淡いグラデーションと透明な存在
昼に大手町カフェに顔を出し、その足で上野の国立博物館へと行く。お目当ては、特別展「遣唐使と唐の美術」。思ったよりは、規模が大きくはなかった。しかしながら、当時の器などの展示が良かった。あの色合いなどは、感嘆する。感動して、少々涙ぐんでしまった。
東洋館で展示されていた、中国の書跡 特集陳列「市河米庵コレクション」も良かった。特にも、水墨画がとても良かった。今回、すっかり水墨画の虜になってしまった。
足がクタクタになってしまったのだが、心躍るといいますか、良い作品を見ると魂が騒いできて、ああいいものを作りたいなと単純に思えてくる。やはり、筆を休めることも大事である。心から作りたいと再び思うまで、心を休めるときも必要なのである。ということで、現在はノリノリである。
本人は否定しているが、相方の調子がおかしい。急遽、盛岡に帰ることもあるかもしれないので、皆様、あしからず。自分が東京で思う存分良い仕事をできるのは、相方がいるからであるので。
透明な絵、透明な音。そして、透明な感覚。何か人に感じさせる余白。
余白とは余裕なのか。そこから生まれる創造性。紐解いてみたいものである。