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植物型と動物型

昨日は一日中ミーティング。このところ、一日にミーティングを3,4本こなすのが多くなってきている。むしろ、詰め込んで、作業デイをきちんと確保というのが自分のスケジュールになってきている。

今日は、昨日と打って変わって、集中して作業。FCSの基礎をマスター。といっても、サーバとの通信の仕方を最適化しなければと、次の課題が見えてくる。


動物型か植物型か、ということを本を読みながら考えていたのだが、そのときにふと頭の中に浮かんだのが、安曇の「tail」という六感アパートメントで発表したショートフィルム。しっぽ(病院のチューブという感覚)につながれた主人公たちは、食べること(栄養摂取)には困らないが、活動範囲がかなり狭まれた生存を強いられる。その食べることの保証を捨てれば、自由な活動範囲を得ることができる。しかしながら、その自由は、エデンの果実のように、危険を孕んでいる。

そんなストーリーであるのだが、植物が隣の植物を意識しながら成長し、お互いの共存を図ろうとするコミュニケーションを取るという点で、また、隣同士のしっぽにつながった登場人物の二人が仲良く暮らしているという点で、上の構図に通じるところがある。彼らは前後してしっぽを取り自由となるわけだが、その瞬間に、「隣」という関係性を失い、「他」となっていくというのは、属地性というのを脱ぎ捨てようとしている動物型社会モデルを推し進めてきた人類のひとつの姿なのかもしれない。

一方で、映画における「しっぽ」というのは、植物に例える根っこでは無いと言える。根っこというのは、光合成という自ら栄養素を生み出す活動の素になるものを得る器官であり、隣とのコミュニケーション、または隣とのコミュニケーションによって全体をとらえる器官として考えるのであれば(つまり、P2P的通信)、映画の中でのしっぽというのは、形骸化した根、または既に形を変えた拘束するためのツールなのかもしれない。属地性というのを提供しているようで、それは動物性を押さえ込むための、動物型からみた植物型への支配的行為なのかもしれない。

なぜ、地方に生きるのか、そして、人はそれを望むのか。なんとも、その答えは、植物型というモデルに、大きな答えがあるような気がする。昔の人は、田舎に住んでいたからといって、世の中の大局を知らなかったわけではない。メディアが発達し、海外の細かいネタを知っていたとしても、大局を知らないことが多い。そう考えると、植物型による社会モデル形成というのも、大いに可能性があると思うのだ。

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