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かわいい

何でもかんでも「かわいい」と表現するのに、自分は最近、嫌悪感を感じている。前までは、そうでもなかったような気がするのだが、このところ、そう感じることが多く、何か自分の中で変化があったのだろうかと、ここ数日考えていた。

問題なのは、「かわいい」と言わず、本来装飾されるべき言葉を自分自身も、持ち合わせていないことである。「かわいい」とは、別にかわいいわけではないらしい。ただ、「良いな」ということを表現するのに、「かわいい」なのである。だから、本来は、別な表現で装飾されるべきなのである。その一方で、ものを見たときにどんな基準で「かわいい」と発せられるかと言うところも、自分の中で捉え切れていない問題点でもある。

朝、早く目が覚めたので、テレビのチャンネルを回すと朝ドラの「純情きらり」がやっていた。母亡き後、実家の老舗味噌工場を継ぐかどうかで揺れるヒロインを演じる宮崎あおいを見て、きれいだぁと思ってしまった。この間までは、彼女に対する自分の中の装飾は「かわいい」であったのに。そのとき、何かすっとわかったことがあった。

少々話がまとまっていないが、「かわいい」から「きれい」への変化。どうやら、それが自分の中でのある基準の変化のようである。では、自分の中での「きれい」とは何か。自分の美的感覚をえぐるようで気持ちの悪い作業ではあるが、自分が、それを「キレイ」だと思う瞬間に得る印象とは何か?

どうやら、それは存在感らしい。さらに言えば、凛とした存在感。ごったの中にあっても、確かの存在感。それが、それである理由としての形状。その形状から誘われる行為と、そしてそれを果たす機能。それを見つけたとき、自分は「きれい」と思うらしい。自分の中では、それは「かわいい」ではないようである。

と思ったら、人が「かわいい」と言っているのも、気にならなくなった。なぜならば、それは自分の「キレイ」とは違うものであり、自分のものを見る視点とは違うわけであるから、自分のものに対する視点を浸食してくる脅威では無くなったからである。

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