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2006.03.07

コードという脚本

久々に、24時過ぎに帰宅。でも、なぜか誘われるがままに、ご飯を食べながらDVDを観ていた。60,70年代を再現した最近のハリウッド映画を観ると、各クリエイターの職人魂というのを感じる。ここまでやるのか…という、画面から気概を感じられる。加えて、実在の人物を演じる役者の労力にも感服させられる。自分の仕事が至らずなときに、こういった作品に触れると、とても励まされる。


ノートPCで、ActionScriptを開いていたら、これを読んで、何かわかるの?と聞かれる。これが、おかしいことにわかるのだ。

コードは、台本である。脚本である。自分は、最近そう思っている。ステージに役者を配置し、彼らにどんな立ち振る舞いをさせるか。そして、観客の反応を読み、どう演じさせるか。時には、観客をステージに呼び込む。インタラクティブなものを作るというのは、さほど、芝居や映画を作るのとは変わらないのかもしれない。変わるとすれば、生身の人間に演じさせるか、どうかかもしれない。

コードとは、様々なオブジェクト(役者、小道具、音楽などなど)をどう動かすか、と言う演出を定義した脚本のようなものなのである。それを自分が作り出したいイメージと対峙しながら、練りこんでいく、これがコーディングであり、大きく言うとオーサリングになる。

キューブリックは、役者が嫌というほど、同じ演技を何度も繰り返させ、自分が納得する映像が撮ることができるまで、撮影し続けたそうだ。インタラクティブ作品も同じである。パブリッシュ(コンパイル)の数が多いほど、緻密な演出が繰り返される。

と言っても、自分が実写で映像を撮る場合は、一発OKを出すことが多い。新鮮味と役者の素材感を大切にしたいというのがあるからだ。では、インタラクティブメディアにおける新鮮感とは何か。それは、一期一会の形状と気付きであろう。

たまに、アラカワはもう映画を作らないのか?と尋ねられるが、作らなくなったのではなくて、個人的には、作り方が変わっただけだと思っている。映画を作っていても、映画を作っていたのではなかったのかもしれない。ただ、そのときに、映画と言うメソッドに惹かれていただけなのかもしれない。


一つ変わらないことがある。それは、脚本にしろ、コードにしろ、それを書く以前にある思想と言うのが、映画の本質であると、信じていることである。映画監督は、思想家でなければならない。その考え方は、今でも変わらない。