ゆずか
このポン酢、おいしい。焼きナスにかけて食べた。
なんやら、安曇のBlogがわたくしのネタが書いてあったので、トラックバック。
sakura scape のコンセプト文章。
インターネットは個人中心で自立分散の構造を持ちながら新たな形での集合性と公共性を実現しうるメディアです。地球を歩くモーバイルな“グローバルセンサー”たちが、それぞれの場所での経験を共有しあうことでケータイは「コミューナル」なメディアにもなりうるのです。”Inter-active”が集積し共鳴しあってシナジーを起こす”Syn-active”な社会的プラットフォーム(ソーシャルウエア)のデザインです。
それを安曇が、「翻訳こんにゃく」してくれると。
とのコメントがあった。 これまた平たく言うと、 ネットって言うのは個人主義的な空間だけれども、 現実に生きている僕たちは、それぞれがケータイというオモチャを持っていて、 それを楽しく使わせることで、 個人主義的なインターネット空間にも「たまり場」的な場所ができあがるんじゃないの? ちょこっと作ってみたけど、どーよコレ?
ってな感じでしょうか。(違ってたらごめんアラカワ)
そうそう、そういう感じです。
現代において、個々の存在というのが強くなってきていて、いわゆるムラ的な感覚が薄れ始めているが、その一方で僕らは、そのムラ的な感覚を求めているところもある。例えば、mixiなど。人というのは、なにやらそういうのを求めるのが本能なのかもしれない。猿が群れを成すように。
個の発信が全体の様態に影響を与えたり、その逆で、全体における個の存在を確かめることもあり得るのかもしれない。
難しい文章書くようになったよなー、と改めて感心。 昔から横文字が好きだったけど、社会に出てさらに加速したって感じ。 それは彼が伝えたい相手が、僕ら飲み友達からハゲ頭のおっさんまで広がった結果なんだろう。多くの人に何かを伝える時って言葉を選ぶ。
語り口の方がいい時もあるし、スンゲーかしこまった方がいい時もある。俺の留守電に変な声を相変わらず残す荒川健介が
ちょっとカッコ良さげなことを書いていたので、軽く誇らしかった。
ちなみに、この文章を書いたの自分ではないと言うところに、荒川の確信犯的なところがあるけどね。書いたのは、プロデューサーの竹村先生である。
とは言え、このところ仕事で会う方々は、10歳は離れていることは当たり前。そんな環境で活動していると、なんやら変化が起きるのでしょう。
安曇のBlogに書かれていたとおり、先日、映像制作に興味を持ち始めて、制作を始めた高校生たちに会った。
今日、気付くと僕の部屋には4人の高校生がいた・・・
えーと、沢野さんの日記にも書いてあったけど、
前回の映画祭の噂を聞きつけた高校生と、今日会うことになっていたのだ。
といっても俺は呼ばれた側だけどねてっきり一人かと思ったら、制服が4人。
荒川と話をしていた。
詳細は、安曇のBlogに譲るとして、彼らと話した後に感じたことを。
彼らは、私立高校に通う高校生で、ビデオ写真部の、部員になるらしい。ケガなどがあり、運動部を辞めた数人が、中心的メンバーの呼びかけで集まって、映像制作を始めたそうだ。手始めに、ローカルの民放の高校生対象のCMコンペに出品したらしい。ただ、機材が学校にないため、小さいハンディカムで撮影し、ハンディカムとビデオデッキの間でダビング編集を行ったらしい。BGMも、「伊藤家の食卓」で見た裏技を使ったりして、アフレコしたらしい。自分の小学校の頃を思い出した。そうやって、校内で流すテレビ放送の編集をしたものだ。
安曇を交えて、いろいろ話したのだが、人はいるのだが、機材が無いのはつらいなぁという話になる。映像は、機材が無いと、やりにくいところがある。乱暴な言い方をすると、ある程度までは、機材がものを言う世界でもある。
映像作品をどうやってつくったらいいのか、機材が必要だけど無い。自分も、そういう問題にぶち当たってきた。当時、いろんな方の支援で、その時、その時で様々な機材をお借りして、制作することができてきた。ありがたい限りである。
そういう体験を通して、次世代の才能を発掘するためにも、パブリックに使える映像制作やコンテンツ制作の機材を使える場が必要だと思ってきた。仙台のメディアテークなどには、そういった環境が整えられていたりするが、盛岡にはそういった設備はない。放送部が強い高校などには、機材が予算化されて整えられていることが多いが、一から始めようとする、上の高校生たちのような場合、家庭にある機材などに頼ることになるが、撮影ができても、編集する機材は無いことがほとんどである。しかし、そんな状況にある彼らの中に、将来があるクリエイターの原石がいるかもしれない。機材を集めることにエネルギーを消費しないで、作品をつくることにエネルギーを注いで欲しい。パブリックに、ある程度に機材を提供してくれるプログラムが必要だ。
実際問題、自分のように、長い間、制作活動をしていると、お古の機材というのが必ずある。画質が悪いけど…、処理速度が遅いけど…、とりあえずは使えるよ、というものが。それを何らかの形で、みんなに利用できるようにできないか、ちょろちょろと考える。
その時に思ったのが、スタジオ+コミュニティスペースとしての町屋プロジェクト。これがあれば、自分の古い機材などを置いておいて、オープン時間は使えるようにするとか、そう言うことができるなぁと思った。
自分が闘うべきことの一つに。広い意味で、自分の後輩たちには、自分と同じような苦い体験をさせたくないと言うことがある。すべての若者は、様々な原石であり、その原石を磨ける環境をつくることが、上の世代の責務である。
今、自分は、その責務を強く感じなければならない歳になってきたのだと、改めて思った。