「そのままの君が美しい」
と、言われたら、女の子としては褒め言葉と捉えることができるのだろうか。正直言って、そう思ってもらえるか自信はないが、自分にとっては、それは褒め言葉だったりする。あまり化粧の濃い子は好きじゃない自分だったりする。
もちろん、見た目だけではない。性格も、変に飾らない人の方が良いじゃないか、とも思う。ちょっと不器用なぐらいの方が、いやいや、素朴でその人の本当の姿が見える人の方が良い。
だけど、そのまま、自然のままでいることは、難しい。時には、「そのまま」、「自然のまま」というのが何であったかを人は忘れてしまうことがある。
それは、街もそうなのではないかと思う。
友人から、北海道の「水曜どうでしょう」のWEBに岩手のことが書いてあるからと知らせが届く。早速、見に行くと、ディレクタの日記の文章なのだが、これまた名文が。残念ながら、既に更新されてしまって見られないのだが、そんなこともあろうかと、保存していたので、それを引用しつつ。
10月16日、週があけまして月曜日。藤村でございます。さて先々週になりますが、岩手で地上デジタル放送がスタートしまして、そのイベントにわたくし呼ばれました。
「岩手未来博」と題した、「岩手を見直そう」「岩手を積極的にアピールしよう」というようなイベントで、私は開口一番「岩手はアピールする必要なし!」「むしろ黙っててほしい」と言ってしまいました。
おぉ、なんと面白い話の展開。ここで、心を捕まれてしまった。
岩手は北海道に次ぐ日本第2位の広さを持つ。そのくせ盛岡以外にたいして大きな街がない。だから、これといって思い浮かぶものがない。だから、「行こう!」という強い動機が生まれない。岩手は、観光するのにつかみどころがない県だ。でも、三陸海岸に出れば魚が美味い。山の幸も豊富。なにより餅文化が浸透して私好み。
こんな土地、人には教えたくない。「岩手ってなんにもない」。そう思わせておけばいい。旅の一番の楽しみは、人に知られていない、自分だけの「心地の良い場所」を見つけることだ。だだっ広くて、なんにもない岩手は、だから旅をするのに最も心くすぐられる土地なのだ。
こういうのって新発想だなと思いつつ、でも、本当においしいと思っているお店は、人には教えなかったりするものだ。だって、噂が広まって混んでしまったら、自分が好きなときに行けなくなってしまうから。隠れた名店というのは、そういうものだ。
岩手はこのままであってほしい。「岩手をアピールしないでほしい」。黙ってても、いや、黙ってるからこそ人を惹きつける、岩手はそういう場所なのだ。
「このままで」あると言うことが、なんと難しいことか。そのままの、つまり「素」のままの美しさを持つ人だなと思っていて、次に会ったときにメイクが濃くなっていたら幻滅してしまう。と私は思う。
生まれ故郷である盛岡・岩手ではあるが、正直言って、日本の様々な土地と比べたら派手な観光資源という観点で言うと、厳しいと思っている。おまけに、最近は古い建物が壊されたりして、どんどん観光資源が無くなり、中央のコピーが増えている。そんな中、本当の盛岡・岩手の資源って何だろうか、宝って何だろうかと考えると、それは「自然」であり、「自然である」ことなのではないだろうか。何を今更と言われるが、本当に「自然」は財産である。そして、取り返しの付かない有限なものである。だけど、恵まれ過ぎていると無限だと錯覚し、消費してしまう。
夜、盛岡の街へ出ました。繁華街は思いのほかコンパクトで、きれいに整っていた。街には2本の川が流れている。サケが上ってくるそうだ。
「県庁所在地でサケが上ってくるのは、札幌と盛岡だけ」
なんともいい街だ。
最近、人に、盛岡はサケが遡上するところだと教えた。それも市役所の裏にと。東京生まれ育ちのその人は、とても驚いた。奇跡ではないけど、奇跡的なことが盛岡では毎年起きている。枯れ木に花咲くよりも生木に花が咲く方に驚くべきであり、それを大切にしなければならない。
先日、訪れた街でちょっと困惑したことがあった。キレイな川だと橋のたもとから、その景色を眺めていたのだが、川沿いにある家から、白い泡ぶくの液体が乾いた溝をたどって、透き通った川に流れ込んでいっていた。清らかな川の流れは、その泡ぶくを溶け込ませ、何もなかったように、いつものように流れていくのだが、自分は、見てはいけないものを見てしまったような気になった。
確かに、その「とき」は、自然が包み込んでくれて、許容してくれたように見えるかもしれないが、許容されないときが必ずや来る。自然は無限である、何でも許してくれる。そのようなことはあり得ないのだ。産業廃棄物を不法に捨てる輩など、本当に厳罰に処すべきである。
もしかしたら、自然があるから、いろんなことをできる可能性があるのではないだろうか。人を育み、土地に多くの潜在能力を持たせてくれる。意地になっても良いのではないかと思う。最後まで頑固に、自然を守り抜くべきではないか。それが、最後の宝であり、砦であるから。
と言って、古い生活を強いるわけではない。自然と共生する新しい生活だってある。それこそ、人類の英知がそこに結実すべきところである。一度、人類はしゃがんだ。そこから、どう跳躍するか。自分たちは、今、それが問われている。
盛岡に住む若者と対談のようなこともしました。帽子屋の男、藍染をやっている男、ほとんどプータローでDJやってる男、ライブハウスを開いた男、そしてカフェをやってる女性。
何人かは東京へ出て、盛岡に戻って来たそうだ。「今、東京から逃げてきたって言ったけど、本当にそう思ってる?」
「うーん、どうだろ」
「東京じゃなくて、盛岡の方が好きだから戻って来ただけなんだろ?」
「本当は、そうですね」
「『逃げてきた』っていうのは、世間的にそういう言い方が一般的だから、自分もつい言っちゃったんじゃないの?」
「まぁ、確かに」なぜか今でも東京から戻ってくると、何かに負けたような印象を持たれる。でも、例えば「盛岡で初めてライブハウスを開いた男」の話。オープン当時、人前で演奏できるバンドは、盛岡に9組しかいなかったそうだ。それが今、50組になった。彼がやったことは、東京でライブハウスをやるより、もしかしたら難しいことだったかもしれない。
ずらずらと引用してしまったが、その通りではないかと思う。
盛岡という田舎町で、彼らは何をすればいいのか?「例えば、カフェと雑貨屋をやってる彼女。カフェや雑貨屋なんて、多分、ほとんどの女の子がやりたい仕事でしょ。誰でも一度はやってみたいと思ってる。それをあなたは、今やっているわけだ。だったら、あなたが盛岡ですべきことは、カフェをやりながら幸せに暮らすことでしょ。盛岡で雑貨屋とカフェをやりながら幸せに暮らす。それさえすればいい。東京の人は、そんなことされたら絶対にかなわない」
別にカフェをやってない奥さん方だって同じ。盛岡で、岩手で、自然にあふれた環境の良い街で、幸せに暮らす。それさえできれば、誰もあなたたちにかなわない。そんなあなたに余裕があったら、チェーン店のファミレスではなく、盛岡でカフェをやってる彼女の店でお茶を飲む。メジャーのCDを買うのを1回やめて、盛岡のバンドのインディーズを一枚買ってみる。盛岡の若者が手を真っ青にして作ってる藍染のTシャツを1枚買ってみる。たったそれだけで、彼ら、彼女は幸せに暮らし、外にアピールしなくても、いつのまにか盛岡の文化が育っていく。
ここまで、こういう率直な言葉で語られると、「そうですよね、確かに」としか言いようがない。こういうことをさらっと言う人が、あの化け物番組を作っているのかと思うと、納得する。
自分が東京に出るときに、実はその他の候補地として、沖縄(那覇)と札幌があった。札幌は、クリエイター支援が進んでいたことと、どうでしょうのミスター(鈴井さん)の影響もある。一時期、本当に弟子入りしようかと思ったぐらい。
こういう考え方を持ったスタッフがいるから生まれた地方番組なのか、そして生まれたムーブメントなのかと思うと、納得してしまう。
自然であること、そして、そのままであること。これが本当の文化を創り上げる要素なのかもしれない。最近、厚化粧な話が多いような気がする。盛岡には、素肌美人になって欲しい。そう思うのだ。本当の美しさとは、内面からにじみ出るものとも言える。
今日、「アラカワさんは、いつまでの期限付きで?」と言われてしまった。偉そうなことを書いているが、今自分は盛岡には住んでいない。自分は、この葛藤を抱えながら、今日もまた、東京で丁稚奉公、出稼ぎをしている。
だから、ちょっと遠恋気分なんだ。あの娘があのときのままでいて欲しい。あの透き通るような肌で微笑んでいて欲しいと思うのさ。
コメント (1)
おひさしぶり。
この文章、いいね。
じんわりと岩手の風景が脳裏に浮かびました。
投稿者: kaname_ito | 2006年10月19日 13:14
日時: : 2006.10.19 13:14