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2005.09.15

流れの中にあるきれいの意味深さ

candle scapeの冬至バージョンの打ち合わせをする。すっかり、メインクリエイターになっている。今回は、一気にスケール感と共鳴感が広がるのではないかと思います。

一昨日だったか、本屋に行ったらGROOVEの最新号に、ソフトアドバンスのKazagurumaなどが特集されていました。VJ特集だったんですね。大学時代に、こういう特集を食い入るように見ていたなぁと思い出しました。

揺り返しなのか、VJもやっぱり面白いなぁと思いつつ、でも、Kazagurumaより風立だよな、と思ったので、さて、何でそんなことを思ったのかと、考えてみる。

先日、他の方のBlogで、Max/DSP的なパッチ系シーケンサの存在を知って、無限ループ的な楽曲という音楽の在り方もあり得ると改めて再確認した。このあたりは、ブライアン・イーノなど、先駆者たちがたくさんいるわけだが、まだまだ一般的ではない。この時代、FlashやQuartz Composerなどをプレイヤーとして、プログラミングされた音楽を配布して、永遠ループによる再生なども可能ではあると思うのだ。

映像にも、そういった在り方があるのではないかと思う。なぜ、そういった無限ループ的な表現とVJの話が混在してくるかというと、VJというのには、そういった要素が非常に強いということである。

kazagurumaより風立の方が無限ループの移ろい感があるなと思ったのが、上での発想の始まりでありまして。

VJというのは、一晩中クラブ空間に映像を流し続ける無限ループのように。先ほどから言っているループというのは、単なる繰り返してのループではなく、エンドがないループという意味である。エンドレスなシーケンス。実は、自分はそこに惹かれているのかもしれないと、ふと思ったのだ。加えて、VJは雰囲気をつかんで映像を出していく。環境の情報をプロセッシングしながら、映像を組み合わせていく。環境情報の可視化という自分が前から興味ある分野と密接に関係している。

加えて、VJには、音楽といった要素が含まれており、VJがコンピュータを使っているという点でも、自分には親しみやすいものがあった。生でパフォーマンスするという興奮も、他では味わえないものがある。

しかし、このところ、自分は別な流れでVJというもので、感じ取ってきたものを具現化しようと試みているのかもしれない。クラブという一種の特殊空間から、カフェや一般家庭などに置かれるファニチャー的な物への展開である。

単なるBGVを演出しているのではない。そこに「在る」ということを演出しているのだ。そして、そこに在るということに生まれる「流れ」を演出するのだ。と、自分は思っている。相互作用というのは、流れの中にあり、流れを生み出すものであるのではないだろうか。

と、真面目なことを書きましたが、イヤー、あれなんですよ、VJの時と同じで、女の子が「きれい」と見惚れてくれたら、それでOKなんですけどね、はい。

と、不真面目を装ってみましたが、その「きれい」の意味深さが変わってきていることは、確かかもしれない。