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待つ

先日納品した映像に直しが入り、再納品することになった。スポンサーの関係で、よくクイズ番組の商品の紹介で、○○航空で行く旅というナレと雲海を行く飛行機の映像が流れるんだけど、そう言うのを素材で送るからインサートして欲しいとか、スポンサーのロゴを入れて欲しいとか、そう言うリクエストが来た。現在、素材待ち中。小さい頃、クイズ番組の商品の旅行の紹介を見ながら、毎回飛行機の映像を撮っているのかなぁと思っていたのだが、そうではないんだよねと後から知って、そうかそう言うものかと思ったのだが、自分がそう言う映像を編集するとは。

考えてみると、自分にはテレビに関して衝撃的な体験がある。ある日まで、自分はテレビで流れている映像は、ビデオカメラによって撮影されたものだと知らなかった。つまり、そこに映っているのは、自分の視点なのか、それとも他人の視点なのかも理解していなかったのである。

ところがある日、テレビを見ていると、インタビューで囲まれている人が背にするガラスに無数のカメラが映っている。え?もしかして、この映像は、この機械を通してここに届いているのか?と思ったとき、自分とテレビとテレビ局という図式がそこに出現したような気がする。メディアリテラシの第一歩と言いますか。これは、自分の中では結構衝撃的だった。

そう考えると、普通にテレビを見ている幼い子供たちが、テレビから得る情報の意味は、大人が得る情報の意味とは違うのではないかと思うのだ。それは、とても危険なことだなと思う。911のときに、何度もビルに飛行機が激突する映像を見て、子供たちが何機の飛行機が墜落したのかと不安がるという現象があったが、そういう風に子供たちが思ってもおかしくはない。なぜなら、彼らには映像を「再生」するという概念がないかもしれないからだ。少なくとも、自分はカメラの存在に気付くまでそう言う概念を持っていなかった(だろう)。

映像で語る。それは、結構恐いことなのだなと、改めて思う。

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