ある説明会に行ってきた。久しぶりに、肩に力の入った皆様に囲まれた感じだった。
入った瞬間に、あっ、なんやら普段、自分が足を運ぶようなところとは、違う空気を感じる。大学時代はそうでもなかったのだが、「デジタルコンテンツ」というのを標榜する場所というのは、どうも自分に合わなくなってきているようだ。では、普段、どんなところにいるのかというと、デザインの世界といったらいいのだろうか。いや違う、デザインと言っても、様々ある。「もの」をつくることを目的としてはいなくて、その周辺に関することをつくろうとしている雰囲気のある場所と言ったらいいのか。
たまに、違う場所へ行くと、自分の立ち位置を確認できて、それはそれでいいのかもしれない。
12月に発表する新作の筐体のパーツを拝見してくる。今まで見たことが無いものが、そこにありまして、ちょっと数年後の未来を見た気分。「数年後」と言うのは、期待も込めて、こういうものがもっと日常的にあれば、新しい世界が見えてくるのではないかと言うつくり手としての想いもある。
このところ、PCなど目的意識が強いものでの表現の他に、ファニチャー系のアンビエントな表現にも心魅かれる。もともと、大学時代から、実はそういった企画は温めていて、当時は実現方法もわからなかったので、何も出来なかったに近い。世界を感じられるアンビエントな装置としての家具、日常品。情報デザインという切り口で、何ができるのだろうか。
わかった。何事につけて、「コンテンツ」とうか「デザイン」と言うかの違いか。
現在、取り組んでいる作品のグラフィックの形が見えてきたのだが、いわゆる興奮する形ではない。確かにそこにある、そういった形である。主張する存在ではないのだ。しかし、それが狙いであったりする。
「陰と陽」という言葉があるが、陰を形取ると、陽が見えてくる。情報を具現化する仕掛けにおいて、主役は情報である。情報が陽であり、それを表示するためのインタフェースは陰である。これから、世界の情報が入ってくる器を陰を持って、形づくる。それが、今、取り組んでいるデザインなのかもしれない。
その一方で、影絵は、影が主役である。影の形に、人は心を躍らせる。ろうそくの光にゆらゆらと形を現し、障子を通り抜けて光をこぼす、その姿を見ながら、人は昼の世界で自分が見た光景を描きつつ、夜の闇の中に新しい世界を描き出す。興奮しない形と上で書いたが、陰なるものも、人の心を躍らせる形であることも必要なのかもしれない。
Yen & Yanは、まるでスパイラルのように、陰と陽がお互いを追いかけるようにも見える。確か、2匹の龍がお互いの尻尾を追いかけるような絵もあったはず。陰と陽は、お互いの存在を欲しつつ、己を見出す存在なのかもしれない。その作用が生まれるような、陰をつくる。それが、情報の可視化における重要なデザインプロセスなのかもしれない。
陰か。そう言えば、昔、女の子に、陰が無い男は魅力が無いと言われた。
どうです?影をつくる男には、魅力はあるのでしょうか。