形状と原形
棚からぼた餅で、丸ビルを歩く。こんなショップがあったのかと歩く。丸ビルは、六本木ヒルズよりも歩きやすい構造になっていると思うが、どうもテナント系のビルというのは、歩きに行く印象がある。今、自分がどこにいるのか、そしてどこへ歩いて良いのかが構造自体からイメージしにくい。これは、インタラクティブなことにおいても同じことであろう。自分が、どこに行けばいいのか、そしてどんなことを期待できるのかをある程度提示する。そうしなければ、ジャングルの中にさまようことになってしまう。まだ、ジャングルという風景が見られている内は良いが、仕舞いには暗闇をさまようことになってしまう。
知り合いの方が、建築とインタラクティブなものに関しては、そういった構造的なところで共通点があり、建築のような体系化を行っていかなければならないという話をしていた。確かに、建築というか、自分がその世界に入り込んだときに、どんなことが発生するかは建物の中において考えると、よくわかるような気がする。
棚からぼた餅で、「デザインの原形」を買う。
映画監督や演出家というのは、思想家でなければならないと思って、インディーズ映画をやってきた。良い作品をつくっている人たちには、何か一貫として伝えたいことがあって、それはただ美しいとか、かっこいいとかではなくて、もっと深いテーマを持っている。顕著な例で言うと、宮崎駿などは、そうだと思う。
デザインなどの形状は、奇をてらって自分の個性をだなくても良いのではないかと思う。個性とは、人柄ではないがにじみ出てくるものである。考えられた形状、つまり何かの問題解決、問題提起と提案によって生まれた形状には、そのデザイナの考え方が反映されている。その考え方が形を現したのが、形状である(インタラクティブなものに関してはどのようなユーザ体験を持たせるかも含まれる)。この物が、どのように使われて、どんな風に人々が楽しみ、そして彼らの周辺、社会が変わっていくのか。
最近、自分は仕事の対象物に関して、とにかく深く掘り下げて、そこから戻ってきたときにどんな答えを自分が持っているだろうかと言うことを見出してみたいと思っている。きっと、そこに形状への答えがあるような気がする。といって、はたからみると考えすぎのように映るようだが。
自分は、政治家でもないし、市民活動家でもないが、デザインやものづくりという分野で世界に対して提案や問題解決をできるのではないかと思っている。それは、確固たる思想というか、社会はこうなっていくべきだという信念のようなものが必要だと思う。そういうのを、胸を張って持てるようなものづくりにならなければ。そして、そこから原形と言われるようなものを生み出せるとすれば、それは文明のへの喜ばしい寄与なのだと思う。
でも、一番大切なのは、隣にいる人を笑顔にすることかもしれない。
そこから、世界を笑顔にする何かが生まれるのだと思う。