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用の美

先日、東京都近代美術館で催されている「柳宗理-生活のなかのデザイン-」を観てきた。学生時代に、友人からその名を聞いたことがあったけど、当時は何にも興味を持たなかったのだが、プロダクトデザインに今日を持つ様になってから、その作品に答えを探ってしまうデザイナの一人だ。欧米の優れたベストセラーとも言えるデザイン作品と違って、彼の作品は、優雅ではあるが肩肘を張っていないところに、自分は親近感を覚える。恐らく、自分の部屋にも置けるという安心感があるのだろう。それと同時に、どこか懐かしい、暖かい曲線美。

「用の美」。柳宗理を語る上で、この美学は欠かすことが出来ない。この言葉は、もはや自分の仕事の中で大きなテーマになってきている。情報デザイン、インタラクションデザインという領域において、「用の美」というのはどんな形状をまとったとしても、芯にあるべき考え方である。

柳宗理が得意とした、または戦後の厳しい現場に於いて活路を見出した陶磁器の世界。この白陶磁器に、なんだか自分はUIの在り方を見出そうと、日頃考えたりしている。先日、本屋でたまたま出会った「白の消息―骨壼から北園克衛まで」も、民芸とも言えるような白陶磁器を中心に、骨董品を扱っている本だ。写真に惹かれて買った。よくあるね、でも、きれいだね、と言える形状。それは、本当に美しい。そして、それは美しいだけではない、機能としてもきちんと成り立っている。


機能が追求される機器、ITメディアだからこそ、「用の美」を見出さなければならないのだ、と自分は日頃考えている。

最近、納得いかないことがある。ケータイのデザインにおいて、グラフィックデザイナや建築家が持てはやされている。悪いことではないが、インタラクション、ゲームなどに精通したクリエイタが重用されるべきではないだろうか。先日、TOMATOがデザインしたケータイは気になるところ。普通に考えても、中村勇吾や西田幸司がつくるケータイインタフェースって、見てみたいと思う。無論、わたくしも、そう言った場所でお声がかかるように精進しなければならないのですが。


派手なデザインをつくることにあまり喜びを感じない。それよりも、生活の有り様を変える価値をそこに見出したいと考える。それが、生活だけではなく、文明も変えるようなインパクトを持つかもしれないという大きな可能性を抱きつつ。

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コメント (2)

うらら:

P703iμですね。最薄を持っていかれました。
敵ながら天晴れ。

機能美って素敵ですよね。
やはりケータイは1番身近な電化製品ですから、
ユーザビリティあってなんぼだと思います。

アラカワケータイ期待してます。
ぜひソニエリで採用されることを願って。

私も自分で欲しくなるよな製品を作り続けたいですし。

アラカワケンスケ:

アラン・ケイが日本の印籠を見て感心したそうだが、日本の携帯の機能の充実ぶりはスゴイと思う。

しかし、印籠のようなエレガントさが、まだまだ日本のケータイには無いのかもしれないなぁと思う。もっと、キュートでかつ様式美も兼ね備えたものになって欲しいな。

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