その音は、チェロなのか、コントラバスなのか
iPodで最近聞いていなかったミュージシャンのアルバムを選ぶ。ストリングスが心地よく、じっくりと入ってくる曲が流れてくる。はて、この音は、コントラバスなのか、チェロなのか。この奥底に、上のきらびやかなメロディラインとは違う音を奏でる楽器は何なのか?確かに、低音部に、その存在は認めることができるが、それはひとつなのか、ふたつなのか、そして彼らの名前を聞き分けることができない。
今の自分が持つ、デザインの解像度は、まだまだそのレベルなのかもしれないと、その曲が終わった後に、ぽかーんと思った。対象物のいくつかの層を見出すことはできても、表層の下に横渡る層を未だ見極められていないのではないか。映画や演劇のストーリーも、深いところに水脈のように流れる根底的なストーリー、思想というのが、その作品の奥深さを決定付ける。自分のデザインには、いや何かを見つめる視線には、その深層に姿を見せるものを見抜いていないような気がしてやまない。奥深さがあるのだろうかと、己と己の作品に対して、いつも疑問を呈している。
それを見抜くということは、観察できるということは、解像度の欠如を取り戻すことなのか、それとも解像度の向上なのか。
恐らく、こういった考えが、先日の「陰と陽」の話につながっているのかもしれない。ふとおもった、引っ込み思案のデザイン。その存在感は小さいように思えるが、実は大きいのかもしれない。
最近、ペンのように愛せるメーラーのデザインはないのだろうかとか、そういったことも考えているのだが、どちらにしても、ただ目立ちたがりであるとか、ただかっこつけているデザインとは、自分はどうも、合わないようだ。形を語るよりも、気持ちを語る。そういうアプローチの方が、やさしいデザインを生み出すような気がする。