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「触れる」と言うことは、人にとって何かを認識、理解する上で重要なことのなのかも知れない。

なんだか、彫刻に今週末は縁があるのか、二つも彫刻の展示を見た。どちらも、屋外展示だったので、どの彫刻にも触れることができた。大理石などでできた作品ではなくて、御影石などどちらかというと頑丈な素材でできた作品たちなので、触れることができたのだろう。作品によっては、触ることのできない作品も多いので。

たいてい、美術館などに展示されている作品というのは、触ることができない。絵画も然り、立体作品も触ることはできない。しかし、いずれの作品も形があり、物質であるから触ることができるものであるはずだが、触らせてもらえない。油絵の具のボコボコの感覚を実際には感じることはできないのである。

でも、触ると言うことがすべてではないときもある。触れると言うことを禁欲的に捉えている場合もある。題名は忘れてしまった映画なのだけど、愛撫のとき、一切相手の体に触れずに、手をかざすように相手の体を撫でるという、何ともエロティックなベッドシーンが出てくる映画があった。触るという意識が、実は重要なのかも知れない。

本来、形のないもの、または手に届かないものも、触れられるようにするということで、親近感を覚えると言うことがある。例えば、キリストの像やマリア像、仏像などは、本来は、崇拝対象は無形であるか、または手が届かない、または触れてはいけないほど神聖なものである。しかし、像を造ることで、実際に自分の手の中に置き、触れ、そして敬い、崇拝すると言うことで、彼らと一体化できるという感覚を得ている。それが、崇拝対象をより身近に感じることができる感覚を植え付ける重要な装置になっているような気がする。

人にとって「触れる」というのは、無限の世界において何かを理解する、または無限の世界において自分の理解できる世界を広げる(実に有限な世界ではあるが)のに大切な行為であり、意識なのかも知れない。孫悟空も、お釈迦様の手に触れたことで、世界においての自分の小さな存在に気付かされた。

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