君臨する完成形
この二日ほど、ブルーになる事項があって、とほほ。仕事 a GO GO!!なときは、移動中は大体、新書などを読んでいるのだが、こうなってくると小説に目を通すようになる。
昨日の夜中に、岩渕の撮影のため、自分の部屋を飾り付ける。六本木から小道具を持って、なんと岩渕の運転で、246を抜けて三軒茶屋から世田谷通りへと抜ける。いやー、岩渕の助手席に乗っちゃったと、相方に言うと、その反応は「こわっ」。確かに。
朝の5時ぐらいまで、セッティングを行う。タカヒロと岩渕が、夜中なのでこっそぉーりと作業を。まるで、夜逃げや本舗。自分は、傍らでデザインワークをぽちぽちと。
ぐらぐらと頭を揺らしながら、ミーティングに。福富さんから、なんともサイバーバンクな怖い話を聞く。個人的には、福富さんは、甲殻機動隊のバトーに似ていると思う。その上、Wearableだから、なおさら…。
ユビキタス手水鉢の調子が悪い。単純に、時間(リソース)を配分できれば解消できると思っているので、作り手としては歯がゆいと言うか、悔しい。精神衛生上、よろしくない。直訴して、時間をつくることに。
コンペに、ぼろぼろと仕事作品3本を出品。種を蒔いたという感覚でしょうか。果たして、花は咲くか。
良いクリエイターの条件って、何か?という話が出ることがあるが、なんだか、自分自身には明確な答えは未だない。しかし、言えることは、直感的でありながらも、深い考察ができることが求められることではないだろうか。あとは、白鳥のようにいられるかである。
白鳥は優雅に水面を泳ぐが、実は水面の下では、バタバタと水かきを動かし進んでいる。それは、水面に現れる優雅さとは別なものだ。何か、人に提供されるものは、何であれそういった要素を持っている。何か完成形があるものには、いくつかの過程があり、捨てられた案がある。その案の上に、完成形が君臨している。その捨てられた案について、自分自身はかわいそうだとは思わない。完成形がすべてであるから。もちろん、その仕事におけるスタディが、別なプロジェクトに反映されることもあるが、それはスタディのアウトプットであり、完成形ではない。
たまに、これ、ボツったんですけどって、未練たっぷりに見せられることがあるのだが、そういうのを公開して、何に意味があるのだろうと疑問に思うことがある。すべては、完成形のために、わたしたちは魂を込めるのだと思う。
完成形の形がすべてあり、それが必然であり、自然な存在であること。それが、今、自分が求めている「かたち」である。
しかしながら、君の存在は、必然であり、自然である。それは、永遠に未完成であるが故だからだ。