今年もCandleScapeの制作に携わっている。今回は、大幅なリニューアルを遂げることになり、それを含めて、いろいろなデザイン的な課題、技術的な課題に取り組んでいる。CandleScapeは、これまで培ってきたものがあるので、公開するといろんな反応が返ってくる。その分、やりがいもあるし、責任を感じる仕事だ。人々からフィードバックがある仕事ほど、幸せなことは無い。
MacBookが出た。欲しいラインではあるが。重たい。2Kgを切っていれば、購入を検討したのだろうが、この重さでは持ち運ぶ気にはならず。落ち着いたら新しいノートPCを、と思っているのだが、この調子だとVAIOのRシリーズになりそう。相方も、こっちに引っ越してきて、盛岡に長期滞在することもなくなったので、ノートPCは大画面系より、軽いので十分。さすがに、今のノートPCは重たいし、液晶がかなりへたれてきてデザインワークに使えなくなってきている。買い替えは、どうしたものか。
でも、黒いMacBookはカッコいい。
今年の後半のスケジュールが大幅に変わり、そして同時にエキサイティングなものに。どうやら、座学よりも実践だ!と言うぐらい、実際にモノを作ることが増えそうだ。そのうち、プロトタイプクリエイタなどというネーミングが付きそう。
ちょっと、表層的な話を書く。最近、CandleScapeのことを思うと、電気を消そうというプロジェクトなのに、僕らはどちらかというと電気を使って表現をする。だから、キャンドルナイトの展示を…と考えても、プロジェクターを使って…と考えてしまう。これでは、本末転倒ではないか、と思ってしまうのだ。確かにこれは、本当に表層的なことであり、電気を消してキャンドルを消すことと、CandleScapeをつくり、それにみんなが参加することは同じことなのである。それは、大きくは深層で繋がっていることである。
自分でも、話の整理が付いていないのだが、その表層的なことと深層的なこと、これがいかに絡み合っているのか。突っ込んで書けば、そういった表層と深層と言う別レイヤの話が絡み合い、誤解を生んでいるか。そんなことを思うときがある。
その誤解を解きほぐすぐらいの力を自分は持っているのか。話は、そこに進んでいくわけではあるが。
最近、「気配」を感じるインタフェースなどと言う話をしているのだが、相方が出かけた部屋に帰ってきて、自分のご飯の準備をしながら、これは相方が出したろう物だろうかとか、このように置かれているからきっとこのように使ったのだろうと想像しながら、同じものを時間を超えて使うと言うのは、ひとつの「感じる」ということなのだろう。気配は感じるのではなく、察知するのではないだろうか。察知と言うと、なんとも「探す」という意味合いが強くなるが、情報を感じた上で、それを認識し、そこからイメージを膨らます。それが察知ではないだろうか。