駅裏
via! 完成が近いラウンドワン - 愛LOVEもりおか★徒然日記 - Yahoo!ブログ
盛岡駅西通り、ちょうどマリオス裏に建築中の複合レジャー施設「ラウンドワン」、
工事用シートが外されはじめ、その姿が現れて来ました。
盛岡の駅裏に、また何かできつつある模様。マッハランドなものができるのかな。
お盆に帰るときは間違いなく、浦島太郎状態。
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盛岡駅西通り、ちょうどマリオス裏に建築中の複合レジャー施設「ラウンドワン」、
工事用シートが外されはじめ、その姿が現れて来ました。
盛岡の駅裏に、また何かできつつある模様。マッハランドなものができるのかな。
お盆に帰るときは間違いなく、浦島太郎状態。
良く僕らは、人に正論を求めてしまう。こうであるべきだ。こうすべきだ。と、よく他人に口をついてしまう。しかしながら、人というのは正論だけでは動いていない。多くの間違いの繰り返しの中にいるようなものだ。自分の場合、とりわけ、プライベートでは間違いだらけ。エラーとコンフリクトの固まりだ。「キミはいつもそういう間違いをする」とそんな間違いから自分が評される。正論ができたからって、チャーミングではない。間違いの組み合わせやその大小が、その人の個性なのかもしれない。不思議なことに、正論からではその人の形は見えてこないのだ。なぜならば、正論は社会の共通項であり、公約数でしかないから。
インタフェースをデザインするときに、どうしても、ユーザに対してこうして欲しい。という希望をデザイナは持つ。そして、ユーザに、その希望に添って欲しいという期待を持つ。しかしながら、その期待は裏切られることが多い。だから、いつでもインタフェースのかたちを皆が追い求めている。
果たして、クリティカルパスとも言えるような一本の道筋を用意するだけで、デザイナの希望と期待を叶えてくれる形状が生まれてくるのだろうか。残念ながら、ユーザは、どこをクリックしようかと悩み、違うところをクリックして、アプリケーションの無反応っぷりにあきれつつも、いくつかの間違いの中からデザイナの期待する動作を見出す。そう考えると、間違いの積み重ねから、本当の形状が生まれてくるような気がしてくる。それは、逆説的である。正論としての張力と間違いとしての張力のバランスが取れた状態にあるものの「かたち」なのであろう。
間違いの積み重ねからかたちが表れてくるやわらかいインタフェース。そんなインタフェースが欲しい。きっと、デザイナの思う正論より、使う人の希望と期待の裏返しによる「間違い」が、インタフェースの個性をつくり、チャーミングなかたちをつくりだすように思える。