六本木の国立新美術館で催されている、メディア芸術祭10周年記念展「日本の表現力」を見てきた。オープン仕立ての美術館で、ガラス張りの壁面が気持ちいい。内部構造もおもしろく、閉塞感漂う重厚な美術館というよりは、開放的かつ未来的な雰囲気がある。外壁のガラス面とは対照的に、床や壁に使われている木材とそれを照らす照明が暖かさを持っている。
展示は、中世からの現代に至るまでの視覚表現などを時系列で見せたり、これまでのメディア芸術祭入賞作品のセレクト作品が一望できる展示。今、仕事で関わっていることで気になる作品があったので、ちょいと無理して足を運んだ。
漫画やアニメのコーナーは、否応なくとも人が立ち並んでいるのだが、メディアアート作品のところでは、作品毎に人の反応がまちまち。作品に主役的に参加すると言うのは気恥ずかしがあるから、作品形態によっても滞留している人の数も変わってくる。見ていると、人気の作品というのは、普段の自分の行為だったり、自分が経験したことがある行為もしくは記憶を掘り返す作品であるような気がした。確かに、自分が「なるほど」と感心する作品も、そう言った作品が多い。
先日、低解像度なインタフェースであっても、それがとても高解像度な脳の記憶とつながったとき、それはとても瑞々しい体験になるかもしれないと、ミーティングの中で思ったことがあった。例えば、高精細なデジカメの写真よりも、ローファイなトイカメラで撮った一枚の方が、そのときに空気感を捉えていると言うこともある。
昔の作品を見ながら思ったのだが、現代の自分たちは、とても様々な表現手法を広いレンジで持っていて、その中から適切な表現方法を選択できる自由と苦悩があるのだと思う。実際問題、その苦悩の中に、自分はものづくりとしての喜びを感じているところがある。
今日、印象に残ったのは、「明和電機を見て育った世代」。確かに、明和電機以降とそれ以前では、確かにメディアアート、現代美術はスイッチされたところがあるような気がする。それは、デザインにおいてもかもしれない。
と、いろいろと考えた展示だったわけではあるが、美術館に着いて早々自分を迎えてくれたのは、とても切れない夕日だった。空ほど、巨大で繊細なインタラクティブなものはない。