:: katomaxblog | あなたにとって景観とは何ですか? ::
Oさん「人のくらしぶり,営みが見えてくるところ」 Sさん「視覚だけではなく,五感で感じるもの」 Nさん「生態系の総和。好ましい景観は,好ましい営みから生まれる」金曜日(18日)の傍聴した都市景観シンポジウムでの,コーディネータの振りに対する三人のシンポジストの回答です。
確かに、新しい景観の捉え方かもしれない。
例えば、盛岡ならば岩手山の見晴らしを守らなければならない、というようなとても視覚的なところから、建物の高さの制限をするが、なぜ、ならざるべきなのかという根拠が、視覚的な論点では欠如している。
深く掘り下げてくると、宗教的になって自分も語るべきか戸惑うが、山を見る、または山に見守られている感覚というのは、山を信仰の対象とする古くからの伝統を継承しつつも、山というインタフェースを通して、自然を感じるということでもある。つまり、季節感を感じるということである。
岩手山は、別称「岩鷲山」とも呼ばれる。これは、雪解けのシーズンに岩手山に残る雪が、まるで鷲のシルエットのように残るからだ。これは、栗駒ヶ岳の馬型にも通じること。こういった自然の移ろいを感じるインタフェースが高層建造物によって失われる。こういったことが恐ろしいことなのかもしれない。季節感を感じ、それを日常のタイムスパンの中で当てはめていくというのが、とてもサステナブルなアプローチだと思う。
景観は,もはや行政が予算を付ければ付けた分だけ成果が上がるというような類のものではなく,私達自身で何らかの合意や行為規範を生み出して実践していかなければならないという了解が前提にされているとても良い議論の導入だと思います。
観光とかいった外的視点ではなく、私たちの日常における感覚として景観が語られていかなければならないというのは、同感である。日常というのは、何らかの合意によって形成される調和だと思う。調和がないと、それは喧騒を生む、非日常的なものになってくる。観光とは非日常では在るが、街の中に点在する観光等は、日常の積み重ねによる個性だと思う。盛岡にディズニーランドをつくるのならば別であるが、盛岡的な観光というのは、日々守られ、育てられていくものであると思う。
日々守られていく観光的な魅力は、日常的な魅力であり、そこに住む人たちにとっても、魅力的だと思う。
この話、多分、尽きない論点だなぁと思う。秋田の番長、26日、こういうネタでも語りましょう。