人と話した会話を電車の中で思い返しながら、人というのは、歪んだ体験を記憶として飼いならすか否かが、ひとつの分かれ目になるのではないかと考えた。少年期の恋愛、友情、社会との出会い、そんな体験の中に少なからず、歪んだ体験が少なくともひとつはなかっただろうか?今思えば、何でそうなったのか、不可解だが、間違いなく、そこに自分はいた。そんな記憶、無かろうか。
そのような、言い方を変えれば忌まわしい記憶を、どこかに葬る人、その記憶に悩まされ、それに堕ちていく人、そして、その記憶を飼いならし自分の独特の世界につなげていく人。人には、その三者があるのではないかと思える。
そう考えると、結構、自分には歪んだ体験があるような気がする。その歪んだ体験が記憶となり、自分の思考、世界観に大きな影響を及ぼしている。
夏に、自分がお手伝いする「岩手県公会堂アートショウ」の実行委員会があって、そこで、初めて自分が設置する"CoToToRe"の全容が明らかに。しかしながら、その場にいたメンバーは、半信半疑だったらしい。どんな作品かをすべてここで書いてしまったら、夏休みの楽しみがひとつ減ってしまうので、野暮なことはしないが、これまでのようなケータイとプロジェクションを連動させた作品になる。しかしながら、そこにいたアーティストを含むメンバたちは、ケータイから送ったメールが何で画面に表示されるの?と言う感じで、実際にものを見てみないと信じられないと言う雰囲気だったらしい。その場にいた相方が、代わりにいろいろと説明をしてくれたそうだが、とにかくみんな信じられなかったらしい。
稀代のペテン師を演じてみましょう。そうしましょう。
再来週、mi:mのフィールドワークも兼ねて盛岡へ。実行委員会に何とか出席できそうなので、みんなを驚かせてきます。
と言って、いつプライベートワークするの時間が取れるのだろうか。スケジュール帳よ。