花びらとの戯れは、一期一会
最近、話題に良く上がるiPhone。インタフェースが話題になった、あのジョブスのキーノートで、自分が一番印象に残っているのは、iPhoneのインタフェースでは無い。
ジョブスが携帯電話を再発明したという発言の下りで、引用したアラン・ケイのこんな言葉が、強く印象に残っている。
「ソフトウェアに対して本当に真剣ならば、独自のハードウェアを作るべきだ」。
この言葉の出典元の前後の文脈はわからないが、ソフトウェアとハードウェアの境界を越えたところに、本当のデザインがあると言うことではないだろうか。そう考えると、ブラウザの中に閉じ籠もっていたり、ハードウェアオリエンテッドなデザインというのには、何か閉塞感を感じる。
勉強すべきことが多い。そして、コラボレーションすべき他分野の人が多い。と、最近の仕事のことで思う。建築やら家具やら、学ぶべきことが多すぎる。いや、多すぎて、自分は幸せであると再認識するのであるが。
限りなく移ろう壁画。ここ最近、自分が求めている一つのテーマである。大学時代から妄想してきたことの一端を2007年、実現しなければならないと、焦燥感と期待感を持って、プランを練っている。自分が、いわゆる映画というものから、インタラクティブなものに転じた一つの理由は、「一期一会」という儚いものへの強い憧れである。ことのころ、このことを強く思う。確かに、それは作者が意図とした映像ではあるが、その状態は一瞬でしか生まれず、その一瞬を生み出す要素は固定されたものではなく、常に流体する世界の状態であり、そこに存在する人が生み出すものである。それは、舞い落ちるサクラの花びらに戯れると、花びらが舞い上がるようなもの。そこに、人という存在が何かの影響を与えることで、常に変化し、最後には、ランドスケープまでも左右するようその一つになり、「個の群像」というものを描く。