今日の六本木は、やけに警官がいるなぁと思ったら、プーチンが現れていたらしい。
こんなに、つくっていたんだ。
先日、後輩に会い、東京に来てからの仕事をまとめて紹介してみた。話し終わった後、自分で、良くもまぁ、こんなにつくっていたとは、と驚く。大学卒業後の自分ではあり得なかったと思いつつ、さて、今年の締めに取り掛かろうかと、気を引き締める。
新作の音の打ち合わせを詰める。何を僕らは目指しているのかという、少々コンセピチュアルな話をしたのだが、その中で自分の口から出てきた言葉は、「皮膚感覚」、「触れる音」、そして、どこかで聞いたことがある新しい音、だった。こんなことを言われて、果たしてわかってもらえたのか、自分の表現力の無さに不安を覚えるが、実はここに、最近の自分が抱えるテーマがあるように思える。
ここでは、音と言ったが、置き換えれば、それは、自分たちがつくるべきものの「在り方」自体のことなのだと思う。自分たちがつくっているものは、技術的に詳しくない人から見ると、とても難しそうに見えてしまうものが多い。それをもっと、身近に、日常雑貨的なところまで親しみやすく持ってくる。下手をすると、技術的なところが先行してしまい、人を圧倒してしまう。圧倒されては、使う人のセンスが出てこない。そこに、余裕が無ければならない。
機械的なものと使う人の間には、もっとやわらかいインタフェースが必要ではないだろうか。質感が伝わってくるやさしい感じ。それを感じ取りながら、使い手が自分のセンスを刺激されつつ、自分の持っているイマジネーションをそのものと作り上げていく、または、そこに預けていく。
ふと、このことを考えて、頭に浮かんだのは、お茶の器だった。器は、確かにそこにおいて必然的な存在ではあるが、その器の存在に気付くのは、お茶を味わい、一息を付いてからかもしれない。器を口につけ、そのアプローチのやさしさ、お茶の温かみをゆっくりと伝える器の厚み、手触り、そして、その器が持つ形としての優雅さ。この流れの中で、人と器の関係は、ある一瞬において自然でありながら、ダイナミックな関係を持つ。その段階を経て、器の機能を包含した、器自体の美しさをゆっくりと現していく、その奥深さと、あえてもう一度使うが優雅さが「在るべき」インタフェースの在り方なのだと、改めて感じた。
自分を前に前にと押しやらないで、一歩引いたところで魅せる在り方、それが今自分が求めているデザインの姿なのだと思う。
と、言いますが、一個人としては、一歩引いていてはダメなときもあるわけで、さてさて、どうしたらいいものなのか。
「てくり」第2号が発売らしい。楽しみ。
今週末の盛岡は、熱い。Pianaライブ、ポルテ完成上映会、そしてA&T東北2005。