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無理矢理暦

オフィスのお昼に、土鍋でご飯を炊く。正確には、炊いてもらった。土鍋でご飯を炊くなんて難しいのだろうと思っていたら、意外と簡単なようだ。できあがりも、ふっくらと炊きあがり、おいしい。我がオフィスのADは、4杯もおかわりして食べていた。食欲の秋は過ぎ去りましたが、オフィスの料理コーナは充実が進む。


無理しているなぁ。

と思ったことがあった。

春先から興味があり、暦についての本を読んでいる。今の暦と旧暦の差に愕然とさせられる。

日本の伝統行事の多く、何かしらの季節感を持った祭事である。しかしながら、現代、旧暦の日付をそのまま今の暦、つまり太陽暦に持ってきているため、それらの祭事も、本来執り行われる日付から、2ヶ月ぐらいのズレが起きている。そのため、少々無理があるものもある。

例えば、正月明けに食べる七草粥。春の七草などと言うが、関東でもこの時期には生えていない。南か、ハウス栽培の七草を無理して食べることになるわけだが、本来は2ヶ月後の旧正月のころに食べるもの。と、考えると、野山や川土手に生えている草を摘んで、家で食べるというのが本来の姿なわけだ。自然と、もしかしたらポチの自然の恵みを受けた生命力が高まる春の草を食べると。

明治維新後、世界に後れを取るまいと取り入れられたグローバルスタンダードな暦。だが、そろそろ、無理をして、他の地域の暦を使うのは、考え直すときが来ているような気がする。

自分は、特にも季節を感じるだとかそういったセンサーが鈍化している人間だと思っている。これは、自分自身の問題であるし、自分が育った環境・社会の影響もあるだろう。しかしながら、その分、そのセンシティビティを取り戻さなければならないと少なからず思っている。

そのセンシティビティを担保するのが、日本の季節に関する伝統行事なのではないかと思う。日本の祭事というのは、土着信仰、精霊信仰という前に、センスウェアでありソーシャルウェアなのだと思う。あのお祭りが来るから、そろそろこうねとか。寒くなってくる前に、あの準備をしなくちゃとかとか。自分たちの行動と季節がつながっているということ。

欧米化、合理化という、他者のものさしを無理に導入した結果、本来のものさし、感ずるものが希薄になってきた。これは、日本に限った話ではなく、世界の各地域でも言えることではないだろうか。

と言っても、世界のみんなとやりとりする時代、暦が違ったら大変ではないかということになるのだが、考えてみれば、それをうまく吸収しているものがある。「世界時計」。機能としては単純ではあるが、世界の時差を見事に吸収して、地球の裏側の人がまだ寝ているかなとかを気付かせてくれる。

暦だって、時差を吸収すればいいのではないだろうか。

普段は、陰暦で、または太陽陰暦で。だけど、ビジネスの時には、アメリカの人と話すときには、グレゴリで。もしかしたら、どこかのネイティブな暦もあるかもしれない。そんなときは、相手の暦を意識して、メールを書いてみても良い。

世界の暦を本当の意味でグローバル化する。各地域の暦のズレが、恐らく地球の呼吸というリズムなのではないかと思う。

個人的には、朝起きたら、ケータイの待ち受けに表示されている二十四節気を基とした日付で朝の風景を見てみたいということなのですが。「バイリンガル」になっていて、グレゴリも併記されていれば何も問題がない。

テクノロジーというのは、こういう「余裕」をつくり出すものなのだと思う。正直言って、便利なカレンダーがなかったら、グレゴリ暦一本で行きたいと思うのが当たり前ですから。

デザインとテクノロジが、Earth Literacy を深めていくのだろうと、ふと朝焼けを見ながら考えた。


世界の朝焼け交換というデザイナ・クリエイタ向けWEBサービスを作ったら、悲しいけど盛り上がると思うのは、今日だけか。

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