ゼミ公演が始まりました。ということで、げそげへレッツラゴー。
情報誌のイベントコーナを見ながら思ったのが、WRISTBAND.JAPANの全部演劇人で作った自主制作映画という売り文句は、それっておもろいのか?ってことなのである。むしろ、それは宣伝的に、いや一般的におもろいんか?ということである。演劇系の人たちやこれまでに盛岡に自主制作映画を作ってきた人たちにしか、目が向いていないなって思う。
微妙なニュアンスな話になるので誤解が生まれるかもしれないが、本当は演劇をやりたいんだけどやれないから、自主制作映画で我慢しますと言うのは、自分はなんかおかしい話なんじゃないかなって、率直に思うんです。演劇で(ここでは盛岡の演劇と書いた方が良いかな)認められなかったから、映画に流れてきた。でも、演劇はやりたいです。いや、演劇と言うところからやっていますというのを出そうとしている。何か違うなって。
もっと、こだわらなくても良いんじゃないかなって思う。映画が作りたいんだったら、映画を作れば良いじゃんって思う。僕らがよく使っていた「映画+演劇」というのも、結局はその「リンク」がおもしろいから、それを宣伝の目玉に使っていたわけで、当事者たちはあんま意識していないのよね、そういうこと。観客のみなさんに、その掛け合わせで起きた化学反応による「生成物」がおもろいぞ!ということを訴えていたわけで。
観客にとっては、インディーズ映画はインディーズ映画なわけで、もっと厳しく言うと、インディーズ映画でもメジャー映画でも、映画は映画。映画もドラマも、劇物として同じなのですよ。そこで、うちらはこういうジャンルで作っていますって言っても、ナンセンスだと思うんだよな。
「盛岡のインディーズムービーの風は終わらせない」って、どこが終わったんだよ!とツッコミをいれながらも、ならば楽しみにしてるぞい!って思う。最近、思うのが全ては作品次第である。どういう作品をどのタイミングで、どこで出すかが、全てである。何言っても、作品がOKなら、OKなんだよね。極論は。
と言う、話を展開しているが、正直言って、自分が作り手として求めている者と他の人たちの求めているものの乖離が進んでいると言うことは、なんだか感じているので、これが正論ではないかもしれないけれども、アラカワ正論です。