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2006.02.16

マイはし

via! 流れる雲を友に : 斎藤純

盛岡市菜園のクッチーナでは、マイ箸持参だと生ビールの中ジョッキを1杯サービスしてくれるそうだ。こういう思いきった試みを取り入れるお店をどんどん応援したいですね。

学生時代、インディーズ映画の撮影でお世話になったクッチーナさんが、こんな取り組みを始めたらしい。良いですね、こういうの。

同じく、いろいろとお世話になっているブランカフェ04も、マイはしとかマイ弁当箱への割引サービスをしている。

もしかしたら、こういうお店が他にもあるのかな。こういうのをまとめたサイトがあるといいなぁと思いつつ。というのも、同じお金を払って食べるのだったら、こういうところに意識が高いお店を選びたい。これが、結構本当の気持ちだったりしている。

そういえば、昔、こういうのを集めたケータイサイトをしたいって、ブレスト的に話したことがあった。ちょっと、ニッチだけど、大切かもしれない。

移動間における希薄感と裕福度

sh-mobile-lab.の最終ワークセッションがあり、遅れ気味で参加する。行くと、なにやら面白い議論が。

その中で、地方出身を誇示する自分としては、おもしろい話が。地方の郊外型のSCが、主幹道路のイクスチェンジ周辺などに出店され、人々が「街」の商店から、郊外のSCに車に移動することで、移動間の時間の使われ方、行動の仕方が変わってきている、つまり、プロセスがこれまでの街を歩くから、ドアtoドアが強まり、その道中もiPodなどの移動体端末を用いることでメディア空間になり、街を移動している感覚が希薄になっているのではないかという話がメンバーから出ていた。加えて、これがGoogle的な検索システムによる、すぐに情報が出てくるという情報空間の流れと密接につながっているのではないか?と。

個人的には、すべては納得できる話ではないなと思いつつ、移動間の身体感覚、情報感覚の希薄化。これは、軽視できない問題であると思う。しかし、その一方で、自分の感覚として、地方における移動間が希薄化しているかというと、そうでもないと思うのである。

実家に帰った際に、車で郊外店に出かけることがあるのだが、道中の風景の変化などは、いつも刺激的であるし、自然が豊富な岩手では、その風景自体がある意味エンターテイメントであって、希薄な間ではないと個人的には思っている。もちろん、そんな風景に興味が無いという人には、退屈なひと時かもしれないが。いっそ、東京で地下鉄に乗りながら移動しているほうが、希薄間を感じる。六本木から青山を通り、渋谷に出る。これをバスで体験すると、まったく違う東京像が見えてくる。地下鉄では、街の風景はブラックボックス化。それこそ、どこでもドア。

郊外のSCの進出の話には、中心街の商店街の衰退化なども密接に関係している。商店街で買い物をするということは、その道中も、過程も、行為であり、なんとなく流れる風景ではなくなる。少なくとも、盛岡の街を歩くだけでも、多くの気付きが日々あるはずだ。

街の文化度、裕福度(ここでは文化的な、文明的なという意味で)とは、移動間の刺激度なのかもしれない。もちろん、その刺激に対して、チャネルを空けている五感と処理能力を僕らは、持ち合わせていなければならないのだが。

このところ、東京からもmi:mに投稿ができるようになったので(まだ公開準備中)、何か投稿できる、面白いものが無いかと、移動間は街の風景に興味津々。これは、散歩をするときに、カメラをぶら下げているか、いないかの感覚の差に近い。カメラを持っていると、いい写真を撮りたいなと思い、いい風景をより求めるようになる。すると、幾ばくか、自分の目の解像度が高くなるような気がする。あれ?こんなのあった?と多くの気付きがあるのだ。

mi:mやユビキタスミュージアムの持っている面白さというのは、そういった気付きを発信し、それを後に共有できるところである。

本当は、僕らはもっと、時間と空間を味わいながら過ごすべきなのではないか。そのための装置、それが今、僕らがつくっているものなのだろう。