デザインは拡がっていく。

年は明けましたが、気は晴れない。それが、2012年を迎えて想うことでしょうか。

仕事、311のことに関して、何も出来ていないという焦りだけが募る感じです。

ただ、2011年の最後の四半期は、答えが少々見えてきたような気がしてきて、それに向けてどうしようかと思いを巡らせることが出来るようになり、すこし気持ちが楽になった。

今年は、311世代として考え、動きたいと思う。

昨夜、腹の中にいる子供に蹴られました。おもしろいなぁ。

だいぶ理想的なことを考えた。

理想は、夢想なのか、と思ったときに、ふと、大先輩のことを思い出した。

かの人は、理想を追い求めた人なのだろうか。彼が今生きていたなら、何をしているのだろうと思いつつ。

理想。

夢物語かもしれないが、理想を描けなければ、現実は変えられない。

理なのか、夢なのか。

さてさて。

今週、短時間でしたが、盛岡に行ってきた。

その前から、「東北」について、311以降の落ち着きの無い中で考えていたことを改めて、311以前のことを含めて考え直し始めていたのですが、いろいろな人と話をして、新たな答えが見えてきたような気がする。

兎に角も、この理不尽さに、どう応えていくか。そのことを考えている。

組合、化学式、もくぎょう。どいつもこいつも、変態だ。

宮崎県の諸塚村に、リアルタイム中継のマイクを仕込むために行ってきた。村全体でFSC認証をとり、林業と森林保全に力を入れている村だ。また、グリーンツーリズムでも先駆的な村。山々の間を雲海が流れるという贅沢な景色を眺めつつ、自然の美しさと、人造物の至らなさを悟る。

帰ってきてから、翌日、自転車で夜の銀座を通った。イルミネーションやらオブジェが準備されていた。何ともまぁ、不格好なものたちだろうか。確かに、きらびやかではあるが、そのきらびやかさは、フェイクだ。

もっと、私たちは、こざっぱりとしなければならない。

SNSやWEBサービスを空気のように、当たり前に使いこなす子供たちのことをデジタルネイティブと呼んで、持て囃す論調があるが、自分は、それに嫌悪感を持つ。

だから、どうしたんだ?という。

時代に生きれば、時代の技術を身体の一部として使っていくのは、ごく自然のことである。

もし、自分に子供がいたとしたら、PCもiPhoneも、すくなくとも5歳ぐらいまでは触れさせたくない。彼らが持っている本当のインタフェースを育てたいからだ。そして、せまっこい画面の中に世界を見て欲しくない。

PCやら、デジタルデバイスというのは、とにかくも不完全なものだ。大人たちが、日夜努力してよりよいものにしようと躍起になっているものであり、それが「すべて」ではない。そこに、感覚神経がはまり込んでしまったら、そこに「限界」が生まれる。そこからの「拡張」が無い。少なくとも、こどもたちには、引き続き、それらを「拡張」してもらわなければならないのに、その世界に飼い慣らされては困るのだ。

むしろ、子供たちには、この時代に生まれたからこその地球大の視点で世の中を捉えて欲しい。地理学においても、人類学においても、環境学においても、今、人類は様々な視点を持ち、考え、思いを巡らせることができる。それも、省コストで。科学が、一部の階級の専有物では無い素晴らしい世の中なのだから。こんな時代は、人類史上、最高のステージだ。

地球も、世界も、広大だ。無限だ。それを、無限にセンシングできる身体というインタフェースで、そして、地球の種の中で一番優れている脳で、考え抜いて欲しい。ミクロの視点、マクロの視点を自由に往き来しながら。

そのために、子供たちは、Earth Nativeともいえるような、地球大の視点を前提とした「考え方」を身につけて欲しい。

視点というと軽く思われるかもしれないが、地球大の教養です。今、自分が食べているもの、初めて会った外国の人のこと、そういうところから様々な背景に思いを巡らせ会話ができる人、そういう人に自分もなりたいし、子供たちにそうであって欲しいと思う。

地球大の視点、教養、そして情操教育。

それをもった子供たちが、地球の新しい神経網とも言えるインターネットやソーシャルネットワークを触ったときに、その真価が発揮されるのだ。

そう、ニュータイプは、MSが無くてもニュータイプであったかのように。

「×(バイ)」のデザイン。

最近、そのことを意識している。掛け合わせることで、生まれてくる新境地。愛のキューピットみたいな仕事。

タイに洪水災害に関してメッセージを送るため、関係者で集まる。

タイの親水的な文化、日本を含めた東南アジアの親水的な文化の話になる。元々、タイはちょっとそっとやの洪水でも耐えうる国だったらしい。実際に、洪水に慣れっこの人々は、報道の写真で見る限り、日々を力強く生きている。どうやら、欧米的な都市構造、建築物が、今回の洪水の被害を拡大化したようだ。実際、被害があったのは特に工場であり、無くなった方の死因の多くも、溺死では無く、感電死らしい。元々の親水文化を礎とした、都市開発が進んでいれば、今回のような災害への対応も変わってきたのでは無いかと思う。

親水文化だとか、海洋文明という切り口で地球を眺めていく、さまざまな発見がある。環境問題から、宗教、生物学、数学、言語学まで。そうなってくると、地理学、宗教学、歴史学とか、そういう「縦割り」で語れない。地球儀を回しつつ、知識を縦横無尽に駆け巡らせ、語らなければならない。

今思えば、なんて、学校の地理、歴史、社会、数学などなどは、つまらないものだったのだろうか。ぜんぜん、感動的では無い!もう、先生方の利権争いのなれの果ての教育だったのでは?と思ってしまう。

知識は、ハイパーテキストでなければならない。ことがリンクすることによって、次のことが見えてくる。その関係性の中に、おもしろさがある。

勇敢な冒険なのか、それとも無謀な冒険なのか。

冒険は、その先に待ち構える試練を躊躇しては、成し遂げることができないものだ。

電磁波の話しを読む。まずは、電磁波が何者なのか、そして、日常生活の中で電磁波を被爆する(こう書かれると、放射能の問題があるのでドキッとする)状況が説明されている。最後に、電磁波がもたらす危険性とその被害の確率を。

電磁波による影響は、送電線による小児がんの発症率(どれだけ田園風景がきれいでも、送電線の下には暮らす気にはなれない)ほど、まだ明確な臨床的な数値が出ていないのが現状のようだ。危険らしい、ある問題に因果関係があるかもしれない、というレベルだろうか。脳腫瘍の要因としても取り沙汰されているが。妊婦の流産、生殖能力に関しては、大きな問題かも。

明確な数値が出ていないというのは、電子機器が人々に普及してから(つまり、問題の要因が発生してから)、まだ年月が経っていないため、有効な長期による検証結果が少なく、論じるまでに至っていないということらしい。脳腫瘍の発生などの顕著な症状は、長年の使用によるものだといわれているからだ。「わからないから、不安が募る」。あのことと同じ状況だ。

電磁波を本当に避けようとしたら、先進国にはまずいられない。黙っていたって、無線LANの電波は飛んでいるし、電信柱からも出ているだろうし、部屋中にあるコンセントは十分な発信源だ。50数年前までは、電磁波なんていう目に見えない恐怖なんて存在もしていなかったろうに。

人類が今抱えている問題は、人一代以上のスパンの問題だ。環境ホルモンにしろ、放射能にしろ、電磁波にしろ、もし、生殖能力に異常を来すとしたら、それは何代にも続く話しであるし、いずれの症状発生のメカニズムの解析にも、何十年にも及ぶ追跡調査が必要であり、インフルエンザの検査のようにすぐわかるものでは無い。

今まで、これらの影について書いた感はあるが、実は光の部分もあった。冒険は、光の部分を見て出発する。だから、大海原で前進できるのかもしれない。人類の科学による冒険の危険度は、ますます上がっているのだろうと思う。しかし、新世界を発見するには、冒険が求められる。

それが勇敢なのか、無謀なのか。

冒険には、備えあれば憂いなしとか、石橋を叩いて渡るなどということは、無いかもしれないのだが、どうなのか、舵を切る前に考えたいところでもある。新世界に、幸せがあるか?というのも論じなければならない。人類は、新世界で新種のウィルスに大打撃を受けたという経験を何度かしている。

冒険を続けるならば、「わからない」ということを前提に、人類は意思決定を、行動決定をしなければらならない。

昔の偉い哲学者が、わからないということを知っていることも、大切よ、みたいな話をしていたような気がする。

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