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ehpameral / Piana

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Pianaの新譜について触れていなかった。あえて、筆を取る。

自分は何か良いものを目の当たりにすると、作り手として悔しさを感じることが多い。自分も、もっとすごいものをつくらなければ。自分だって、もっと良いものを作れるさ、と。

しかし、Pianaの作品に、そういう感情を抱かない。むしろ、共鳴や共感するのである。聴きながら、そう、そう、こういう世界を自分も描きたいと思うのだと。自分の頭の中で、彼女の音によって広がる世界をなぞって行く。何か、それはある価値観によっては、つくり手として負けなのかもしれないのが、その負けを認めたとしても、自分はそこに、自分が求めているものがあるような気がする。

表現には「間」というものがある。間という、行間、静寂を得ることによって、表現は得てして表現できないものを表現できる境地を得る。しかし、その一方で、表現等は、その「間」をいかに具体的に表現するかという闘いも併せ持つ。「間」を表現することで、新たな「間」を生み出し、更なる高度な表現を得ていくのではないだろうか。

表現における「間」とは、日常において、いかなる存在なのか。と、疑問を呈しなくても、そこらに点在するものだとも言える。自分は、昔から日常に潜む狭間、路地を曲がった先にあるもの、そういったものに惹かれる。きっと、この街のどこかには、僕らがまだ知らない場所があって、それは、きっとどこかから入れる場所。または、日常と日常の間に緩衝材のようにある、美しく、そして儚く、怪しげな瞬間。それらを表現すること、それを自分は追い求めているのかもしれない。

人類は、何歩かわからないが、表現という上で少なからず進歩をしているはず。そして、その表現は複雑化を進めているはず。となれば、その表現は、これまでの表現では飽き足らず、新しい表現を求めているはずである。

Pianaの作品は、そういった新しい表現という可聴化をもたらしてくれているのではないだろうか。日常における間、いや、人が何かを捉えようと思う狭間にある、複雑な感情、それが可聴化されているのではないかと、自分は思うのだ。「複雑」とは、何か難解なものではなく、単純な一言では片付けられない脆い事柄。

自分は、Pianaの音を聞きながら、「間」を求めているのだろう。日常に潜む狭間を、路地からの誘いを、その音に感じているのかもしれない。それは、ホワイトホールのかのように、音界の中にいくつかも存在し、自分を誘う。そこに入ろうか、体を預けてしまう瞬間がある。しかしながら、ホワイトホールは、ブラックホールと表裏一体であると同じく、その狭間に体を預けてしまうと、二度と出てこられないのではないかという恐怖も感じる。それは、恐怖なのだろうか、日常を頑なに守ろうとする自分が恐怖と思うだけで、それは自然なことなのかもしれない。

Pianaというアーティストは、蝶なのかもしれないと思う。本人を良く知る人は、蝶というよりは、チョウチョと表現するかもしれないが。蝶は、ふと気がついたときに現れ、ひらひらと舞い、一瞬自分の目の前に止まり、自分を許してくれたかと思った瞬間、どこかに飛んでいってしまう。人は、その蝶の行方を追うが、その姿が消える方へと、ただ追いかけるだけ。蝶はどこかに行ってしまったが、その行方に人は心を奪われ、立ち尽くしてしまう。

自分は、彼女の音たちが作り出す、その行方に、日常の狭間、心と心の「間」を感じ、つくり手として、入り込まなければならない、その瞬きを見極めようとしているのだろうか。

ときに、自分は彼女の音を「粒子感がある」と例えることがある。どんなにかわいい子も、細胞の塊であり、分子の塊であり、その先は素粒子。その素粒子の結びつきが、さまざまなことでぶつかり合い、愛し合っている。と考えると、裸になるよりも、素粒子である自分たちを思うと、恥ずかしく思えるときがある。

なんだか、何か自分が透かされているように、思えてくることがある。このアルバムは、帰りの電車の中で聴いちゃいけない。自分の素粒子と素粒子の中に入り込み、自分という「間」を透かし始める。

気がつくと、僕は泣きそうになっていた。

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