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2006.07.07

デザインの窓

*** tamalog | デザインの窓 第2回 面出薫編

ELPが主催するデザインイベント「デザインの窓」のログ。

君はアブノーマル

その表現は使わない

「最近、忙しい?」とよく挨拶のように交わされる言葉だが、忙しいという表現はなんとも切ないので、「充実している」という言葉を使おうかと思う。はい、充実しています。

今日は、5件のミーティングを朝からこなす。ここまで来ると、頭の切り替えが大変であるが、それぐらいプロジェクトが進んでいるということ。加えて、いろんな世界の話を知ることができる。

まぁ、そのおかげで結局、盛岡デーには足を運ぶことができなかった。実際、どうだったのでしょうか?

スーパーノーマル、一期一会

先週、スーパーノーマル展に行ってきて、その際に買ったパンフのような冊子を電車の中で、ようやく読む。ノーマルを卓越した「ノーマル」、ノーマルとしての存在を計算して作られた「ノーマル」。それが、スーパーノーマル。デザインされたもの、というのは、様々な有り様がイメージされるわけだが、自分が目指すものは、デコレーション的な要素が高いものではなく、あれ?いたので、でも居てくれて嬉しい、幸せ、というような空気のような存在のものである。そういう点で、とても共感できる展示と深澤さんとジャスパー・モリソンのコメントであった。

今、自分は、二つのアプローチで情報デザイン的なものに取り組んでいる。それは、一期一会的なデザインとスーパーノーマルな日常のデザインである。

スノーメールの様に、イベントで楽しめる作品というのは、これは一期一会であり、一瞬に観客に対して、「楽しい」といった感情をフィードバックさせてあげる必要があるし、あまり何回ではあってはいけない。縁日で売られているような色がきれいで、味がはっきりしている単純さが必要だ。もちろん、そこには、奥深さも必要ではあるのだが。

一方で、日々、僕らが触れることになるようなアンビエントな情報デザインは、むしろ派手さはいらなくて、それを触媒として、その先に広がる世界、自然を感じさせるもので無ければならない。だから、デコライズされたものよりも、「ノーマル」であるべきなのである。噛めば噛むほど、眺めれば眺めるほど、いろんな感じ方ができる。そういうものでありたい。

これは、本当にデザインされたのか、と思えてしまうほど「ふつう」な在り様。しかしながら、人が本当にいいことを考えるとき、幸せを感じるときは、「ふつう」なときなのである。いかに、「ふつう」を演出するか。

わかっているはず、普通の幸せを手に入れるほど、難しいことは無いことを。ふつうっていうのは、厄介なのだ。

面出さん

事務所代表の竹村先生と一昨年から、表参道でキャンドルナイトを行っている照明デザイナーの面出薫さんをお迎えして、「デザインの窓」の2回目を催した。上の話と関わってくるといいますか、今、自分が抱えているデザイン的な課題に対しての答えがその対談の中にあった。

面出さんは、東京国際フォーラム、京都駅、そして、あのメディアテークの照明を手がけた方だ。その傍ら、都市照明の過食症を説き、ただただ明るく照らす都市照明から、陰影礼賛という考え方を持って照明デザインを行っている方だ。

彼と竹村先生の話の中で、とても反応したのが、自分の作品を触媒にして、世界を感じさせるということである。ただ明るい照明を炊くのではなく、夜の闇の美しさ、夜空に瞬く星の美しさを感じさせるデザイン。なるほどと、思わさせられる。これは、自分の「器」の考え方と相似点が多く、共鳴する。

最後の質問コーナーで、学生から、学生時代にしておくべきことを教えて欲しいという質問に対する答えの中に、若いうちに世の中の不幸せに怒りを感じる、というのがあった。彼曰く、不幸せを幸せにするのがデザイナー、と。若いうちに、怒りを感じなさいという人も珍しいなと思いつつ、でも、確かにそうかもしれないと思ったのだ。

自分自身、盛岡に住んでいるときは、怒りの塊だったかもしれない。とにかく、いろんなことに怒って、楯突いて、それへのオルナティブとして作品をつくってきた。それは、今も、大筋変わらない。それ以上は、きな臭いから記さず。