形は光
国立新美術館で催されていたモネ展に駆け込みで訪れてきた。モネの睡蓮を見たかった。展示の入り口付近の混雑を避け、最後の方に展示されている睡蓮の絵たちの前にと急ぐ。
絵を前にして、なんだかこみ上げてくるものがあり、泣いてしまった。確かに、直島で見た睡蓮の方が大きくて絵としての存在感があるのだが、ちょうどタイムリーにこういった絵を見ると、何かに打たれたように細胞が騒ぐ。
形状は骨格が表すのではなく、光が表すのである。最近、そんなことを考えていた。特にも、情報の、その形状は、光のようなものの干渉の中で形状を「語る」のであって、これといった形状は持たない。その分、様々な状況によって、その干渉は変化し、光によって形づけられるように認められる形状は変化し続ける。骨格をつくるということは、光の変化の一要素をつくることであって、そのもの自体をつくり出しているとは言えない。
僕らが、認める形状とは、その変化の一瞬である。生々流転。
この感覚(水という無形のものを描いている点)は、横山大観の「生々流転」の画巻にも通じてくる。
モネの光は、何となく今自分が目指している、世を形づくるための表現としてのヒントがちりばめられている。
もう一回、直島に行ってあの睡蓮を見てみたいような気がする。