表層の多層性について
このアルバムを聴く度に、表層の2層化ということをいつも考える。教授のピアノが近いところで奏でられ、シーケンサから送り出される音が奥行き感を持って流れ、手前に聞こえるピアノとは違う時空間をつくり出す。しかしながら、この空間を異にするように思える二つのパートは密接な関係性を保持しながら、それぞれの時系列を刻んでいく。
グラフィック要素というのは、制作過程でいくつかのレイヤー(層)をもってつくられたとしても、出力された時点で視覚として一つの層でしかない。つまり、一つの表層である。また、表現を明確にするために、デザイナはその主題が、マクロとミクロというレンジの間のどこに存在しているかを見つめ続け、位置取りを図る。すると、そこには良い意味で一元的な存在が生まれる。
しかしながら、世の中の事象というのは、マクロとミクロの間の様々な現象が絡み合って、生まれるものであって、近景・中景・遠景を見据えた捉え方をしなければ、ものごとの本質、かたちを見出すことはできないのかもしれない。
二に限定する必要性はないが、そういう意味において、表現としての表層では、多層であることが求められるのだろう。意味性において、「多」様性であることは然るべきことかもしれないが、表層においても、多層であることは重要なのではないかと思えてやまない。
身近なセンスウェアとしての表れと、そのセンスが捉えた現象を生み出した大きな流れを表現すること。それが、使い手にとってインタラクティブな要素であると言うこと。これらが、うまくかたちを成したときに、とても刺激的な表れが生まれるのだろう。